■「内定への一言」バックナンバー編

「学ぶとは、自己を習ふなり」(道元)



おはようございます。

「古本屋巡リハ、重キ本ヲ負ヒテ遠キ道ヲ行クガ如シ」…と、昨日のブックオフツアーで徳川家康の境地を0.0001%味わった小島です。


どこでどう始まったか分からないこの小旅行…

昨日は男性が、スターHD木村さん(金融勉強会 
http://ameblo.jp/woody-village/  でおなじみ)と僕の社会人2人と下関市立大のF君、福大のMさん、女子大のMさん、久留米大のMさん(みんなMやん)の3人、そしてインストラクターの大月さんという少人数で、厳し~い天候の中決行されました。

中には、朝は「5冊にしておく」と言っておきながら、とても女の子の買う本とは思えないような本ばかり15冊も買った方もおられましたが、昨日は終了後に全
員で買った本を見せ合い、お互いに紹介しあえて楽しかったです。


それにしても、「大橋文庫」に行くと、なぜいつも「NHKラジオ体操第二」を10回やったような疲れに襲われるんでしょうか…。

昨日のおやじさんの電話を傍聴(するしかない間取りのお店)した限り、どうやら横浜のお客さんから通販の申込があったようですが、僕はかの書店のHPを一度も見たことがありません。

在庫の7割近くが機能していない宝の山が惜しくて、「目録はないんですか?」と聞いたら、「う~ん、ないねぇ」と言っていたのに…。それにしても、博多駅名店街で食べたお好み焼きは小さかった。

僕はここ数ヶ月は、特に歴史の「一次史料」を中心に集めていますが、それと同じく集めているのが東洋思想や禅関係の書籍です。

昔はただ趣味的に好きだっただけなのですが、今年は30歳で社会人10年目ということもあり、色々と今までを振り返って経験を整理することも多い1年で、歴史や禅の本がこれまでとは違う見え方をした年でもありました。

その中でも、特に僕が心惹かれているのは、鎌倉時代の禅僧・道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」です。


始まりは遠い昔、数学者・岡潔さんの『春宵十話』(角川文庫)を読んだことでした(六本松の葦書房さんに1冊売ってますよ。※11/17確認)。

数学を「情緒の学問」と言い切る世界的数学者が、大自然の法則と数学の世界を優しい筆致で語る内容に惹かれ、折に触れて読んできたのですが、その中には禅の話が時折出てきます。

数学とは、昔の僕もそうであったように「理系」の象徴的教科で、理性の権化のような学問だと思っていたのですが、岡博士は「違う」と断言されます。僕は数学は苦手だったのですが、その語り口には非常に惹かれ、ここから禅にやわらかな関心を持ったのだろう、と振り返っているところです。


その「春宵十話」から、既にFUN Business Cafeで以前読んだ「義務教育私話」の中には、道元禅師の「自己をすすめて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり」という有名な言葉が出てきます。

「自分の基準で世の中や自然を割り切ろうとするのが迷いだ。世の中や大自然の法則で自分を見るのが悟りだ」という、若き日の道元の悟りを表す言葉で、僕の判断基準となっている大好きな言葉です。

世の中、「自分なり」とか「自分らしく」という価値観ももてはやされていて、それも一面の真理はあるのでしょうが、人間はすぐに慢心して目の前のことさえも見えなくなるもの。

思い通りにならない現実にもがき苦しみ、「もう、どうにでもなれ!」と諦めた瞬間、ふわりと体が浮いたような気持ちになって、あれほど苦しんでいた問題がさらりと解けてしまった…という経験は、大なり小なり誰もが持っていることでしょう。

就活なら、「自分をどう見せようか」と苦心惨憺して失敗を繰り返したあげく、言うことがなくなって相手の話をじっと聞いていたら、「君は聞き上手で伸びそうだ」と言われたり…。

営業なら、手を尽くして契約を採ろうと虚勢を張って惨敗し、商品知識が尽きてしまって、相手の会社の感想を話していたら「それ、いいアイデアだね!」と契約が取れたり…。


考えてみれば、そこには「相手を思う」という当たり前すぎる素朴な現実が横たわっていただけのことなのですが、「自分、自分」と調子に乗っているうちは、そんなことにすら気付けなかったのです。

ライト兄弟以前の多くの研究者や飛行愛好家たちは、「人力で飛べる」と慢心したことから失敗を重ね、実に300年も人類の空への憧れは大自然の前に圧倒されてきました。

数々の自然科学の研究や技術改善の軌跡を学んだライト兄弟が最後に悟ったのは、「人知を捨て、人力への過信を去り、ただ自然の法則に合わせる」ということでした。


初飛行に成功した兄弟に、ある人が「おい、よく空を征服したな」と祝福の言葉をかけた時、兄弟が「冗談じゃない。我々が空に合わせて変わったんだ」と言った一言は、既に去年の秋頃のメルマガや「マネー塾」最終回でご紹介しましたよね。

自然の中には「大気」や「風」という現象があり、ただ人間がそれに合わせさえすればいつでも飛べたのに、そんな単純な事実も、「腕力や走力で飛べる」と思っているうちは、見えなかったのです。

就活でも、トークやメイクが勝負を決めると思っているうちは、連戦連敗を続けるものです。なぜならそれは、墜落死した多くの飛行家と同じく「大気」に相当する「相手の気持ち」が無視しているからです。


「自分のやりたいこと」に相手を合わせさせるのではなく、「相手の望み」を察して自分の長所や性格を表現する、ただそれだけの単純なことが、知識を詰め込むほど頭が鈍くなり、できにくくなるのです。

我意に固執して頑張れば頑張るほど、人間の思考や想像は偏狭になり、世間や他人を恨んだりはしてみるものの、世間や他人は一向に構ってくれません。

内定を決める要因は、「自分をどう見せるか」ではなく「相手をどう見ているか」であり、愚者の自己PRは「自分を伝えること」だが、賢者の自己PRは「相手の可能性と自分を関連付けることだ」とは、毎年の就活対策で何度も何度も言っていることです。


人生には、このように作為や虚飾にまみれているうちは目が曇って全然見えなかったのに、素直な気持ちになると驚くほど素朴な事実に感動する、ということがよくあります。

我々はそのたびに、「自分って、こういう人間だったのか」とか、「そうそう、こういう気持ちになりたかったんだ」と、成長の喜びと未熟さを同時に感じたりしてしまうものです。

つまり、人生で起こることは全て「自己を自己たらしめるための試練」であり、経験とは自分の本性を顕在化させるための出来事で、それは外面的には違っていても、本質的には誰の人生にも変わらない性質の事件が適度に用意されている、といえるでしょう。

だから、嫌なことから逃げることなど不可能なのです。嫌と思うのも自分。逃げるのも自分。逃げて出会うのも自分。踏ん張って気付くのも自分。

嫌だと思って後回しにしたり、適当な言い訳を付けて手抜きをしたような作業は、巡り巡って自分が一番苦しい時に、まとめて襲い掛かってきます。

あたかも、それは「あるべき自分」が「まだ分からんのか!」と追い詰めてくる葛藤のようでもあります。


そうして誰もが、自分との最も良い折り合い方を知り、慣れ、「ワンタッチ」で人生の本質に近付けるような眼力や素直さを身に付けていくのです。

ワールドカップ前に、オランダの伝説的ストライカーであるヨハン・クライフの「ワンタッチこそ、最高の技術である」という言葉を紹介しましたが、これは勉強や仕事、読書、人間関係にも当てはまる普遍的な真理です。

もちろん、就活にも当てはまります。素直に企業の要望を見つめ、自分の人生のあり方を見つめることは、案外難しいもので、最初のうちはエゴや利害に何度も惑わされます。

現代人の愚かなところは、人生や自分に何らかの問題が存在すると、それらは全て「不足」によるものだと無意識のうちに決め付けてしまうことではないでしょうか。

いわく、「集中力が足りない」、「時間が足りない」、「思いが足りない」、「行動が足りない」…。

進化論を信じた不幸な現代人の、前提からして既に間違った哀れな悩みというほかありません。


正しくは、不足ではなくエゴや虚飾の鎧が重すぎて潰されているだけです。

自分を飾ろう、認められたい、よく扱われたい、他人より良く評価されたい、といった自分中心の発想に囚われすぎて、自分を見失っているだけといえるでしょう。

人が新たな達成を得る時は、「何かを身に付ける」ではなく「元々あったものに気付く」だけです。


例えば「営業がうまくなる」とは、セールストークや商品知識を身にまとうことではなく、「相手の気持ちを相手の立場で聞けるようになること」です。

自分の思い込みや利益を一旦捨て、一切口を挟まずに相手の悩みや夢に耳を傾けられる自分になることです。

達成や悟りはいつも期待を下回って素朴なものです。大きな感動や偉大な達成は、いつも「やればできる」、「練習の成果」、「お客様のおかげ」など、シンプルな言葉で表現されます。

むしろ、心からそう思えない限りは、そう思えるようになるまで、何度も何度も現実から波状攻撃のようにボディブローを食らわされるのが人生だといえるでしょう。

そして、愚かで利己的な執着を捨て去った時、そこに元からいた素朴な「自分」の姿に気付き、「なんだ、自分ってこういう人間だったのか」と悟る…。

つまり、人間とはどこで何をしようが、結局は「あるべき自分」や「元からそうだった自分」に立ち戻る行為を続けているのであり、それを受け入れられるかどうかが幸せを決めるといえます。

2年ほど前に、「運がいい人とは、良いことが起きる人ではなく、起こったことに感謝できる人だ」という言葉を紹介しましたが、これともつながる境地でしょう。

道元は「学ぶとは、自己を習ふなり」という境地に達し、人生で起こる全てのことは禅の修業であり、我執を捨てて自然の法則と一体調和の境地に達することが人のあるべき生き方である、と説いています。

「学ぶ」とは、本来あるべき自分の扱い方を知ることにほかならず、人は知識や考え方を学んでいるようであっても、実はそれらは「自分」を学ぶ手段や鏡に過ぎず、そこで見える自分を認めるかどうかが大事だ、ということです。

ですから、バイト、サークル、ゼミ、勉強、就活、仕事など、表面的にやっていることや触れている情報、知識は異なっていたとしても、そこではいつも「本来あるべき自分」が待ち受けており、「早く素直になって気付いてくれよ」と見守っているともいえるでしょう。

…今日は説明の難しい内容で、自分の未熟さを感じます。

ただ、僕は記者時代から出光佐三さん、松下幸之助さん、稲盛和夫さんなど、日本を代表するような偉大な創業者が、なぜ円熟した後に、誰もが等しく禅の思想に達するのかが不思議だったので、今もこういうことに興味を持っています。

今まで読んで特に良かったのは、『春宵十話』はもちろん、『道元入門』(秋月龍珉・講談社現代新書)と『正法眼蔵を読む』(秋月龍珉・PHP文庫)です。

秋月さんは、20世紀で最も国際的に有名な日本人である鈴木大拙氏の一番弟子で、禅の思想を非常に分かりやすく説いており、私見ですが、学生さんの「自己分析」なる作業にも非常に役立つ本だと思っています。

少なくとも、僕は26歳で倒産スレスレの経験をして以来、「見性成仏」という考え方が本当に大切だと、平安時代や鎌倉時代の本から教わりました。

人の中には既に尊い姿があり、それは誰の中にも等しく存在する人間の本質で、他人はそれを気付かせることしかできない。

人が人を変える、個人が社会を作り変える、などといった発想は現代人の思いあがったエゴに過ぎず、できるのはただ、「本来あるべき自分」、「そうありたい自分」に気付かせるささやかなきっかけ作りに過ぎない…。


見性の「性」とは性別や男女の差ということではなく、「その人が持つその人らしさ」といったほどの意味で、絶対に「こいつは分かっていない」、「こいつは何も知らない」、「オレが教えてやろう」、「分からせてやる」などといった接し方をしてはいけない、ということ。

「成仏」とは、道元や親鸞が生きた頃の意味で言えば、現代的な「亡くなる」という意味ではなく、「仏の道にかなうこと=人としてあるべき姿に到達すること」です。

要するに、「見性成仏」とは、「その人の中に既に存在している尊い姿を信じて根気良く接し続け、ただその姿が引き出されるよう、虚心坦懐に奉仕させていただく」といったような意味です。


僕は別に、何らかの信仰上の理由からこんな話を書いているのではありません。ただ、このような心掛けは就活や営業、スピーチでも大事だと思っているし、ましてや僕より10歳近く若く、素晴らしい才能を持っている学生さんたちと接する時は決して忘れてはいけない、と考えています。

学生の皆さんは、既に尊い自分や、時を得て開花すべき偉大な才能を持っているのです。それを、自己過小評価や過去の失敗、自信不足、気後れなどの錯覚から正しく捉えられていないだけ。

学生さんがどれだけ「私には無理なんです」と言おうと、あるいは経験的に未熟であろうと、僕は学生さんにその才能や可能性が「ない」とは思えません。「ある」と信じるからこそ、あれこれ手を尽くして、これだけは間違いない、という知識や経験をお伝えするのです。

FUNに入って半年くらいすると、よく学生さんが「自分が変わった」とか「考えが変わった」と言うのを聞きます。普段の学生生活では接しない経営者や年長者に会い、実学的な経営や会計を学べば、表面的にはそう思うでしょう。



しかし、僕はそういう時、必ず「自分で考え始めただけだよ」とか「自分を思い出しただけだよ」と言うことにしています。

少なくとも、「変える」のような他律的な思い上がりで接することだけは避けねばならない。自分が手を尽くして変えるのではなく、自発的に変わる手助けをする引き立て役に徹しなければならない、とはよく考えていることです。

なにせ、「学ぶとは、自己を習ふなり」なのですから。



FUNで教えてきたこと、あるいはこれからご提供していくことは、全てこの考えの範囲内にあります。つまり「僕しかできないこと」ではなく、そうすれば誰にもできることであり、自分の創意工夫でいくらでもアレンジできる基本のみです。

それは突飛な知識やアクロバット的な技術ではなく、自分と今より少しはうまく折り合うための心構えや、先人の尊い知恵です。

僕は自分の独創的な思想を伝えようなどとは思っていません。僕ごときの未熟者にそんなことは大それた思い上がりです。それより、日本に伝えられてきた伝統や文化の奥深さを共感し、その延長線上で仕事や将来を考える仲間になりたいのです。


昔は「儲かって楽しい」とか「自分らしくてすごい」などということが生活の楽しみでしたが、今ではそういうことには虚しさを覚えます。

今生きていて一番幸せなのは、「歴史とつながっている」、「自分のやっていることが、日本のためにちょっとだが役立っている」という実感です。

自分を気にしなくなった所に幸せがたくさんあり、執着を捨てると自分が見えてくるなんて、昔は考えもしなかったことです。



今日は思いつくままにつらつらと書いてきて、意味が分からない部分もあったかもしれませんが、また1年後くらいに未熟者の悟りについて書こうと思っています。

大それたことや珍しいこと、無茶なことやトリッキーなことをしなくても、今ここに「あるべき自分」になれる全ての材料は揃っているのだと思うと、なんだか満ち足りた気持ちになってきませんか?

大きいことをやるのが自分らしさではなく、小さいことをどれだけ大きく優しい気持ちで受け止められるかが自分らしさです。

小さいことにもでっかく感謝でき、終わる頃には自分を全面的に受け入れて未来に同意できる就活を、ぜひ一緒に楽しんでいきましょう。