■「内定への一言」バックナンバー編
「彰往考来」(徳川光圀)
おはようございます。今日もまた国会図書館を除いては入手できない貴重な文献を2冊通販で注文し、ごきげんの小島です。
検索用語を入れ替えたり書き換えたりしながら、少ない時は50、多い時は200近くのサイトを閲覧して「一次史料」を探し求め、あればすかさず買う。
全国の大学図書館は、いまや「試験対策」という、その本来の目的とは遠くかけ離れた動機で用いられることが大半となり、「大著執筆」のために用いる人は、先駆的な研究を行っている教授や院生を除いては、数少ない状態です。
そんなわが国の教育状態の中で、①職業教育、②経済教育、③歴史教育における最高の文献を集めようと、空き時間と余った資金を「資料収集」に充てている若者は、全国広しといえどもそうはいないでしょう。
それもこれも、FUNで届ける講義やレジュメに最高の一次情報と万古不易の知識を盛り込みたいからです。
ちょっとした社会貢献の思いで始まった「学生サークルのお手伝い」も、今ではライフワーク、生きがいと化し、「こういう命の使い道もあるのだ」と感じる大切な時間になっています。
昨日のFUNゼミ「リーダー塾③」では、世界でも例がない巨大なスケールの歴史編纂事業を行った徳川光圀と徳富蘇峰の人づくりについて簡単に触れました。
僕が現在、日夜史料集めとレジュメ作成に生きがいを見出しているのも、この二人の偉大な生き方を知ったことが大きいので、今日は世間では「水戸黄門」としてしか知られていない徳川光圀の人生をご紹介したいと思います。
この方は、本当に偉大な豪傑です。
現在は何代目か分かりませんが、何十年も放映されて日本人なら誰もが知る「水戸黄門」は、徳川光圀が全国で「大日本史」執筆のための資料集めのために行った旅の記録を、大阪の講談師が面白おかしく「勧善懲悪」風にアレンジした作り話が元になっています。
テレビの中の黄門様は、悪人を見つけると「助さん、格さん、出番ですぞ」と言ってこらしめ、寛大な処置を行っていきますが、実は…。
この副将軍様、少年時代はとんでもない「不良」だったのです。
そのスケールと豪胆さは、御三家の一つ、水戸家の藩主が「わが家もついに断絶か」と嘆いたほどの悪童ぶりでした。
現代の弱虫暴走族や、徒党を組まないと先生に反抗できない不良など比ではありません。
また、「授業をサボる」とか「パチンコで生活費を使い果たす」とか、小心者の大学生が「学生」の身分を保証されたままワルぶりをアピールするために行う、臆病な反抗ぶりともケタ違いです。
当時は「毒」とされたワインを「珍品じゃ」と喜んで飲んだり、日本で初めてラーメンを食べたりしたかと思えば、記録では最古とされる「納豆」を「余が食べてみせよう」と食べたり、「靴下」を「よいものじゃ」と最新のファッションとして取り入れたり…。
街中で子供を組織して戦争ごっこをしたり、「これは珍しい鳥じゃ」とインコを輸入して家で買ったり、おじさんになってからも、こともあろうに「生類哀れみの令」が出されているにも関わらず、将軍家の自分自身がそれを無視して「うまいものじゃ」と牛、豚、羊の焼肉を食べたり…。
鮭が大好物で、若い頃の生きがいは「いい女と遊んでうまいものを食うこと」であり、口ぐせは「鮭を腹いっぱい食えればいつ死んでも満足じゃ」だったとか…。
このほか、当時は全国の大名がそれを破れば「打ち首」、「獄門」にもなりかねなかった「長子相続」に公然と異を唱え、「余の方が兄より優れている」と家督を迫ったり、親の言いつけに逆らったり…。
「校則違反」がままごとに思えるほどの「違法」、「秩序破壊」めいた行為を子供の頃から散々繰り返していたのです。
その身分は将軍家という、当時は「雲の上のお方」だっただけに、水戸家では「行いが世に知れぬように」と、ただただそれを案じていたそうです。
他にも、あまりに見事な「ぐれっぷり」はいくつもあります。この黄門様は、手に負えないほどの乱暴者で、誰もがその将来を案じるほどだったのです。
それが、18歳の頃のある感動をきっかけにして、人生が大きく変わりました。
豪胆な行いは死ぬまで変わらなかったそうですが、その豪放磊落な資質と巨大な発想を行う先見性が、世の役に立つ方向で開花する事件が起こったのです。
それは「史記」を読んだことでした。司馬遷が残した歴史書の中でもとりわけ名場面とされる「伯夷伝」を読んだ光圀公は…。
「余は何という大馬鹿者なのじゃ!」と涙を流して悪行を悔い改め、「先祖に相済まぬ」と反省し、「余も大理想のために生きる!」と決意して、当時は「幕府」や「藩」という概念しか存在しなかった国に「日本」という概念を持ち出して、「大日本史」の編纂を思い立ったのです。
ちなみに、「藩」を超えた発想を抱くのも「違法」でしたが、この豪傑は、幕府や藩という小さなスケールで物をとらえるのが終生苦手だったのでしょう。
余談として、光圀公は若い頃に南蛮人(ポルトガル商人)から会わせてもらった「黒人」を非常に珍しく思い、「奴隷」であることを不憫に思って、なんと、こともあろうに勝手に「そちたちは譜代の家臣じゃ」と幕府に採用して、「蝦夷地探検」の仕事を与えたというのですから、驚きです。
黒人の皆さんが灼熱のアフリカのご出身だった、というのはご存知なかったようですが、それにしても外国人の中でも最も外国人らしかったであろう黒人を、「先祖代々の忠義の臣」を意味する「譜代の家臣」に任命したというのですから、その先見性と人道的配慮には恐れ入るばかりですね。
200年ほど後に白人の「黒船」を見た日本人は飛び上がって驚いたそうですが、この副将軍様はそんなことには動じない豪傑で、白人を見ても黒人を見ても、少年のように目をキラキラさせて、「面白い話を聞かせてくれ」と夜通し語り合ったようです。
光圀公について、平泉澄さんは『物語日本史・下』(講談社学術文庫)の中で、こう書いています(P98~99)。
~『してみると、十八歳青年の日の感激が、五十五年の長い間続いて、一生をこの感激によって決定したこと、明らかであります。
青年純情の時に、大きな感動を覚えるということは、多くの人の経験するところでしょう。しかしたいていの人においては、その感激は一時のこととしてやがて消えてゆくでしょう。
それが光圀においては、一生消えなかったのです。一生をその感激が決定したのです。』~
「史記」を読みたい人は、岩波文庫から出ていますから、自分で買って読んで下さい。『物語日本史』も、FUNの4年生は数人持っていますが、人物中心に上・中・下3巻でまとめた名著ですから、こちらもどうぞ。
光圀公は、「こうして悪たれの自分が人生を真剣に考えることが出来るようになったのも、元はといえば、遠い昔に司馬遷が偉大な歴史書を書き残してくれたからじゃ。
してみれば、将来この日本の国で、余のように悪さばかりやってグレた若者たちも、日本の歴史を知れば、きっと立派な人間を目指すに違いないのじゃ!」と決意しました。
のち、昭和になって福田定一さんが同様の動機から歴史作家になることを決意し、「我、司馬遷には遼(はる)かに及ばんとも、日本の司馬遷に匹敵する太郎(男)たらん!」と決意して、「司馬遼太郎」と名乗ったのとも似ていますね。
光圀公はあまりの感激に、有り余る情熱とリーダーシップを発揮して、「彰考館」という学術研究と資料編纂を行うための研究所を作り、そこに各派の学者を採用して遠大な歴史編纂事業に乗り出しました。
その徹底ぶりは『物語日本史』に譲るとして、とにかく、あれほど毛色や思想信条の違う豪傑学者たちを見事に使いこなすとは、これまた恐れ入ったリーダーシップです。また、その資料編纂のアイデアも独創的で、この方は生来「巨大なスケールの遊び」が好きだったのだろうな、と思ってしまいます。
「彰考館」の名は、「彰往考来」、つまり「往時を彰(あき)らかにし、未来を考える」から採っています。「優れた過去の事跡や人物を正しく顕彰し、わが国や人生の未来を考えていく」という、歴史の本質を踏まえたネーミングでした。
その作業たるや、1652年に着手して、なんと254年後の1906年、つまり日露戦争終戦の翌年に完成したというのですから、これは世界に例を見ないスケールです。
光圀公にとっては、「生きているうちに達成を味わい、感動と幸せを味わう」などというスケールの小さい夢は、どうでもよかったのです。ただ考えたのは、「後世の日本人が正しく立派な生き方をするための歴史書」を編纂することでした。
そのため、「楽しいことがしたい」、「やりたいことだけやれればいい」などと言う小心者の学者は一切採用せず、豪胆な野望と深遠な学識を持つ若い学者を採用して、徹底討論させながら長所を見抜き、大胆に抜擢していきました。
一つの歴史書が250年もかかって編集されたなどは、西洋にも例がありません。のち、明治天皇も明治政府も光圀公の研究によって国史を学んだというのですから、いかにそれが正確で本質を踏まえていたか、よく分かります。
青年期の一つの感動によって決めた大事業のビジョンたる「彰往考来」は、遠い未来の明治維新の原動力となり、一国と世界史を回転させるほどの偉業を生み出したのです。
誰もがその将来を心配した「札付きのワル」は、歴史を学んで立派な青年となり、のちには日本史、世界史に巨大な影響を与える大事業を成し遂げたわけでした。青年の感動がいかに大きな意義を持つか、よく分かります。
しかし、日本人は敗戦で占領政策によって「思想破壊」を施されました。GHQは日本人を「人間」とは思っていなかったのですから、その占領政策の根本方針は「ロボトミー」と同一のものでした。
「ロボトミー」というのは、精神病患者の情緒不安定を治療するため、こめかみから犀利な刃物を通し、前頭葉の中の大事な神経を切断する手術です。
この手術を施された人は、人間的な感情が働かなくなり、ただ本能に従って生きるだけの「動物」になっていくのです。
全日本人を病室のベッドにくくりつけてそのような手術を施すわけにもいきませんから、占領軍はそれを「歴史抹殺」によって行い、日本人が日本人たる記憶を消し、相互に思想を破壊するようなロボトミーを行ったわけです。
その結果、今では日本人は占領軍が意図した通り、「今が楽しければいい」、「自分が幸せになりたい」、「アメリカに行きたい」、「もっと国際交流したい」と唯物的、享楽的性格になり、白人に対する抜きがたい劣等感と憧れを持って生きるようになりました。
この思想破壊がいかに恐ろしいものだったか、その事実を知りたければ、『閉された言語空間』(江藤淳/文春文庫)、『文化なき文化國家』(福田恒存/PHP研究所)、『忘れたことと忘れさせられたこと』(江藤淳/文春文庫)を読まれるといいでしょう。
福田恒存さんは、『文化なき文化國家』の「あとがき」で、日本人が言語と歴史を奪われることで「ロボトミー(前頭葉切断手術)を受けたのだ」と書いていますが、指摘される事実が恐ろしいほど当たっている本書を読むほど、歴史を失った民族の哀れさを思うばかりです。
占領期に光圀公のような豪胆さと理念でアメリカに立ち向かったのは白洲次郎くらいしかいませんが、とにかく、戦後の日本人は粒が小さくなって、どうでもいいことに悩むようになったなあと、古い本を読むたびに感じます。
「彰往考来」という大切な理念も、「往」の記憶がなければ全く意味がありません。今、「やりたいことがない」とか、「楽しい仕事がいい」とか言っている人は、「往」の記憶が薄いか、あるいは自信を持てる「往」がないのかもしれません。
僕は、そういう狭い視野、卑屈な態度、スケールの小さい人生観で「就職」と向き合うことになる何人かの学生さんが、本当にかわいそうだと思います。
本気になれば何でもできる若者が、信じられないほど臆病になって、自分の楽しみや一時的な快楽に走る姿を見ていると、「なんということか」と悔しい思いに駆られます。
だからこそ、僕も、光圀公の数千分の一のスケールでもいいので、若者のために貴重な資料を集めて良い文献を残し、一人でも多くの立派な青年を送り出すお手伝いをしよう、と思ってFUNを手伝っているのです。
価値ある人生を送りたいと思ったら、業界研究や自己分析など小手先の作業は一切やらなくていいので、まず歴史を学ぶことを、何をおいてもお勧めします。
さしあたっては、僕も学生時代に読んだ司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』、『龍馬がゆく』(ともに文春文庫)や、城山三郎さんの『雄気堂々』、『男子の本懐』(ともに新潮文庫)、岡崎久彦さんの『陸奥宗光』(PHP文庫)などがよいでしょう。
自分がやろうとしていたことがいかに小さいか、そして自分がこれからやれることがいかに大きいか、それを心から味わうことで、きっと悩みが希望に変わり、将来への勇気と意欲が尽きないほど湧いてきますよ。
「彰往考来」(徳川光圀)
おはようございます。今日もまた国会図書館を除いては入手できない貴重な文献を2冊通販で注文し、ごきげんの小島です。
検索用語を入れ替えたり書き換えたりしながら、少ない時は50、多い時は200近くのサイトを閲覧して「一次史料」を探し求め、あればすかさず買う。
全国の大学図書館は、いまや「試験対策」という、その本来の目的とは遠くかけ離れた動機で用いられることが大半となり、「大著執筆」のために用いる人は、先駆的な研究を行っている教授や院生を除いては、数少ない状態です。
そんなわが国の教育状態の中で、①職業教育、②経済教育、③歴史教育における最高の文献を集めようと、空き時間と余った資金を「資料収集」に充てている若者は、全国広しといえどもそうはいないでしょう。
それもこれも、FUNで届ける講義やレジュメに最高の一次情報と万古不易の知識を盛り込みたいからです。
ちょっとした社会貢献の思いで始まった「学生サークルのお手伝い」も、今ではライフワーク、生きがいと化し、「こういう命の使い道もあるのだ」と感じる大切な時間になっています。
昨日のFUNゼミ「リーダー塾③」では、世界でも例がない巨大なスケールの歴史編纂事業を行った徳川光圀と徳富蘇峰の人づくりについて簡単に触れました。
僕が現在、日夜史料集めとレジュメ作成に生きがいを見出しているのも、この二人の偉大な生き方を知ったことが大きいので、今日は世間では「水戸黄門」としてしか知られていない徳川光圀の人生をご紹介したいと思います。
この方は、本当に偉大な豪傑です。
現在は何代目か分かりませんが、何十年も放映されて日本人なら誰もが知る「水戸黄門」は、徳川光圀が全国で「大日本史」執筆のための資料集めのために行った旅の記録を、大阪の講談師が面白おかしく「勧善懲悪」風にアレンジした作り話が元になっています。
テレビの中の黄門様は、悪人を見つけると「助さん、格さん、出番ですぞ」と言ってこらしめ、寛大な処置を行っていきますが、実は…。
この副将軍様、少年時代はとんでもない「不良」だったのです。
そのスケールと豪胆さは、御三家の一つ、水戸家の藩主が「わが家もついに断絶か」と嘆いたほどの悪童ぶりでした。
現代の弱虫暴走族や、徒党を組まないと先生に反抗できない不良など比ではありません。
また、「授業をサボる」とか「パチンコで生活費を使い果たす」とか、小心者の大学生が「学生」の身分を保証されたままワルぶりをアピールするために行う、臆病な反抗ぶりともケタ違いです。
当時は「毒」とされたワインを「珍品じゃ」と喜んで飲んだり、日本で初めてラーメンを食べたりしたかと思えば、記録では最古とされる「納豆」を「余が食べてみせよう」と食べたり、「靴下」を「よいものじゃ」と最新のファッションとして取り入れたり…。
街中で子供を組織して戦争ごっこをしたり、「これは珍しい鳥じゃ」とインコを輸入して家で買ったり、おじさんになってからも、こともあろうに「生類哀れみの令」が出されているにも関わらず、将軍家の自分自身がそれを無視して「うまいものじゃ」と牛、豚、羊の焼肉を食べたり…。
鮭が大好物で、若い頃の生きがいは「いい女と遊んでうまいものを食うこと」であり、口ぐせは「鮭を腹いっぱい食えればいつ死んでも満足じゃ」だったとか…。
このほか、当時は全国の大名がそれを破れば「打ち首」、「獄門」にもなりかねなかった「長子相続」に公然と異を唱え、「余の方が兄より優れている」と家督を迫ったり、親の言いつけに逆らったり…。
「校則違反」がままごとに思えるほどの「違法」、「秩序破壊」めいた行為を子供の頃から散々繰り返していたのです。
その身分は将軍家という、当時は「雲の上のお方」だっただけに、水戸家では「行いが世に知れぬように」と、ただただそれを案じていたそうです。
他にも、あまりに見事な「ぐれっぷり」はいくつもあります。この黄門様は、手に負えないほどの乱暴者で、誰もがその将来を案じるほどだったのです。
それが、18歳の頃のある感動をきっかけにして、人生が大きく変わりました。
豪胆な行いは死ぬまで変わらなかったそうですが、その豪放磊落な資質と巨大な発想を行う先見性が、世の役に立つ方向で開花する事件が起こったのです。
それは「史記」を読んだことでした。司馬遷が残した歴史書の中でもとりわけ名場面とされる「伯夷伝」を読んだ光圀公は…。
「余は何という大馬鹿者なのじゃ!」と涙を流して悪行を悔い改め、「先祖に相済まぬ」と反省し、「余も大理想のために生きる!」と決意して、当時は「幕府」や「藩」という概念しか存在しなかった国に「日本」という概念を持ち出して、「大日本史」の編纂を思い立ったのです。
ちなみに、「藩」を超えた発想を抱くのも「違法」でしたが、この豪傑は、幕府や藩という小さなスケールで物をとらえるのが終生苦手だったのでしょう。
余談として、光圀公は若い頃に南蛮人(ポルトガル商人)から会わせてもらった「黒人」を非常に珍しく思い、「奴隷」であることを不憫に思って、なんと、こともあろうに勝手に「そちたちは譜代の家臣じゃ」と幕府に採用して、「蝦夷地探検」の仕事を与えたというのですから、驚きです。
黒人の皆さんが灼熱のアフリカのご出身だった、というのはご存知なかったようですが、それにしても外国人の中でも最も外国人らしかったであろう黒人を、「先祖代々の忠義の臣」を意味する「譜代の家臣」に任命したというのですから、その先見性と人道的配慮には恐れ入るばかりですね。
200年ほど後に白人の「黒船」を見た日本人は飛び上がって驚いたそうですが、この副将軍様はそんなことには動じない豪傑で、白人を見ても黒人を見ても、少年のように目をキラキラさせて、「面白い話を聞かせてくれ」と夜通し語り合ったようです。
光圀公について、平泉澄さんは『物語日本史・下』(講談社学術文庫)の中で、こう書いています(P98~99)。
~『してみると、十八歳青年の日の感激が、五十五年の長い間続いて、一生をこの感激によって決定したこと、明らかであります。
青年純情の時に、大きな感動を覚えるということは、多くの人の経験するところでしょう。しかしたいていの人においては、その感激は一時のこととしてやがて消えてゆくでしょう。
それが光圀においては、一生消えなかったのです。一生をその感激が決定したのです。』~
「史記」を読みたい人は、岩波文庫から出ていますから、自分で買って読んで下さい。『物語日本史』も、FUNの4年生は数人持っていますが、人物中心に上・中・下3巻でまとめた名著ですから、こちらもどうぞ。
光圀公は、「こうして悪たれの自分が人生を真剣に考えることが出来るようになったのも、元はといえば、遠い昔に司馬遷が偉大な歴史書を書き残してくれたからじゃ。
してみれば、将来この日本の国で、余のように悪さばかりやってグレた若者たちも、日本の歴史を知れば、きっと立派な人間を目指すに違いないのじゃ!」と決意しました。
のち、昭和になって福田定一さんが同様の動機から歴史作家になることを決意し、「我、司馬遷には遼(はる)かに及ばんとも、日本の司馬遷に匹敵する太郎(男)たらん!」と決意して、「司馬遼太郎」と名乗ったのとも似ていますね。
光圀公はあまりの感激に、有り余る情熱とリーダーシップを発揮して、「彰考館」という学術研究と資料編纂を行うための研究所を作り、そこに各派の学者を採用して遠大な歴史編纂事業に乗り出しました。
その徹底ぶりは『物語日本史』に譲るとして、とにかく、あれほど毛色や思想信条の違う豪傑学者たちを見事に使いこなすとは、これまた恐れ入ったリーダーシップです。また、その資料編纂のアイデアも独創的で、この方は生来「巨大なスケールの遊び」が好きだったのだろうな、と思ってしまいます。
「彰考館」の名は、「彰往考来」、つまり「往時を彰(あき)らかにし、未来を考える」から採っています。「優れた過去の事跡や人物を正しく顕彰し、わが国や人生の未来を考えていく」という、歴史の本質を踏まえたネーミングでした。
その作業たるや、1652年に着手して、なんと254年後の1906年、つまり日露戦争終戦の翌年に完成したというのですから、これは世界に例を見ないスケールです。
光圀公にとっては、「生きているうちに達成を味わい、感動と幸せを味わう」などというスケールの小さい夢は、どうでもよかったのです。ただ考えたのは、「後世の日本人が正しく立派な生き方をするための歴史書」を編纂することでした。
そのため、「楽しいことがしたい」、「やりたいことだけやれればいい」などと言う小心者の学者は一切採用せず、豪胆な野望と深遠な学識を持つ若い学者を採用して、徹底討論させながら長所を見抜き、大胆に抜擢していきました。
一つの歴史書が250年もかかって編集されたなどは、西洋にも例がありません。のち、明治天皇も明治政府も光圀公の研究によって国史を学んだというのですから、いかにそれが正確で本質を踏まえていたか、よく分かります。
青年期の一つの感動によって決めた大事業のビジョンたる「彰往考来」は、遠い未来の明治維新の原動力となり、一国と世界史を回転させるほどの偉業を生み出したのです。
誰もがその将来を心配した「札付きのワル」は、歴史を学んで立派な青年となり、のちには日本史、世界史に巨大な影響を与える大事業を成し遂げたわけでした。青年の感動がいかに大きな意義を持つか、よく分かります。
しかし、日本人は敗戦で占領政策によって「思想破壊」を施されました。GHQは日本人を「人間」とは思っていなかったのですから、その占領政策の根本方針は「ロボトミー」と同一のものでした。
「ロボトミー」というのは、精神病患者の情緒不安定を治療するため、こめかみから犀利な刃物を通し、前頭葉の中の大事な神経を切断する手術です。
この手術を施された人は、人間的な感情が働かなくなり、ただ本能に従って生きるだけの「動物」になっていくのです。
全日本人を病室のベッドにくくりつけてそのような手術を施すわけにもいきませんから、占領軍はそれを「歴史抹殺」によって行い、日本人が日本人たる記憶を消し、相互に思想を破壊するようなロボトミーを行ったわけです。
その結果、今では日本人は占領軍が意図した通り、「今が楽しければいい」、「自分が幸せになりたい」、「アメリカに行きたい」、「もっと国際交流したい」と唯物的、享楽的性格になり、白人に対する抜きがたい劣等感と憧れを持って生きるようになりました。
この思想破壊がいかに恐ろしいものだったか、その事実を知りたければ、『閉された言語空間』(江藤淳/文春文庫)、『文化なき文化國家』(福田恒存/PHP研究所)、『忘れたことと忘れさせられたこと』(江藤淳/文春文庫)を読まれるといいでしょう。
福田恒存さんは、『文化なき文化國家』の「あとがき」で、日本人が言語と歴史を奪われることで「ロボトミー(前頭葉切断手術)を受けたのだ」と書いていますが、指摘される事実が恐ろしいほど当たっている本書を読むほど、歴史を失った民族の哀れさを思うばかりです。
占領期に光圀公のような豪胆さと理念でアメリカに立ち向かったのは白洲次郎くらいしかいませんが、とにかく、戦後の日本人は粒が小さくなって、どうでもいいことに悩むようになったなあと、古い本を読むたびに感じます。
「彰往考来」という大切な理念も、「往」の記憶がなければ全く意味がありません。今、「やりたいことがない」とか、「楽しい仕事がいい」とか言っている人は、「往」の記憶が薄いか、あるいは自信を持てる「往」がないのかもしれません。
僕は、そういう狭い視野、卑屈な態度、スケールの小さい人生観で「就職」と向き合うことになる何人かの学生さんが、本当にかわいそうだと思います。
本気になれば何でもできる若者が、信じられないほど臆病になって、自分の楽しみや一時的な快楽に走る姿を見ていると、「なんということか」と悔しい思いに駆られます。
だからこそ、僕も、光圀公の数千分の一のスケールでもいいので、若者のために貴重な資料を集めて良い文献を残し、一人でも多くの立派な青年を送り出すお手伝いをしよう、と思ってFUNを手伝っているのです。
価値ある人生を送りたいと思ったら、業界研究や自己分析など小手先の作業は一切やらなくていいので、まず歴史を学ぶことを、何をおいてもお勧めします。
さしあたっては、僕も学生時代に読んだ司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』、『龍馬がゆく』(ともに文春文庫)や、城山三郎さんの『雄気堂々』、『男子の本懐』(ともに新潮文庫)、岡崎久彦さんの『陸奥宗光』(PHP文庫)などがよいでしょう。
自分がやろうとしていたことがいかに小さいか、そして自分がこれからやれることがいかに大きいか、それを心から味わうことで、きっと悩みが希望に変わり、将来への勇気と意欲が尽きないほど湧いてきますよ。