◆「内定への一言」バックナンバー編

フリーターとは、過去からの難民だ」





この週末、FUNでは合宿を行うとのこと。発足以来、連続で参加してきた僕も、今回は参加しません。もうそろそろ、社会人が顔を出すのは控えようと思うのと、最近全く休みを取っていないからです。

本当は、最初から参加して、皆さんの生き生きとしたプレゼンを聞き、一人一人の成長や達成を見届けたくてたまらないんですが、少し間を置くのも大事だと考えました。

「油山での合宿」は、創設者である安田君が、サークル発足前から夢に見て、実際に下見にまで行って、「将来、きっとここで夢を語り合う時が来る!」と言っていたこと。それが実現したのです。それだけで僕には十分嬉しいことです。

合宿を休むからと言って、ただぼーっと休むことはしません。

普段より緩いスケジュールではありますが、明日は福岡女子大学、筑紫女学園大学、福岡大学の学生さんに「貸借対照表」の読み方を教えることになっています。

僕は「使える会計」を教えることに、一種使命感めいたものを感じていて、会計を知らない人、つまり貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書の3つの書類を駆使できない人を見ると、無条件で教えたくなるのです。


昨日のメルマガに対して、早速「創業者を検索しました」、「創業者の考えって面白いですね」、「自分が求めていた以上に深い志望動機が得られました」といった感想を頂きました。

そんなご感想の中、「小島さんは、どんな思いで創業したんですか?」という質問もありました。

本メルマガは基本的に学生向けで、何か営業目的の案内をする時も、それはサークル運営経費に貢献する範囲内の案内に限定し、僕は一度もFUNで自分の仕事の営業を行ったことはありませんが、今日は少しばかり、業務内容をご説明しようと思います。


ご存知の方もおられると思いますが、僕の会社では主に、「フリーターの再就職支援」をやっています。転職希望の社会人もお手伝いもしますが、8割はフリーターの再就職支援です。

というより、「再」と呼ぶには長すぎるブランクを持っていて、履歴書の段階で「お断り」とはねつけられる若年者の再資産化が業務内容です。

金なし、ヒマなし、信用なしの「トリプル安」を達成して、家族や友人から全く期待されず、「お荷物」として迷惑がられている若者を、夢でギラギラ燃えるように教育し、「仕事って楽しい!人生って素晴らしい!」と言うまでに再建するのが僕の仕事です。

仕事はどのようにもたらされるのか?

それは、99%が「紹介」です。僕のやっている仕事は珍しいので、必ず人は業務内容を質問します。聞かれれば、印象深く心に残るように答えます。

その答えを覚えておいてもらえば、後日、その人は「仕事やめたい」、「会社が嫌だ」、「転職したい」という人に会った時、自動的に僕のことを思い出し、連絡してくれる仕組みになっているのです。

一番多く紹介してくれるのは、最近はなぜかFUNの学生さんです。バイト先の先輩、昔の同級生、彼氏さん、友人…など、自分にとって大事な人が仕事や経済的な事情で困っているから、なんとかしてほしいという相談を、毎月のように受けます。

22歳以下であれば、手数料は頂いていません。まだやり直しが利く年なので、簡単な相談で様子を見るにとどめています。

ところが、お断りできないほど深刻な相談が多いのは、「保護者」です。


皆さんの中には「信じられない」と思う方もおられるかもしれませんが、世の中には、

「昔、生徒会長」、「昔、優等生」、「昔、社交的なリーダータイプ」、「昔、活発」…

だったのに、社会に出るや、何らかの原因で「引きこもり」や「早期退職の常連」になり、数年間、うだつが上がらないままに過ごしている若年者が案外いるのです。

本人たちも、昔の活発で明るかった自分を覚えているだけに、自分の身に起こった深刻なスランプを認めきれず、強がりながら一人で問題を隠すうちに、いよいよ事態は修復不可能なまでに悪化して、いつの間にか25歳を超えてしまった…という人が多いです。

「昔」と比べられ、「周囲」と比べられ、「兄弟」と比べられ、「描かれていた理想」と比べられ続ける今。

何とどう比べても、「今の自分」は著しく劣っており、失墜したプライドが完全に崩壊するのを食い止めようと、おそらく、恐ろしいほどの孤独さに耐えながら、自分を保っているという若者もいます。

周囲から投げかけられるのは「ため息」か「同情の言葉」だけで、一応心配してくれてはいるものの、本気で相手にしてくれるわけでもありません。

そんな周囲の扱いにイライラしながらも、何も結果を出せず、周囲に影響を与えられない自分が悔しくて、いつの間にか卑屈な態度や愛想笑いが習慣化してしまい、いつもいつも「他人の顔」を気にして生きるようになってしまった…

そういう我が子を見て、涙を流しながら「あの子を助けて下さい」と言われる保護者の方も多いのです。

はっきり言って、こんな人たちは派遣会社からも人材紹介会社からも見捨てられ、「マーケットの外」として相手にもされていません。

男性なら、平均で「6ヶ月」バイトを続ければ、つまり「フリーター」の状態を持続すれば、転職・再就職は履歴書だけで「アウト」です。というより、バイトなどいくら頑張っても「職歴」ではありません。

学生なら「学業」という本業があるので、バイトは立派な「副業」たるニュースの性質を持ちますが、卒業して「バイト」だと、「社会不適応」と見なされ、明らかに差別的待遇を受けます。

「夢のためにバイトで貯金してました」と言おうものなら、「親の援助で生きていて何が夢だ。この甘ったれめ」で終わり。

「本当の自分を探そうと思って就職はしませんでした」と言おうものなら、「その、優柔不断で自活もできない、情けないおまえが本当の自分だ」で終わり。

「一応、家賃と食費は入れています」と弁解しようものなら、「それ以外は援助されなきゃ生きていけないってことだな」で終わり。


「同窓会」の知らせが来ても、見送り…

「飲み会」の知らせが来ても、見送り…

「近況」を聞かれては、「今、会社を探してる」とごまかし…



家庭内でも何も進展せず、地域では「あの家、おかしいんじゃない?」と怪しまれ、仲間内では「あいつ、大丈夫かな」と心配され、時間だけがたっていきます。

そういう、内外共に孤立無援の状態で時間だけが流れれば、どうなるか。

それは、「どうにもならない」のです。要するに、「今のまま」で年だけを重ねるという、失敗よりも恐ろしい試練を課されるということです。

人が、とりわけ若者が、長期に渡って「無感動」の状態を継続すれば、一体どうなってしまうのか。

それは、恐ろしいほど人間不信になり、猜疑心と劣等感で自分を痛めつけ、全ての情報を疑ってかかるため冷笑的になり、人に会えば「どうせバカにしてるんだろ」と攻撃的になるか卑屈になる…という結果を迎えます。

会話には必ず「とりあえず」、「一応」、「なんとなく」、「時間があれば」、「できれば」などと、半身引いて相手の出方を窺い、その反応によって自分の態度を決めるという臆病さが表れ、心身ともに疲れ果てていきます。

友達との交流もシャットアウトし、親と会っても「ごはん」、「風呂」くらいの「単語会話」しかしないようになり…

あとはテレビかゲーム、パソコンという生活を長々と続けるわけですから、当然、思考や想像は「表面的な感覚」の部分ばかりをさまよい、すごいペースで幼稚化が進んでいきます。

ですから、こういう状態が続けば続くほど、転職や再就職はほぼ「不可能」になり、よくて「公務員学校」か「通信教育」をやるくらいで、全ての人間らしい人間関係が失われていきます。


「人、自ら侮りて、然る後に人、これを侮る(孟子)」。

要するに、「ある人が自分をバカにすれば、人も一緒になってその人をバカにする」で、自分で「過小評価した自分」は、時間の経過に従って、「本当の自分」になっていくのです。

母親はそのような息子の転落を見ながら、何かしてあげたいと思っても世間のことがよく分からず、抽象的な言葉で励ますか、専門学校の費用を出してあげるくらいしかできず、父親は「放っておけ」の一点張りで、子供は「構わないでくれ」と孤独に耐えるばかり。

そういう家庭からの「SOS」が、どこを経由したのか分かりませんが、僕のところに届けられるわけです。

保護者の方は、まさかそういう「フリーターの再就職専門」の会社があるとは思ってもいないわけですから、それこそ「神頼み」のような悲痛な表情で相談に来られます。

そこから、「未来旅行の添乗員」たる僕の仕事が始まるわけです。

僕がこのような、若年者の再就職支援を細々とした規模ながら、事業化しようと思ったのは、帰国してからの経験がきっかけでした。

僕は19歳で中退し、20歳から働き始めたため、二社目の「経済誌の記者」の仕事に転職した頃は、ある程度、仕事への感覚的な慣れを持っていました。

というより、一社目の海外勤務の仕事で求められた生活適応努力が日本では経験できないほど非常識だったため、日本の会社はなんと楽なのか、と心の余裕が生まれていました。

僕はあまり教育は受けていませんが、その分実務では同期を時間的にも質的にも先取りしていたため、僕が転職した時に「新卒で入社」となった同級生が、日に日に「やめてー」、「きちー」、「むかつくー」と言う姿を見て、どうにかできないものかと感じたわけです。

確かに仕事はそれほど真面目ではないにしても、本心から思っていない「むかつく」、「やめたい」、「きつい」といった言葉を、周囲に同調して口にしているうちに本当に「できない奴」になり…

昔は目が輝いていたのに、会うたびに柳橋連合市場に売っている「魚の目」みたいな表情になるのを見て、正直、耐え難い思いでした。

かたや、記者業務で会う経営者は、「仕事が楽しくてたまらん!」、「休みなんていらん!」、「また儲けすぎてしまった!」、「もう世界旅行は飽きた」などと言っているのです。

同じ時代に、同じ業界で働いていて、同じ商品を扱っているのに、経営者とサラリーマンでは、働く意識も働き方も、仕事の実感も収入も、あまりに大きすぎる差があるのを感じました。

若い頃「やりたいこと」をやった人は皆、「過去からの難民」たるフリーターとなり、欲を抑えて「やるべきこと」に専念した人たちは、幸せに儲けまくる成功者となっていました。

もし僕が、ちゃんと大学を出て普通に就職していれば、このように鮮明な差を感じることもなかったのでしょうが、若干早く働き始め、しかも交友層が広くて、経営者と接する仕事を担当したものですから、「職業観」の差は痛いほど感じました。

「仕事が楽しい」と言い、結果も出していて、収入も月収100~200万という人は、例外なく仕事の「会計的な仕組み」を理解しています。

一方、精神論か唯物論でしか仕事が見られない人は、業界名か商品の内容だけで仕事を判断し、いつもいつも「休日」か「旅行」のことを考えています。

僕は、腐りながらもまだ心の底ではまじめさを失っていない同級生に対しては、色々と相談に乗りました。

そして、「経済記者」であったことから普通の人より豊富な知識を持っていた経済、経営、会計を分かりやすく友達に紹介し、転職を提案しました。

一方、「いい人材」を求める社長さんにも「求める人材像」を聞き、熱心に友人を紹介しました。

こういうことは、当時は「事業案」として練習の位置付けでやったのではなく、本当にお世話になった社長さんを応援したり、あるいは、昔の友達を手伝ったり、というささやかな善意から行っただけでした。

しかし、「君の説明は分かりやすい!」と、どの人からも喜んでもらえたのです。

学歴も資格も何も持っていない僕ですが、誰に会っても必ず「上手」と言われる唯一のスキルは「説明」でした。その説明は、単に事実を羅列するのではなく、心を動かす力がある、との評価を頂きました。

ということで、僕はこの自分に恵まれた天分である「説明能力」を生かして、何とか社会の役に立てないだろうかと考え、その線で独立計画を練り始めたわけです。

ちょうど、24歳になった頃のことでした。

記者の傍らに行った転職斡旋、職業紹介、業務説明、採用支援は、5~6件ほどでしたが、いずれも双方から「ありがとう!」と喜んでもらえたものばかりでした。

「その人が一番その人らしくなれる仕事」を見つけるのではなく、正確な定義と会計的理解から確立し、「社員が最も力を発揮できる業務理解」を社長さんや人事部長に成り代わって模索し、提案する。

そして、手数料、つまり「収入」を頂く。

こんなに人から喜ばれて、しかも社会に必要とされる仕事があっていいのだろうかと、当時、僕は天下を取ったような気分で喜びました。


創業後、色々と苦労や失敗もあり、思った通りに全てが運んだわけでもありませんでしたが、僕のこういう能力や性格を最も深いところで求めてくれた人々は、「フリーターとその保護者」でした。

誰が何と説明しても「ふん!」、「だけん何」、「嫌だ」、「信じられん」と疑う話を、僕が話せば「まじっすか?」、「感動しました」、「自分でもまだ間に合いますか?」と言わせられます。

それどころか、今までは数年間、漫画かゲームかエロ本しか買ったことのない人間にさえ、僕は「ビジネス書」を買わせることができます。もちろん、読ませて理解させることもできます。

ある保護者の方が、「社長さん、うちの子が…本読んでます。…何か失礼なことでもしたんでしょうか」と不審がって電話してきて下さった時には…

「いいえ。○○君は、今日からオレは違う。絶対に成功するんだと、その本を自分で買われたんですよ」とお伝えしたら、お母様が電話口で泣かれ、僕も心から感動した覚えがあります。

誰からも見捨てられ、誰からも相手にされず、嘲笑と軽蔑の的になり、自信と希望を失った若者が、再度希望を取り戻し、未来への煮えたぎる挑戦意欲を取り戻して、勇ましく自分を奮い立たせる…

「あまり儲からなくても、このような仕事を行う経営者が一人くらいいてもいいだろう」と引き受けていたら、いつの間にかこれが僕の仕事になってしまいました。


ということで、詳しくは「会計教育」を通じて得た自信と希望による具体的な将来設計の支援を行うのが僕の仕事です。

同時に、フリーターがフリーターのまま会社に電話しても、「プーお断り」となるだけなので、「小島君の紹介なら会ってみよう」という橋渡し役を務め、信用供与の機能を担当するのも、僕の仕事です。

僕の仕事は証券会社、ベンチャーキャピタル、旅行代理店、広告代理店、人材派遣会社、人材紹介会社、コンサル会社、学習塾、ソフト開発会社の業務が複雑に入り乱れ、シンプルに統一された形の「未来旅行代理店」業務であり、その目的は「成功まで離さない添乗員」となることです。


吉田松陰は、「孔孟、生国ヲ離レテ他国ニ仕ヘ給フコト、相済マヌ事ナリ」と言いました。

「孔子、孟子は優れた治績は残したが、自分の生まれた国を離れて他国に仕官を求めたのは、情けないことだ」という意味です。

お世話になった故郷や、身近な友達を捨てて、大都会や外国で働くのがかっこいいという表面的な理想に幻惑され、居場所でも勤務地でも不発に終わるような生き方を、松陰を「否」としたわけです。


僕も若い頃、外国で働くことの方が、日本で働くのよりもカッコよくて、なんだかレベルが高いことだと思っていました。

というより、勘違いしていました。

途上国支援のような「利益」を超越した崇高な目的で働くことは、単なるサラリーマンとして狭い地域で「家と会社の往復」に人生を費やすよりも、価値があると思っていました。

でも、日本の歴史を学ぶにつれ、そういう「見栄」で働くのは下の下であり、自分の居場所や故郷で役に立てない人間は、どこに行こうとモノの役に立たないことを感じました。

それより、後に続く者を信じ、ただ自分の居場所で最善を尽くし、生くるも死ぬも天に任せ、自分は自分の使命に邁進する生き方こそ、真に美しく誇り高いものだと感じました。

今でも、心のどこかでは大都会や外国で力を試したいと思う気持ちもないではありませんが、そんなことを考えるのは、福岡、九州を制覇してからでよい、と吹っ切れています。

目の前に失業者がいるなら、応援しよう。

フリーターが自分を頼るなら、全力で手伝おう。

経営難に陥っている社長さんがいれば、力の限り応援しよう。

学生が知識や考え方を求めてくるなら、惜しまず全てを捧げよう。

こういうシンプルな決意で働くようになってからは、不思議と業績も上がり、無用な執着や迷いが消えていきました。


政治的迫害や国際紛争で、住む家や食事、居住地や職業を失い、本当の「難民」と化した人々もかわいそうです。

しかし、いくら衣食が足りているとはいえ、先進国で生きがいをなくし、ただ心臓が動くだけの時間を「人生」と錯覚し、無感動、無反応のまま老いていく若者も、苦しんでいるのです。

「まだ食事に苦労しないだけマシだ」という意見もあるでしょう。しかし、人の悩みは社会情勢や時代背景によって左右されるのであって、途上国と先進国の悩みを同列に論じるのは、無意味なヒューマニズムだと思います。

なるほど、食べ物がなく、文字の読み書きもできず、仕事も与えられない途上国の難民もかわいそうです。

しかし、先進国の人間がそういうやや過剰な正義感に基づいて「目の前の困っている人々」を見捨てたら、日本で希望を失っている人たちは、どうやって復活したらいいのでしょうか。

まず、身近なところで人を助ける。これこそ、社会人として心掛けるべき態度だと思います。人の悩みを解決し、絶望を希望に変えていくのに、レベルなどありません。今、ここでできる最善のことを重ねる以上に、効果的な方法が他にあるでしょうか。


ということで、僕の仕事は目立たず地味で、かっこ悪く、あまり儲かるものでもありませんが、それでも僕は、「小島さんがいてくれて助かった」、「人生に希望が戻った」と言ってくれる若者、保護者に会えれば、それはそれで、有り難い生きがいを感じているのです。

お客さんが「いてくれてよかった」と言って下さる以上に、僕だって「この人に会えてよかった」と感謝しているのです。

その気持ちは、サークルや就活コースといった、仕事以外の場所で会う学生の皆さんに対しても、等しく感じているものです。

そうやって、振り返って後ろめたいものがない日々を送る時、心の底から自信が湧いてきます。

以上、長くなりましたが、今日は僕がやっている仕事の大雑把な内容と、取り組む姿勢についてお話しました。最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます。

学生さんのお友達であれば、一切謝礼は受け取らずにお手伝いしていますから、もし身近に仕事や転職で悩んでいる方がおられたら、お気軽に相談して下さいね。

ともに「心の火種」を広げて、社会を照らす努力を分かちあいましょう。