■「内定への一言」バックナンバー編
「配給された自由」(河上徹太郎)
今週で「FUN近現代史勉強会」の第一部が終了しました。なぜ「第一部」かというと、参加した皆さんから「ずっと学び続けたい」という声が絶えず、今後は場所と日時を変更し、改めて続けることになったからです。
初回の8回は「とっかかり」だけに、話題性がありつつも本質から逸れず、現代社会を見通すための必須文献の基礎編を中心に要約・解説しました。多くを選び、また、多くを割愛した8回でもありました。
学生さんに限らず、若いうちは物事の断片を聞きかじっただけで「よし、分かった」と錯覚しがちなものですが、僕は学生さんが学ぶ姿勢を深められたことが嬉しいのと同時に、あれくらいで分かったとは言ってほしくありません。
また、僕自身も高々8冊程度を選び、50冊程度を紹介してくらいで分かったとは言いたくありません。
無能な社会人から、営業という仕事を「きつい」と聞いた、ただその一つの間接情報から、世の中の仕事全てをきついと決め付けたり、スチュワーデスのドラマを見ただけで自分にもドラマのような出来事が起こったりすると夢想する「拡大解釈」は、愚かなことです。
同様に、歴史の断片を見聞きしただけで「日本人の国民性」とか「歴史の本質」などといった大げさな言葉を振り回すのも馬鹿げています。
そういうのは「群盲、象を撫でる」といって、知識に目がくらんだ愚者の姿です。感動が大きければ大きいほど、ただ「今まで何も自分では考えていなかった」という事実が浮き彫りになるだけのことです。
「情報が氾濫している」などといった「与えられた言葉」で社会を語ったつもりになる前に、「自分の頭の方がフニャフニャに腐っているのではないか」と疑ってみることも大事でしょう。
僕が近現代史勉強会で大切にしたかったのは、何より「言葉も出ないほどの沈黙に堪える」という経験です。
あまりの悔しさ、悲しさ、やるせなさ、嬉しさ、感動…。意見ではなくただ事実だけを追い、当時の人の気持ちに迫ってみると、現代の日本人がいかに軽薄な部分で人生を生きたつもりになっているか、よく分かったでしょう。
僕は安易に祖国を肯定して偏狭な愛国心に浸ったりするよりも、僕たちの祖先が代々、何百年も大切に守り伝えてきた伝統や精神文化が音を立てて崩壊していく音を聞き取れる、繊細な歴史の音感を学生さんと一緒に育てたいのです。
そして、そこに目線を同じくする懐かしさや愛情を打ち立てていきたいです。
正直、毎回のグループワークでは、他の「ビジネス塾」とか「マネー塾」ではいくらか内容に沿った討論が成り立つのに、近現代史勉強会に限っては「言葉が出ない」という実感が本音だったと思います。
それは正しい反応です。軽薄な流行作家や時流との合作で物知りな顔をする評論家と違い、近現代史勉強会で紹介した名著の著者は比較にならないほど鋭く、深く、温かい視点で人間や社会を見つめています。
誰のせいにもせず、素直にわが道を歩み、我を忘れて社会や他人のために貢献してきた人物の言葉は、あれほど鋭いのです。
自分の浅はかさやごまかしに頭がクラクラして、「一体、自分のやってきた勉強って何だったのか…」と、勉強そのもののあり方を語り合う学生さんが多かったのは、見ていて非常に素晴らしいことだと感心しました。
第一部最終回の⑧『日本を思ふ』(文春文庫)は、シェークスピア全集の翻訳家として著名な英文学者・劇作家の福田恒存さんの時局評論集です。
僕は小林秀雄、福田恒存、江藤淳の三世代のラインがとても好きで、この三人の本はFUNの顧問を引き受けてから、昔以上によく読むようになりました。
みな、既に世を去られたおじいちゃんですが、僕から見てとにかくかっこいいのです。今では死語どころか廃語とも言える「文士」という言葉が、よく似合う日本人といった印象です。
さる大手出版社が行った「最もカッコいい日本人ランキング」によると…。
キムタク ⇒ランク外
坂本龍馬 ⇒3位
という結果でした。
回答者は主に良家の主婦、資産家や上流階級が中心だったこのアンケートで、堂々の一位だったのは白洲次郎です。どんな人物かを知れば、おそらくテレビで芸能人を見るのが馬鹿馬鹿しくなると思うので、知りたい方は個人で調べて下さい。
白洲次郎・正子夫妻と小林秀雄夫妻が、子息同士が結婚したことで親戚同士の関係にあるのも有名な話です。僕はこのあたりの時代の文学や評論を読むと、一番現代の日本が見えてくると思っています。
慢心せず卑屈にならず、近代化のさなかでちょうど祖国の姿を回想していた大正時代前半の教育を受けた方々は、江戸の教育に次いで日本史上でも良い性質の教育に触れたのではないか、と考えています。
ちなみに、最低最悪、受けない方がまし、受けたら受けるほど頭がおかしくなる教育を受けているのは、1960年以降に学校に通った日本人だろうな、というのが僕の実感です。
だからFUNでは、僕が関わる時間に限っては、近頃の軽薄な学者や作家の本には一切触れません。学んでも価値がないからです。それより、何百年、時には千年、二千年も前の本を読んだ方がよっぽど現代社会が見えてきます。
偉大な先哲の言葉の前には、一瞬にして逃げ場が断ち切られるような切れ味と感動を同時に感じてしまうものです。同時に、人間性や社会の動きを鋭く簡潔な言葉に凝縮する思考力、というか思想の力に脱帽してしまいます。
僕も学生時代、あのような本を読んでの率直な感想は「悔しい」の一言でした。それ以外、一言も気の利いたコメントなど思いつきませんでした。
そんな悔しさの対象は膨大な数になりますが、一番悔しかったのは、多くの日本人が先人の思いを忘れてのうのうと生きている社会を見つめることでした。
そんな社会を数年間見つめ、今はこうして30歳になって、色々と学んだり余計迷ったりして、以前よりは落ち着いて生きることができるようにもなったのですが、当時と変わらず今も、改めて日本社会は「その通りだなあ」と思うことがあります。
それは、小林秀雄さんの一級上の先輩だった河上徹太郎さんの著書名でもあり、福田恒存さんの昨日の本にも引用してあった言葉です。
題して、「配給された自由」。
配給というのは社会主義を象徴する言葉で、要するに「予め決められた割り当てをお上から与えられる」という制度です。
そこには選択の自由など存在せず、顧客満足やカスタマイズといった概念とは完全無欠なほどに無縁です。選んでいるような気分なのに、実は選ばされているだけ。そして、いつしか考えることを自ら放棄する…。それが配給の本質です。
戦時中は石鹸やタオル、食糧、雑貨にも配給制度が適用されていたのを考えると、全体主義者も共産主義者も、経済の分野においては社会主義を信奉していたのは明白な事実です。
だから僕は右翼も左翼も嫌いで、良心的な伝統主義に立つ論客や作家が昔からずっと好きなのです。
孤独に屈せず、堂々と日本の精神を主張し、不足を認める勇気を併せ持ち、卑屈にならず慢心もせず、外国の素晴らしい点も学んで内外に礼儀を尽くした日本人が大好きです。
近現代史勉強会で学んだ本の著者に何らかの基準があったのかと聞かれれば、それはこのような条件を満たす人たちの著書を扱った、という点だけです。他には一切の他意もありません。
僕は「帝国主義打倒」とか「東亜解放」といった言葉を振り回す右の人々も、「平和が一番」とか「人命第一」ときれい事を振り回す左の人々も等しく知能が低いと思っていますが、それは経済や人間を見ないからです。
政治や教育と違って、経済はいつも動かぬ現実の問題であり、誤差は数字や統計として、はっきりと客観視できる形で共有されます。
人間、現実を無視すればいくらでも好き勝手な妄想に浸れるものです。そして、わが国の悲劇や失態を招いてきたのも、全てこれらの現実を無視してきた人々だと思っています。
後になって振り返れば、現代の僕たちでさえ、「なぜ当時、これほど単純なことに気付かなかったのか」と思う事件もいくらかあります。現代の価値観で当時を裁くのは卑怯な社会主義者の戦法ですが、そうでなく、当時の視点で見てみても、「現実逃避とはここまで恐ろしいのか」と思うことがあるのです。
それらが仮に「国民性」だとすれば、それは「受け売りをオリジナルと詐称する見栄っ張り気質」だとも言えるでしょう。
西洋の概念を使いこなしているつもりになっていて、実は体よく振り回されているだけだった…。そんな姿を見て、戦時中も戦後も日本人はちっとも変わっていない、という思いを新たにします。
戦後は言っている内容や国際情勢に変化はあったとしても、アメリカやソ連から新たな思想や自由が配給され、その路線に合わせて従順に生きる人間を優等生としてきただけのことでしょう。
政治やマスコミ、文壇などにおける全ての議論の基準は、「国家と国民の幸せに貢献するか否か」ではなく、「時代の空気に適合するか否か」にすり替えられ、誰もが人の目を気にせねば意見の一つも表明できない息苦しい社会になりました。
皆がおかしいと思っているのに、だれもそのおかしさを口にできない。口にした時の反応や結果が分からないばかりに不安が先立ち、仕方がないからマスコミや芸能人の話題を借りて人生の時間を埋め合わせる…。
まさに、思想や自由だけでなく、情報や話題すらも「配給」されているのが、現代の我々の生活です。
そして、戦後のわが国が行ってきた壮大なる「現実逃避」がいかに恐ろしい結果を招いてきたかを知るのが、近現代史勉強会第一部の目標でもありました。
価値あることなどは、まだほとんど学んでいません。最初の8回でやったのは、歴史や人間を見るための視力補正のような作業で、多くの学生さんがマネー塾、ビジネス塾、営業塾、スピーチ塾などが全てつながって見えてきた、と言ってくれたのは嬉しい感想でした。
もし、若輩浅学たる僕の物の見方や考え方が「いくらか参考になる」という学生さんがおられたなら、近現代史勉強会にその本質というか根本的原因を見出したことでしょう。
僕が大学を出ていないにも関わらず、いくらか勉強らしいものを継続できてきたのは、意見や流行には一切耳を貸さず、テレビも新聞も家から追い出して、仕事ではひたすら「情報」ではなく「情報源」たる経営者と接し、勉強ではただ一次史料や絶版の名著を買い集め、読み比べ、そこから時代の息吹を復元する想像力をコツコツ鍛えてきたからだ、と思っています。
まったく、FUNの顧問というのは時に「メイクアップアーティスト」でありながら、時に「整骨院の先生」みたいでもあり、学生さんの中にブツ切りで断片的に存在している思考や知識をつなぎ合わせるための会計センスや歴史の知識を、人知れぬ静かな沈黙と集中の中で再統合して、レジュメとして表現していく作業にほかなりません。
今や僕一人でお手伝いするには無理な規模なので、大月さんをはじめ、今後は独立してお世話する学生さんが何人か出てきてもよいのではないかと思っていますが、そんなことを言ったら「FUNに就職したいです」という人が出てくるかもしれませんね。仕事ならサークルでなくてもいくらでも作れますが…。
現代の我々は、何かを考えているようで、その実何も自分の頭では考えておらず、ただデータベース化された他人の人生の履歴から都合のいい情報を引っ張り出してつなぎ合わせ、それで人生を描いたつもりになっているのです。
情報化社会が進行すればするほど、思考の自由は死んでいきます。情報技術が発展すればするほど、よほどの注意がなければ細かな単純・反復作業に込められてきた偉大な意味が失われます。
僕は合理主義の好きな経営者ですから、文明の利器を批判して「物が豊かになって心が荒廃した」みたいな知恵遅れ人間のような意見は言いたくありません。
新しい時代を生きる人間の試練とは、常に文明と文化を融合させていく「温故知新」の孤独な営みであり、そこで生じる苦悩や失敗を優しく厳しく軌道修正してくれるが、歴史書や古典だと思っています。
そして、そのような名著を読めば読むほど、時代は新しくなっているようでも、肝心の人間だけは全く進歩しておらず、古人から「もっとしっかりせんか!」と叱られているような気分になります。
まあ、そうは言っても、自分から古い本を買って難解な文章を読み、自らの足で遠方の人に会いに行き、素朴な問いでも体験を持って答えを獲得し、血肉に変えていく、といった地道な努力が好きな殊勝な若者は、ほとんどいません。それより、「保証済み」の他人の方法を借りてつなぎ合わせた方が、手っ取り早くて楽です。
就活だって、大半の人にはそうでしょう。
そこでは別に、人生に対する本格的な問いを持っていなくても、既に「自己分析⇒業界研究⇒エントリー⇒エントリーシート提出⇒いくらかの書類選考⇒面接⇒再度面接⇒最終面接⇒内定⇒内定式⇒入社」というプロセスが既に標準化され、配給されています。
こういう配給された他人の人生設計方法を「活動」と言い含めるのは詐欺行為に等しく、このような「手続」に過ぎない、しかも相手が存在しないプロセスは「就活ごっこ」でしかありません。ただ黙々と自分の問題だけに執着すればいいのですから。
前もって用意されただけの手順を踏んだだけで名称は「社会人」になれたとしても、それが人格的な成長を意味するかどうかは、どれだけ「主体的な問い」を持って、それに根ざした自己責任の行動を取ってその結果を見つめたか、によります。
別に就活で成長するのではなく、問いと学びの往復の間で成長が存在するだけです。そのためには、自分で靴を履き、マメができるほど自分の足で歩いてみることです。
いくらか手続に詳しくなり、受けたり落ちたりした経験を重ねただけで自分が成長したと勘違いする幼稚な4年生も多くいますが、よくそれで後輩に物が言えるものだと呆れ返ってしまいます。
ゴチャゴチャ口で言う前に、先輩として、社会人として後輩が「そうありたい」と自ら憧れるような姿を確立すればいいだけではないですか。感動や尊敬以上に良い情報など存在しません。
就活でも受験と同じようにプロセスが標準化されているがゆえに、悩みもまた前もって標準化されて配給されます。
主な悩みは、スタートが同じ時期だけに「遅れているのではないか」という恐怖から生じます。考えてみれば、当然のことです。
もう一つは、多くの学生は「ストック(考え方)」ではなく「フロー(情報)」に価値があると勘違いしているので、情報力、つまり処理する力や思考力の不足から「混乱」や「優柔不断」が起きるのは、最初から明らかなことです。
そして、そういう悩みが生まれて現実逃避がしたくなった学生のために、ご丁寧に「就活本」というジャンルの本まで用意されており、解決策まで配給されています。
手順もスリルも、悩みも解決策も、全てはどこぞの他人たちが膨大な規模で何年間も実践してきた中から標準的な物を選び、それに広告や宣伝の虚飾を施して行われているがゆえに、初めて会社に入って自力で現実と向き合った時、「やりたい仕事じゃないかも」などという愚かな悩みが生じるのも、また当然のことです。
要するに、内定して入社するまでは、ただ安心や見栄を求めていただけに過ぎず、「今から自分は働いて自力で生活を打ち立てるのだ」という当たり前すぎる現実と、アポイントなしで遭遇したような気分に陥るわけです。
つまり、入社した時に初めて就活らしいのが始まるのが大半の新卒であって、その現実と理想の摩擦に耐えられなかった若者たちは、半数近く、つまり「全体の3割」ほどが投資を回収する以前の「赤字社員」のまま退職していくのです。大学に入った途端に勉強をやめ、「いかにサボるか」にのみ知恵を絞って使い物にならなくなる多くの大学生と、全く同じ姿だと言えるでしょう。
配給に頼って生きる輩には、配給が「人によって決められた」という性質を持っているがゆえに、自己責任での選択とは全く逆の性質を持っていることから、いつも「これで足りているのか?」、「もっと良いものはないのか?」という戦時中の日本人と同じ悩みが生じるのも無理はないでしょう。
自分で選んだ人間の悩みは「ここでどう頑張るか」、「自分をどう変えるか」ですが、配給された思想や情報に頼る社会主義者の悩みは「不足」や「比較」から生じます。配給生活者はいつも劣等感に苦しんでいますが、それは不足そのものではなく、常に「比べたがる性格」からそうなってしまうだけのことです。
「とーちゃん!隣の太郎君のパンの方が大きいなんて許せないよ!」と言っていた戦時中の少年と何ら変わらぬ姿です。
要するに、人と比べて自分の方が劣っていることが許せず、不足がいつも不安で、全ての物事の価値は「自分や社会の幸せにどういう効用があるか」という本質的なものより、「社会的、外面的なランク、量で優れているか」といった形式的な要素によって決められるわけです。
競争率が高い会社や学校に入ることは何ら優秀さを示す尺度ではなく、そういう行列を作る才能の方がよっぽど優れているわけですが、社会主義に洗脳された青年たちは、「より良い配給」を受けた奴隷としてのランクを誇りたがります。
ということで、僕の代から今も変わらず、内定した、入社したと思っていたら、実は自分には全く根っこが存在しなかった、と後から気付いて後悔する社会人のなんと多いことか。要するに、配給された意見や情報で考えたふりをしていただけのことです。
僕はFUNの顧問を引き受ける前から、こういう職業指導、就業形態に潜む現代教育の社会主義的な性質が非常に嫌で、自分の力不足ではないのに必要以上に自分を卑下するフリーターをなんとか助けられないものか、と色々工夫を凝らしてきました。
FUNではそのノウハウの中でも最も良いと思えるものを選んで再編集し、学生さんとともに学びながら講義や資料を作っているわけですが、自分の頭で考え始めた学生さんは、どんなリスクを抱えても決して不安にはならず、むしろそれどころか進んで問題のあるところで働きたいと言うようになり、非常に頼もしく思っています。
また、メディアやサイトではなく、企業取材によって自らの足と目で「情報源」と接した学生は、動じぬ自信と夢を手に入れる手掛かりを集め、目に見えて勉強の方法や姿勢が変わってくるのも、見ていて感動する姿です。
愚者の志望動機は「憧れ」とか「有名さ」ですが、真に社会に貢献する青年の志望動機は人の悲しみであり、社会再建ではないでしょうか。
2年ほど前の本メルマガでも扱いましたが、本物の情熱の前では、むしろ人や会社の欠点こそ志望動機になるものです。
誰かが既に作った利益の上に守られたいと望むなら、それは「就職」とは言っていても、実質は老人ホームに収容されるのと何ら変わりはありません。
福利厚生?業界内順位?ブランド?資本金?…「条件」を動機にする人間を老人と言い、「可能性」を動機にする人間を若者というのです。年齢など関係ありません。
自ら動けばいくらでも変えられる条件を、既に「決まったもの」と諦めたり、あるいは「保証されたもの」として安心したりする…老人の悪い癖です。というより、こういう考えに慣れ始めたら、学生であれ更年期障害の始まりだと言ってよいでしょう。
エステに通っていようが、最新のファッションに身を包んでいようが、こういう人間は老化現象を起こした老木に過ぎません。心の老人には、幸せも健康も、休日も小遣いも、遊びも趣味も、全て配給されるだけです。
皆さんもテレビを見る時間を1時間減らして、古い名著を読まれてみてはいかがでしょうか。そこには浅はかな答えではなく、現代社会にも通じる深い深い問いが潜んでいます。
それに、若者は、答えよりも問いを共有した方が良い友達になれます。
既製品や借り物の人生ではなく、自らの頭脳と心を鍛えて創造する人生を歩みたい方は、ぜひ古典や歴史の読書をおすすめします。経営書や経済書とは比べ物にならないくらい深いですよ。就活への効果もまた、絶大です。