■「内定への一言」バックナンバー編

「肉体労働とは、自分で計画と決定が行えない仕事である」




おはようございます。最近はサークルの行き帰りに気ままな散歩を楽しんでいる小島です。

今日は朝から、来週からリニューアルする『近現代史勉強会』第⑨回のレジュメを完成させました。テーマは「女性論」。「女性と仕事」の本質に、文明論的、人間的アプローチから迫る予定です。

あちこちからの「資料とCDが欲しい」というご要望にお答えして、第一部(①~⑧)の教材は昨日全て完成しましたから、欲しい方は、
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学生の皆さんの情報力と収入では到底揃えられない貴重な一次史料を多数駆使して作ったので、きっと人生と将来像が「いい方に」変わるインパクトがあるはずですよ。


さて、学生さんの中には「就活」というものを否定的に捉えている方も少なからずいるようです。そのパターンをいくつか、僕が見てきた範囲でまとめてみると…

①ただ漠然と、準備が伴っていないために競争にさらされるのが怖い
②意思も目的もはっきりしないまま、なんとなく就職するのは賛成できない
③就職以外の理想がはっきりしているので、自分は別の道を歩む

といった感じのようです。


僕の場合は、19歳で大学を中退しましたが、ちょうど学生の頃考えていたのは、「最初の仕事では視野を広げ、次の仕事で徹底して実務能力を磨く。20代はやりたいことは一切せず、やるべきことに全時間と資金、エネルギーを注ぎ込む」というものでした。

もちろん、生活のために働くという考えは前提として持っていましたが、ただ食うためだけに働くのは絶対に嫌で、それよりも高いところに目標を持ち、でか失敗と貴重な経験に溢れた20代にしよう、と考えていました。

ですから、「ただ就活」というのが何となく納得できない、という気持ちも分からないではありません。単なる無気力というのは、「学生時代に手を抜いた」だけの反動でしょうが、「ちゃんとこだわりたい」という方には就職もまた、全てではなく一つの選択肢でしょう。

僕が学生時代にこだわっていたのは、

①30歳までに月収が200万円を超えること
②将来は人から命令され、与えられた仕事はやらないこと
③ただ社会と時代のみを相手とし、天衣無縫・融通無碍の境地に生きること

でした。

もちろん、当時はこういうことを言うと「若いくせに」とか「世間知らず」と言われましたが、それでも断固として意志を曲げず、あくまで継続と改善を重ねた結果、22歳頃は「案外頑張るね」、25歳頃は「応援させてくれ」、28歳頃は「雇ってくれ」と、同じ事をやっているのに周囲の評価も変わっていきました。

もちろん、僕には周囲の評価などくそくらえ、で、僕よりすごく、僕より頑張っている人だけの話を聞こうと、極端に世界を狭めて目標のみを注視し、ある一つの基準にこだわり続けました。

それは「肉体労働ではなく、頭脳労働をする」という基準です。

肉体労働というのは、何も土木作業や運送・配送業務、イベントスタッフなどの「目で見て分かりやすい業務」ではなく、「結果を計画できず、自分で決定ができない仕事」ということです。

そういう基準から見れば、大卒の80%は、たとえスーツを着ていようが「おしゃれな肉体労働者」であるに過ぎません。

僕は外見とか形式には一切興味がなく、ただ実質と内容に興味がある人間なので、人からどう言われようが起業までは聞く耳を持たず、働きまくってきました。

他人から「あんたの値段は月30万」とか決められるよりも、自分で作った商品で自分の値段を決め、それを自由意思で高めていけるのが理想の働き方だという思いは、ずいぶん若いうちから持っていたのです。

これを分かりやすく紹介するなら、既にマネー塾や本メルマガでも何度か紹介した「アリとクモ」の話が適切でしょう。

アリはせっせと「その日」のためにエサを探し、運び、食べる生活をしています。

一方クモは、アリから見れば「遊び」にしか見えないようなことばかり。クモは「どこに巣を作るべきか」と考えて天井から降りたり、部屋の角をうろついたりして、自由時間もそんなことで一向に遊びません。

見かねたアリは、ある日クモに、「君もいつまでもブラブラ天井から降りて遊んだり、巣の上で跳ねて遊んだりするんじゃなく、僕のようにまじめに働けよ!」と忠告しました。

クモは「まじめに働く?まじめに働いているじゃないか。君の方こそ、まじめに働けよ!」と言い返しました。

「まじめさにおいては誰にも負けない」と思っていたアリは、よりによっていつもブラブラと巣を作って遊んでいるクモから「まじめに働け」と言われたのに腹が立ち、「何を!こんなに毎日働いているオレの気持ちが、君のような怠け者に分かってたまるか!」と言いました。

クモは「毎日必死に働いているおまえこそ、世の中で一番の怠け者だ!」と言い返しました。

二人の言い合いは平行線をたどり、解決しませんでした。



そして時が経ち…。

クモは日頃の仕事の後に、せっせと場所を選んでコツコツと巣を築き、いつしかその「巣」がエサを捕まえて保存してくれる、という生活を手に入れていました。

通常の「仕事」に加え、みんなが遊んでいる時も天井から落ちて痛い目に遭い、やりたいことも我慢してただひたすらに将来を見つめ、たとえすぐに理解されなくても、将来の「巣」を一心に描いて頑張ってきた成果が、この「資産収入による生活」だったのです。


一方アリは、毎日懸命に働き、たまの週末は友達と飲みに行ったり遊んだりしましたが、年をとって若干体力が落ちた今でも、やっている仕事は相変わらず、女王アリに命令された「エサのノルマ」を果たすため、毎日相変わらず「探す、取る、運ぶ」の繰り返しをしていました。

クモは時間の経過と共に働き方、つまり収入形態を変えていきましたが、アリは業種や職種が少し変わっただけで本質的な変化もなく、以前と同じような生活をしていました。

元より会計やビジネスを知らないアリは、「業界」や「職種」、あるいは「会社」を変えることが「変える」という行動だと思って疑っていませんでした。

しかも、その生活が将来において変わるかといえば、とてもその見込みはなさそうでした。


つまり、「懸命」に働いているように見え、クモに「君こそまじめに働け!」と言っていたアリの仕事は、「肉体労働」だったのです。

あれほど苦しく、一次は退屈に思えた苦痛にも耐えて頑張ってきたのに、何ら計画や想像が介在していなかったため、収入形態は全く変わっていなかったのでした。

クモはそういうアリの「肉体労働者」ぶりを見て、「まじめに働け!」、「いつも必死なおまえこそ、一番の怠け者だ!」と言ったのですが、アリがその言葉の意味を理解したのは、既に取り返しのつかないほど体力が衰え、借金を抱えてしまった時でした。


一方、アリから「まじめに働け!」と言われたクモは、アリに言われるまでもなく本当の意味でまじめに働いていたため、時間と収入が同時に増え、巣が収入を稼いでくれている間に自分はさらに別の巣を作り、加速度的に豊かになっていきました。

クモがやってきたことは、若いうちはアリのような「その日を暮らす」ための性質も持っていましたが、それだけで終わらず、確実に計画と決定を介在させうる仕事を将来に予定し、着実に実行していくという「頭脳労働」だったのです。

クモは「賢明」に未来を見通して段階的に目標を設定し、そしてそこから、アリのように「懸命」に働いてきたのでした。


要するに、アリから見ればクモの働き方は「仕事」などではなく、自分たちを馬鹿にしているような「遊び」に見えたわけです。

一方、クモから見れば「首から下」で働くしか能がないアリの働き方も同様に「仕事」などと呼べるものではなく、自分自身を虐待する「質の悪い遊び」にしか見えなかったわけです。

両者ともに、「まじめに働け!」と言っていた根拠は、アリは「外見」、クモは「実質」にあったため、あれほど食い違いが生じたわけでした。


アリは「自分の体で自分を食わせる」という唯物論的な職業観を信奉し、クモは「他人の仕事を作ってあげることで自分を食わせる」という経営者的な発想を持っていたため、たった数年で「埋められないほどの決定的な差」が開いた、というわけでした。

さて皆さんは、どちらの働き方をお望みでしょうか。

僕は日々まじめに頑張ることを否定しませんが、もし10年以上たっても自分で何ら結果を決定できず、計画もできないような「肉体労働」に就くことを「就職」だと思っているなら、そのような共産主義的な考え方は、今一度見直した方がよいでしょう。



現在は「格差社会」だと言われています。それは正しい指摘です。我々のような「クモ型」の経営者は、「首から下」の労働者とは決定的に「働き方」が違うのです。

そして、学校を出て就職した時から、確実にそのような将来を描き、「大きい会社の小さな肉体労働者」になる就職よりも、「小さい可能性を大きく育てられる頭脳労働者」たるべく、未来から逆算した現在を生きてきたのです。

そして、時代はますます頭脳労働に有利な状態に変化しています。


ですから、我々は放っておいてもどんどん豊かになるわけです。我々「知識労働者」にとっては、時間の経過はそれ自体「味方」です。

何もアリのようにがむしゃらに頑張っているから格差が開くのではなく、「首から下」の肉体労働を仕事だと思い込んで就職した大卒があまりに経済知能が低いために、勝手に貧しくなっているからこそ、格差が開いているのです。

そして僕は、「アリ思想」が根強い大学生を見ていて、このままではどの大学を出ようが確実に貧しくなるのがよく分かるため、特に敏感な学生さんたちと一緒に、「クモになるためのアリ」として一緒に勉強しているのです。

「勝ち誇る」、「見下す」のが「勝ち組の論理」ではありません。「可能性がある人を応援する」、「他人を自分より優先する」、「人の利益を最初に作る」というのが勝ち組の論理です。


アリが悪いというわけではありません。ただ、いつまでもアリでいてはいけないし、今の学校教育では「一生ただのアリ」であり続けるための知識しか得られない、と言っているのです。

肉体労働者とは、「時間の経過を嫌がる人々」と言えばよいでしょう。体力、容姿、金利負担、所得基盤…なるほど、「首から下」でしか収入が得られない人にとっては、時間はいつも「敵」です。

なぜそうなるかといえば、これらの人々は全ての出来事を「見つかる」とか「決まる」という自動詞的な発想で処理し、我々経営者のように「見つける」、「決
める」と他動詞的に考えないため、会社で働いていても、あるいは大学で勉強していても、その思考は常に「停止」しているからです。

まさに20歳前後にして「思考停止状態」にあるために、なんら実のある計画や決定が行えないわけです。

「おい、馬鹿にするな!」と思われるかもしれませんが、別にこれは何も馬鹿にしているわけではありません。馬鹿にしていいなら、それに相当する事実は腐るほどありますが、これは単なる「事実の指摘」に過ぎないのです。

FUNでこれに相当する話をすると、そりゃ、最初は嫌な顔をされますよ。

でも、「君たちだっていつまでも人の下でこき使われたり、やりたくない仕事を上司の一存で強制されたり、退職金やボーナスを人質に取られて卑屈な人生を送ったりするのは嫌でしょ?」と言うと、ほぼみんな「嫌だ」と言います。


「だったら、将来は自分のビジョンに基づいて自由に社会貢献のモデルを描き、世の人々が抱える問題に自分のアイデアや知識を駆使して立ち向かえるようなやりがいのある人生を送ってみたくないか?」と聞くと、またほぼみんなが「そうしたい」と答えます。

そういう同意の上に、毎年「就職対策」をやっているのです。

少なくとも、「内定」という「アリの赤ちゃん」を目指すようなお粗末な就職指導は、僕には到底不可能です。そういう考え方で学生と接するのは、若者の可能性を冒涜するも甚だしい傲慢です。


体は頭が命令した通りに動き、頭は徐々に体に支配された思考しかしなくなるものです。この両者の相乗効果を発展的に活用できる時、初めて「若者の可能性」という言い方ができるわけです。

そうでない学生がただ「可能性がある」と言ったとしても、それは「悪くなる可能性」のことであって、何もしなければ卒業するまで「タダの可能性」です。

可能性は素晴らしいことですが、いつまでも可能性のままでいるのはただの肉体労働者でしょう。肉体労働にも価値がありますが、せっかく頭がついているのにそれを使わずに人生を過ごすのは、ベンツに洗濯物を干すようなものです。


就職?いいでしょう。独立?それもいいでしょう。大事なことはいつも「長期的ビジョン」を持ち、常に「あるべき自分」を描いて事に当たることです。

そうすれば、どんな小さな経験からでも大きな教訓や気付きを引き出すことができます。

大きなことをやることに価値がある以前に、小さなことから大きな感動や発見を手に入れられる集中力や継続力に価値があるのです。そういう資質こそ、若者の資本金です。


僕は、そういう、皆さんの可能性がフルに発揮されるようなお手伝いをさせていただいているだけです。

ですから、内定の謝礼は毎年、「たけのこの里」と「カゴメトマトジュース」なのです。皆さんが本気になれば実現できる可能性に比べれば、内定ごときは、高々150円くらいの価値しかありません。

せっかく大学に入ったんだから、頭を使って生きましょうね。