■「内定への一言」バックナンバー編

「日本で一番新しい会社は、江戸時代に創業した会社だ」





こんばんは。昨日はいきなり読者が6人も増えて喜びいっぱいの小島です。西南アイスホッケー部のFさん、ご紹介ありがとうございます。ご期待にお応えできるよう、今まで以上に頑張って執筆していきます。

また、一昨日は、夏以来お読み頂いている西南演劇部のJさんにお会いし、演劇への情熱や学生生活、仕事にかける思いをお聞きしてきました。謙虚で素直な様子に、大変感心した次第です。

昨日は九産大の院で学ぶ中国からの留学生・Tさんとお会いし、昼からは「メーカー・商社極秘勉強会」を開催し、その後は地下鉄で偶然西南2年のHさんに会い、なんとも充実した日々です。



さて、先日のメルマガで「うちには6年テレビがない」と書いたせいか、「よくそれで生活できますね」、「情報が遅れたり、不足したりすることはないんですか?」などと聞かれました。

それどころか、FUNでやっている勉強は、会計、ビジネス、マネー、PC、スピーチ、作文…など、どれを取っても「基礎」と「古典」ばかりです。

「激動の時代」とか「変化が速い時代」という言葉を頭から信じている学生さんには、やはりサークルでお手伝いを担当する僕が「時代から切り離された生活をしている」と聞いたら、ちょっと不安になるのかもしれませんね。



ということで、今日は僕たち経営者と、世間一般の人々が考える「新しさと古さ」の違いについてお話ししようと思います。

それはきっと、正反対と言って良いほど違うし、社会人10年を迎えて、やはり僕たち経営者側の考え方の方が、どこをどう考えても、学生やサラリーマンより正
確な捉え方をしていると確信したからです。

別にこれは勝ち誇っているのではなく、素直な実感に照らして、そう思うのだという意味です。

一般に、世間では「古い」とは、「昔か今以前の時代に生まれた物事」に対して使われ、反対に「新しい」とは、「後の時代に生まれた物事」に対して使われます。

まあ、これが当てはまる分野もあるでしょう。しかし、僕はこれは根本的に間違っていると思います。こういう考え方は多分に共産主義的で、進化論の悪影響に洗脳された考え方ではないでしょうか。

それに、「新しい=良い」、「古い=悪い」という一般大衆の認識が真実なら、なぜ大衆はいつも貧しく苦しく、忙しいのでしょうか。

僕の古典好きや原典好きは、部員なら誰もが知っているでしょう。特に長く接している人は、僕が原典や原著には惜しみなく大金を投じ、遡れる限り遡って、古い文献を集めていることを、よく知っていると思います。

茶色で破れかけた本を手に取ってニコニコしている僕を見て、「また、古い本買いましたねえ」と言う学生さんもいます。

でも僕は、そういう本を最近の新刊よりも「新しい本」だと信じて疑っていません。

「新しさ」と「古さ」を真の意味で定義すれば、以下のようになります。

「新しい」とは、「いつ、どのような時代や状況の下でも適応力と融通性を発揮できること」です。

「古い」とは、「時代や社会の変化、生活の変化に対して制度疲労を来たし、既に適応力が欠落していること」です。

要するに、「昔生まれたから」といってそれが直ちに古いのではなく、昔の文物や考え方であっても、それが現代にも適用されるなら、それはいつまでたっても新しいのです。

また、「21世紀に提唱された」と言っても、それが目の前の生活を改善できなかったり、装飾は華美でも会社の経営すらままならなかったりすれば、それは既に「古い」のです。

「発生時」ではなく「適応力」を基準にすれば、世の中で言う大半の「新しい」、「古い」は間違っており、大衆の意味不明な「新しさ信奉主義」とその悲劇的な間違いも、合理的に説明が付くのではないでしょうか。

数人の部員の方は去年、『型はまり経営のすすめ』(カーク・チェイフィッツ/阪急コミュニケーションズ)を読まれたことでしょう。

「時代は変わった」、「21世紀には21世紀のやり方がある」、「発想を変えろ」、「古い手法は通用しない」…

などと、けたたましいほどの「新世紀ジャーナリズム」が跋扈していた頃、「新しいことの80%は悲劇的なまでに間違っている」という事実を、主に企業経営の面で緻密に証明した名著です。



例えば、「クレジットカード」という新種の金融手段に頼って生活する現代人は「文明的」だと思うかもしれませんが、「負債先送りに」よる生活が「タコが自分の足を食うようなものだ」と指摘した2,000年前の言葉に打ち勝つことはできるのでしょうか。

天神や博多に行けば、タコみたいなOLや学生がいっぱいいますが、この人たちは、きっと「カードは貯蓄より新しい」と思っていることでしょう。

企業の資金調達手段は、技術的にも時間的にも、明治時代とは比べ物にならないほど増え、信用制度も整いましたが、そのような「現代的経営手法」を使っている会社が、1,200もの会社・公益法人を生み出した渋沢栄一の「入るを計って出ずるを制す」という哲学に勝てるのでしょうか。

今もって、投資家が会社を判断する時の尺度は「自己資本比率」や「キャッシュフロー」であることを考えれば、江戸時代の石田梅岩や鈴木正三、明治時代の荘田平五郎や渋沢栄一の方がずっとずっと「新しい発想」をしていたことは疑いようもありません。

なぜなら、そのような普遍的な哲学や思想は、どの時代、状況においても見事に眼前の問題を解決し、たちどころに課題の所在と対策を提示してくれるからです。

精神薄弱で勉強不足の現代人は、ちょっとした変化ですぐに「激動」などと言いたがりますが、それは要するに意志が弱いだけの話で、激動の度合いで言えば、明治維新や敗戦は、バブルの数百倍のスケールの激震をもたらしています。

ライブドア事件など、明治維新に比べればアリのようなもので、あの程度の寸借詐欺はいつの時代にもあったことだし、あれくらいで「証券市場が変わる」などと言うのは、肝っ玉が小さすぎるというものです。

スポーツなどで考えても、最新の医学的研究と栄養学の研究から生まれたサプリメントを使っていたとして、大自然が生み出した理想的環境で規則正しい生活を送っていた時以上の健康が得られるかといえば、疑問です。

コミュニケーション理論にしても、家族制度や地域コミュニティがしっかりしていた時代の寺子屋教育に打ち勝てるだけの教育を、現代のどの学校が提供できているというのでしょうか。

現代人が「新しいものを学ばないと」と盲目的に馬のように走り続けて落ち着かないのは、「新しい」という概念が根本的に間違っているからではないのでしょうか。

例えば、大学や専門学校、あるいは留学で勉強したことが本当に「新しい」ものだとすれば、その「目前の現実に即座に対応できる」という性質を考えれば、その人の生活や心理には、確実な変化が見られなければなりません。

しかし、世の中にはインターネットやテレビ、新聞、雑誌、はたまた海外の情報や最新のトレンドなどをチェックして、毎日忙しく「未来の準備」をしておきながら、収入も満足感も全く上がらない、という人が何百万人といます。

つまり、そのような人々が入手している情報や知識、思想や哲学は、全く新しくないのであり、いくら現代的なデコレーションや演出が施されていても、それは「古すぎ」なのです。

なんとなれば、それはその人の生活を変えず、入手・咀嚼した後も、根本的な不安や疑念を打ち消すことができないからです。

ですから、僕の目には、「テレビで最新情報をチェック」、「ネットで毎日株価をチェック」、「アメリカの情報はいつも注意している」などと言う人は、アウストラロピテクスか北京原人のように見えますね。

ですから、東京や大阪などは、日本で一番といっていいほどの「ド田舎」で、何の魅力も感じません。本当に歴史と文化を持つ国の都会なら、もっとどっしりした思想や哲学を発信していいはずなのに、あまりに軽薄すぎるからです。

その意味では、ヨーロッパの都市はいずれも中世や近代の優れた文物を残し、今でもラテン語やギリシャ語を学び、「現代人の思想力は先人には及ばない」ということを認めているようで、そこはすごいと思います。

東京には何十回と行ったことがありますが、別に行っても「日本の中心に来た」としか思わないし、クアラルンプールやバンコク、マニラに行った時の「世界の中で躍動している」という興奮とは比べ物になりません。

そういう、後発品を無目的に信奉し、数年後には消えるだけの流行を追い続ける軽薄な人生観を保って、「勘違いした新しさ」に走る人こそ田舎者であり、東京は田舎者の町でもあると言えるでしょう。

最も、東京には僕の父親の墓もあるし、叔父も住んでいて、それなりに愛着もあるのですが、東京やソウルのような軽薄な都市より、アジアの他国の「古さを保った新しさ」に惹かれるのは、そのような国々は歴史を尊重し、先人への感謝を生きがいとしているからでもあります。

皆さんは大学で、どのような勉強をしているでしょうか。

コンピュータや金融工学、経済思想などで新しい物に新種の価値があるのも、経済誌の記者として新技術や特許の取材を行ってきた僕には、よく納得できることです。

しかし、学問の効用は、「結果的にどういう人間になったか」で測るものです。どのような専攻であれ、どっしりと落ち着いた人生観を築き、ちょっとやそっとの変動ではビクともせず、目前の現実を力強く切り開いていける自信と展望を持てる時、それは正しい勉強をやっているといえるでしょう。

博多で「筆」を作っているある会社は、なんと「江戸時代」の創業です。今もって全国からの注文がさばき切れないほど舞い込み、数週間待ちでも、高くてもお客さんが存在しているこの会社は、どのような時代の変化を経ても、「先代の遺訓」を忠実に守っています。

『十八史略の人物学』(伊藤肇/PHP文庫)には、「時代が変われば考え方も変わるというが、ちょっと時代が変わったくらいで通じなくなるのは、原理原則ではない。古典にはどのような時代にも適用される普遍的な原理原則が記されており、昔の人々はこのような古典で精神を鋼のように鍛えてきた」と書いてあります。

歴史に残る大事業をやった人は、「水」が「H2O」だということすら知りませんでした。インターネットなど、その存在すら考えもしなかったでしょう。


しかし、現代人がいくら頑張っても到底なし得ないような偉大な業績を残し、「これが一人の人生か」と思うほど多種多様な挑戦を行って、見事に成功しています。

だからこそ、FUNではそのような、偉大な先人が大切にした哲学を学んでいるのです。

後からどのような「新しいこと」を学ぶにしろ、まずは「知識の受け皿」としての人生観や基礎学力を鍛えておかなければ、受け止める器もない小さな人間になるだけで、だからこそ、小ネズミのようにいつも「新しい情報チェック!」などとチョコマカと立ち回らねばならないのです。

「基本」と聞くと馬鹿にする人もいます。しかし、基本ができない愚か者だけが、「秘訣」と名付けられた高額な基本を買うことになるのです。

江戸時代に創業した会社は、生まれた年は古くても、いつも進取の心掛けを忘れず、「不易と流行」の絶妙な均衡を図る努力を忘れなかったからこそ、どのような時代の変化も巧みに乗り越えて、新たな現実に対応できてきたのです。

それを思えば、たとえ平成に創業したからといって、自分の商品で利益すら出せない会社は、よっぽど「古い」と言えるでしょう。

だから、古い時代に生まれた会社や思想、本、言葉、人物であれ、その精神がただちに現代の問題にも力を発揮するなら、それが一番「新しい」のです。

その意味では、わがFUNで学んでいることは、「日本で一番新しいことだ」という自信があります。30歳で年間200万円も投じて絶版・廃刊の名著を集めて個人蔵書を作っている経営者は、僕以外にほとんどいないと思うからです。

そして、それが古今東西のあらゆる優れた教育者や研究者の「仕事」、「学問」、「教育」、「経営」に関する著作であれば、なおさら、FUNには学生にとって最高の資料と哲学が不断に集まっていく、ということになります。

もちろん、僕は最新のPCソフトやネットや語学なども使えるので、こちらを教えることもできますが、会計の基本や仕事に対する思いやり、お客様への愛情がないのに技術や知識だけ肥大しても、「社会のお荷物」になるだけだと思うので、基本ばかりやっているのです。

ということで、皆さんも今日からは、「目の前の現実や人生の課題を解決できる普遍的な知識や考え方」こそが「新しい」もので、「たとえマスコミが騒いでいても、すぐに廃れ、大して役に立たないこと」は「古い」ことだと考えを変えて生活されてはいかがでしょうか。

人生や経営は「不易(不変のもの)」と「流行(移り変わるもの)」で出来ています。そのバランスの取り方を「哲学」というのであり、学生時代は、鋼鉄のような意志と水のような対応力に支えられた判断力を鍛える時期です。

「磁石と砂鉄」に例えれば、学生時代は疑いなく「磁石の磁力」を鍛える時期で、間違っても「砂鉄を集める時期」ではありません。磁力がない磁石に集まるのは、砂浜のゴミか砂くらいでしょう。


だから僕は、こういう哲学があってテレビを見ないのです。新しいものを信用しないというのではありませんが、新しいもので古いものに勝てるのは、100のうち1か2しかなく、学校教育で歴史を教えられなかった我々日本人は、あまりに先人たちを冒涜しています。

今を生きる時に、親や先祖、先人への感謝を保ちながら、その思いの延長で新しい時代を築いていければ、そこで初めて、国家や社会に前進がもたらされます。

トカゲのしっぽのように「断絶」から新しいものを作るのは簡単ですが、いずれ栄養がなくなって倒れるでしょう。だからこそ、いついかなる時も、過去と未来をつなぐ「現実」に積極果敢に打ち勝つ哲学が求められます。

僕はそれが古典や歴史にあると思うので、そのような視点から会計やスピーチ、作文、営業などを教えているだけです。

僕が200円くらいしか取らないのは、それらは全て先人が遠い昔に考えたことで、僕のような愚か者は、それを現代語に訳したり、文献を精読して学生が分かるように再現する努力しかできないからです。

先人への感謝と恐れを持って学べるのは、実に有り難いことです。全ての学びの後、それを生み出した人への感謝と尊敬を感じられるような勉強ができれば、それは立派な「新しさ」と呼ぶことができるでしょう。