■「内定への一言」バックナンバー編
「勇ましく、高尚なる生涯」(内村鑑三)
おはようございます。昨日は久しぶりのバッティングセンターで、「20球中半分以上」が空振りに終わって、運動の必要性を改めて感じている小島です。あぁ、情けない…。
土曜のFUNゼミは本当に感動的でした。講義の内容は、ここ3年近くは全く話さなくなった人生論というか、恋愛論というか、「見学者の方が多い」と直前に聞いたので、当初の「戦時のリーダー」の内容を急遽次回に送り、「人と接する基本」のようなことを話しました。
中国からの留学生・Tさんもその場で「入部します」と言ってくれて、その姿と、みんなが温かく歓迎する様子にとても感激しました。もっとも、その場の勢いからか「濡れ衣」を着せられた九大2年・T君がちょっとかわいそうでしたが…(笑)。
かつてないほどの団結ぶりと勢いから、早くも来年のさらなる発展にワクワクした土曜日でした。
さて、僕も今月で31歳になります。FUNゼミでもお知らせした通り、僕の誕生日は実家に帰省している人も多いため、例年、1日から「プレゼントの受付」を開始し、カバンの中を若干広めに空けています。
今日は、筑女のAさんが早速「限定版・たけのこの里」を届けて下さって、すごく嬉しかったです。いつもの講義に対する温かい感想もいただき、お菓子はもちろん、その優しい心遣いに二重に感動しました。
僕の講義なんて、まだまだ発展途上で、20代では仕事しかした記憶がなく、未だ勉強を始めただけの身に過ぎないのに、勇気が出る小さなお手紙でした。
僕には、世間的に「学問」とされている内容に関しては、大してお伝えできるものなどないのです。
やや年を重ねている分、皆さんの貴重な時間を頂いてお届けできるのは、もっぱら「実用の学」で、この世でモノを言う知識やスキルなら、いくらか教えることもできます。
ですから、学校で教えている学科や、僕の年齢、経験では話すのがふさわしくないような人生論、恋愛論、結婚論などは全体の前では話さないことにしています。
それでも、休日の朝から若い皆さんの時間を頂くからには、これだけは守ろうと心掛けていることなら、あります。今日はそれをちょっとお伝えすることにします。
FUNでは今でこそ、誰が呼び始めたのか分かりませんが「講義」なるものがあって、教員免許も教職履修経験もない僕が、なぜこういうことをするようになったのか、時々不思議に思うことがあります。
最初は、まだ3年生だった大月さんが、FUNゼミの前日に「明日は○○の話がいいです」といったメールを個人的に送ってくれていて、それに基づいて30分ばかり、学生さんに仕事や社会のことを話していたのが始まりです。
その年の春からは、今の「マネー塾」の前身とも言える「女子大経済学部」という講義、というか授業らしきものが始まって、こともあろうに、この学校大嫌い人間の僕が学生の前で教壇に立つことになったのでした。
当時は27歳、ちょうど28歳になったばかりで、仕事や知識にはやや自信もあったのですが、何より難しかったのは「学生が何に興味があるか」を知ることで、今もこれは最も難しいことです。
ですが、「続ければ必ず最高のものができるはず」と、どんなテーマも引き受けて、一度たりとも遅れず、手を抜かず、これまで3年間、毎週続けてきました。
続けるくらいしか才能がないので、これだけは頑張ってきてよかったと思っています。
継続の力は偉大なもので、今では県外からの参加者が訪れたり、あるいは教材に対して社会人や県外の新社会人からも注文をいただくようになりました。大半は口コミやメルマガのおかげですが、ここでも継続の力を感じています。
そんなこんなで、今ではおかげさまで、週に6種類の講義をやっています。
一つに付きワード4枚ですから、約24枚のレジュメを毎週作っている計算で、毎週「卒論」以上の資料を作り続ける作業ペースと方法を、最近は時々聞かれます。
では、講義の前にはどんな準備をしているのか?それは…
①集められる限り「第一級の資料・文献」を集めて、効果的に用いる
②自分の体験や確信から得た真実を客観的・簡素に文章化する
③最初は2倍の分量を作って、徐々に圧縮・要約していく
という準備です。
しかし、こういうことを伝えると、「じゃあ、自分も本を読めばいいんだ」とか、「作文と要約の能力って大事なんですね」とか言われたりして、「それは違う」と思ったのです。
僕にとって、むしろ上記の3つは「どうでもいい」とまではいいませんが、「二次的」、「補完的」な条件です。というより、「表面的」、「末梢的」といってもいいかもしれません。
僕が何より大事にしているのは、「本気で若者の可能性を信じ、口だけではなく実践、継続し、その姿を見せ続ける」ということです。それなくしては、どんなにいいテーマや情報をお伝えしても、全く意味がないと考えています。
「教材作りの際に何を教えるか?どう伝えるか?」
もちろん、いくらかはそういうことも考えます。ですが、姿と継続の熱意こそ最高の内容です。
御大層な内容でも、キャッチーなテーマでも、歴史的に価値ある文献でも、東京やアメリカの有名大学で認められた学説でも、教える者が本気でなければ、そんなものは「カス」です。
学生の皆さんは、若者を軽蔑するエリート学者や無気力教師より、その辺の商店街を探せばきっといる、「多額の借金を抱えても希望を捨てず、誠実に生きる無名の一自営業者」のような方から学ぶ方が、きっと、より多くの学びを得るだろうと思っています。
「教えている内容が高等で、使っている情報や文献が世間的に価値が高いものであれば、自分の話や自分の価値までも高まると思っている教師が多いのではないか?」というのは、僕の「学校教育」に対する密かな疑問です。
世の中には「トヨタが採用した」とか、「ハーバードでも教えている」という能書きを付けないと、自分の話に他人の興味を惹けない教師もいます。
大学さえ出ていない僕ですが、そういう教師は怠け者のダメ教師だと思いますね。
ゴチャゴチャ能書きを垂れて、余計なことばかりしゃべる人間ほど、行動が伴わないものです。
少なくとも僕は、九大を出たとか東大を出たとか、アメリカの大学にいたとか外資系の大企業にいたとか言う人間でも、生き方や接し方が尊敬できない人間や、口だけで行動が伴っていない人間からは、何ら価値あることを学んだ記憶はありません。
それどころか、若者を生き方や姿で感化できず、いつまでも出身高校や出身大学、前職の話をしないと信用が担保できない年長者を見るたび、「このクソ野郎が、とっとと消えろ!」と思ったものです。
そんな人間よりは、僕が記者時代に接した無名の零細業者の社長さんや、信じる道をひたすらに歩む朴訥なおやじさんたちの方が、何十倍も価値ある教訓や叱責を与えてくれたものです。
今の僕を構成している感動や確信も、そういう「名もなき方々」との触れ合いや、そういう方々への地道な営業や失敗から得た財産によって築かれていると感じています。
ですから、大学を中退したといっても、自分が受けた教育を恨んでいたり、中途半端で劣ったものだと思っていたりすることは全くなく、僕は多くの人から立派な「無言の教育」を受けたと感謝しているのです。
それは、心から「学びたい!」と思って本気で過ごした日々に出会った人たちとの摩擦の成果でもあり、悩みと挑戦、挫折と改善、失敗と達成が交互に訪れ、ただ未来を信じて歩みを止めなかった日々の記憶でもあります。
決して、マスコミに出る人たちだけが優れているわけでもなく、僕は記者や創業後の仕事で、多くの「街角の英雄」に出会うことができた20代の日々を、いつまでも「学問の基礎を固めた時期」として、自信と感謝をもって振り返ることができると確信しています。
不遜かもしれませんが、ただ「年が上だから」と、尊敬したりされたりする理由はないと思っています。年が上でもだらしない人はいたし、年下でもすごいと思う人もいました。
それらは全て、「頑張れば、これ以上になれる」という目標でもあり、「手を抜けば、こいつ以下にも落ちる」という反面教師でもありました。
今、僕はどういういきさつからか学生サークルの顧問を引き受け、4年目に突入しようとしています。僕が既に悪ガキになっていたような時期に生まれ、昔の話がかみ合わないような若い人たちが大学生になっています。
でも、たかが10年前後の差です。「世代が違う」と言うには近すぎるし、その差を嘆くほど経験が貧しいわけでもありません。それに、「本気の人から学びたい」という気持ちは、何歳離れていようが変わらないはずです。
ですから、僕は講義の内容やスピーチの技術、教え方、説明の仕方などを褒めてもらえるのももちろん嬉しいのですが、「いつも私たち学生のため、見えない準備に力を入れてくれてありがとうございます」と平凡なメッセージでねぎらってもらった時が、案外一番感動してしまいます。
説明方法や情報収集、作文などは、並の大卒よりよっぽど実地で訓練しているし、自分でも特に力を入れて磨いてきた分野なので、年齢を問わず、誰と会っても「話がうまい」、「例え話が面白い」、「説明上手」などと言われます。
本当は恐縮して感謝しないといけないのでしょうが、会う人会う人、みな「説明上手」というキャッチフレーズで僕を紹介したり記憶したりしてくれるので、こういう評価には慣れっこになってしまいました。
ですが、その水面下では、随分苦労もしたものです。能力や知識などは「味噌汁のカス」みたいなもので、僕は何より、姿や継続の情熱こそ一番大事にしたいと考えています。
僕がなぜ、FUNの講義で150~300円しか取らないかと言うと、それは、皆さんも本気で生きれば、あれくらいの知識は30歳になればモノにすることができるからです。
別に「頭に入れる」とか「聞いて感動する」ということではありませんよ。聞いて面白いと思ったり、聞いただけで分かった気になるのは、中学生にでもできることです。
「モノにする」というのは、挑戦と改善、継続と反復を繰り返して、体で覚えるということです。だから数百円しか取らないのです。
「マネー塾」と「営業塾」に関しては、参考文献の購入金額が20万円を超え、実地で試した時間も長かったので、600~900円にしていますが、それでも大学の講義の4分の1にもなりません。
おそらく、FUNで学んだことは、皆さんが社会人になって3年くらいたち、それまでに何度も「やめたい」、「転職したい」、「逃げたい」と思うような葛藤を繰り返して、部下を1人が2人くらい持ったところで、初めて「いいこと学んでたな」と思えるでしょう。
その頃に再度サークルに戻ってくると、「本当に役立つこと学んでたんだな」と、改めて懐かしく、かつ新鮮に振り返ることができるはずです。そして、僕が数百円しか取らなかった理由も、同時に分かるでしょう。
そして、そうなった時に残るのは、やはり「若者の可能性を信じて継続する姿」しかないのです。
FUNで何人もの学生さんに勇気と希望を与えてきた『後世への最大遺物』(内村鑑三/岩波文庫)で、著者の内村鑑三は、人として生まれてきて後世に残せる、最も価値あるものは何か、という問いかけを行っています。
講演録である本書では、あれこれと例を挙げながら聴衆を惹き付け、どんどん核心に迫っていくわけですが、著者の結論は「勇ましく、高尚なる生涯」です。
お金もかからず残せ、地位や財産によって価値が上下することもなく、子孫には無害で甚だ有益な財産、それは「勇ましく挑戦し、誇り高く生きた姿によって刻まれた人生そのものだ」と言い切っているわけです。
僕もまた、一生「無名の田舎者」でいいと思って地道に日々の務めを果たしている一経営者です。
マスコミを通じて見ず知らずの人たちの間で有名になるよりも、今出会っている人たちの心の中に何らかの印象なり良い影響なりを残し、確実な手応えを実感しながら、笑顔で悔いなく死んでいければ、それで上々の人生だと思っています。
「売名」ではなく「刻名」、「華美」より「実直」、「拡大」より「深化」、「進化」より「保守」を貫いていければ、それでいいと思っています。
皆さんは「大学生」なわけですから、同年代に既に東南アジアの小さな建材商社で働いていた僕よりも、その気になればいくらでも勉強できる環境に恵まれているわけです。
ですが、情熱や希望がなければ、環境など「ただの邪魔物」以外の何者でもなくなってしまいます。本気になればいくらでも成長できる場にいながら、いつまでも理由を付けて怠け、時が来れば嘆いて不安になり、結局可能性に気付けないまま、「次の可能性」を言い訳にしつつ、年を食っていく…。
僕はそれを惜しむわけです。
だからこそ、こんな自分でも何らかの刺激になればと思って、毎週休まず、求められるテーマで最高の準備を行い、「君たちはすごいんだ!」とお伝えすることを、新たなライフワークに付け加えてコツコツ頑張っているだけのことです。
ただ、それだけ。別にすごいことでもなんでもありません。
昔の日本人は、こうして自分の魂が後世に伝達されるだけで、幸せな表情で明るく世を去っていたのです。そのリレーが連綿と続いてきて、今の僕たちが生かされているわけです。
31歳になっても、相変わらずこのシンプルな姿勢でコツコツやっていくだけなので、大した変化はないと思いますが、皆さんが変化、成長してくれれば僕は言うことはないので、そういう前提で、来年も楽しく価値ある活動を展開していきましょう。
『後世への最大遺物』は、年末に読むととても印象的な本だと思うので、ぜひお近くのブックオフの100円コーナーで探してみて下さいね。