■「内定への一言」バックナンバー編
「いま生きているという実感は、欠けによってはじめて得られる」(林武)
当初は「FUNゼミの補習」(当時は「就活ゼミ」)として始まり、次に1年ほど実務知識の勉強会として続き、去年の夏からは「絶版書の輪読会」として、毎週土曜日の朝にコツコツ続けてきたFUN Business Cafeで紹介した本は、既に50冊を超えました。
この中で紹介した本は
http://forfun.zzkt.com/l16.html
で全て見られます。
いずれもそれぞれ、学生さんの「会心のヒット作」となった本ばかりで、ここで紹介された本は1、2週間以内に福岡市内のブックオフからなくなっているようです。
インストラクターの大月舞さんは、おそらく僕が紹介した本を最も多く読んできた方ですが、「毎週、こういう本を読みたかったと思うような名作ばかりで嬉しい」と言ってくれ、紹介した僕も毎週感激しています。
「就活お手伝い係」として始まった僕のFUNでの役割やイメージからか、あるいは前職の経済誌記者の印象からか…
実務書や経済書、会計、金融関連の本を読んだ時は、「やっぱりこんな本をよく読まれるんですね」と言われ、「日頃はそういう本ばかり」と答えました。
歴史、古典、評伝、戦記などを読んだ時は、「こういう本も読まれるんですね」と言われ、「昔から一番好きなジャンルだ」と答えました。
そんな中でも、実は僕が大好きなジャンルで、しかし「小島さんがこういう本を読むなんて意外です」と時々言われるのが、2ヶ月に1回くらいの割合で選んでいる「芸術関係」の本です。
でも僕は、経営も歴史も芸術も基本は同じだと思っているので、何の違和感もありません。
それどころか、優れた芸術家や作家、批評家の鑑識眼は超一流で、物事の本質を静かな心と澄んだ目で見つめた文章は、一枚の名画のように美しいものです。
僕は、おそらく僕のどこからも「美しい」などという言葉は連想できないようなキャラクターの人間ですが、心中密かに「美しいもの」が好きです。もっといえば、人間の美しい姿が好きです。
僕がフリーターの応援や学生さんのお手伝いをしているのは、夢を目指して自分を信じ、一歩一歩実現のための階段を登っていく姿がとても美しく誇り高いと思っているからです。
その意味では、僕は芸術のセンスも知識もない人間ですが、「実社会をキャンバスに感動と事業を描くアーティスト」でありたいと常に願って働いています。
そんな思いで過ごす毎日の中、土曜の朝から楽しみにしているBusiness Cafeで、昨日は『美に生きる』(林武/講談社現代新書)を読みました。
林武さんといえば、非常な苦労と病気に打ち勝って独学で美術を学び、東京芸大の教授として絵の美しさを表現し、教え続けた画家です。
僕がこの本を知ったのは、高2の時、僕の家庭環境を思って下さった世界史の先生が、「君の気持ちを受け止めてくれる本になるだろうから読んでみなさい」と勧めて下さったことがきっかけでした。
そういう紹介だったために、「どこがどうそうなのか」と思って読んだ記憶がありますが、読み終えて確かにそうだ、先生はなんで分かったんだろうと不思議に思ったものです。
僕が当時特に共感したのは、厳格な国語学者だった林さんの父の姿と、その振る舞いに翻弄されて生きる子供たちの健気で哀れな姿でした。
もう一つは、「ここまでのろけるか」と思うほど無邪気に奥さんへの愛を綴っている点で、特に「あとがき」は、世の妻全てが「こう言ってほしい」と思うのではないかと感じる「公開ラブレター」のような文章です。
昨日読んだ箇所は、後半の「欠けとならし」というとても有名な章です。
「不足や欠点の美しさ」を自然の営みや人生論から説いた名文として、本書の愛読者であれば皆が推薦する章でしょう。
この章からちょっと引用してみると…
~『われわれの日常生活は、完全を求めながら、欠けをならす営みであった。いま生きているという実感は、欠けによってはじめて得られる。
欠けが魅力であるのは、そして、美人がほくろや八重歯によって、また顔をほころばせることによって、あるいは泣き、怒ることによって生き生きとした魅力を表現するのは、それがわれわれのつりあいへの欲望をそそるからである。
欠けこそが生きていることの証しとなる。食事をする。恋をする。すべて欠けを充足し、ならす生の営みである。欠けばならしを求める生の姿であるがゆえに、なまなましい美となる。
この美は、民衆が人間としての権利を獲得したときに発見された。美醜の観念は、このときにまったく変った』~
この部分は、父を亡くした空虚感が未だ癒えなかった高校生の頃の僕に、特に強く迫ってきた一文です。
「自分だけに起こった」と恨んでいた悲劇を、もっと広い自然の法則や、昔の人々が等しく繰り返してきた人生のあり方から説いてもらったことで、ようやく過去の経験を客観視できるようになったきっかけでもありました。
といっても、今だからそう言葉で説明できるのであって、当時はもっと漠然とした、ただ「そういう感じ」としか言えない感想で、この本を書いた人はなんと優しい人なのかと、ちょっと運命的な本に出会ったような気持ちになりました。
人生に何か問題があるとき、大抵の人はそれが何らかの「不足」に由来すると無意識のうちに決め付けるものです。
ですから、それを人と比べて劣等感に陥ったり、あるいは「埋めよう」と猛烈な努力を試みたりします。
なのに、いざそれを埋めてみると、たどり着いた風景は「満たされている」という状態どころか、さらに壮大な「欠け」であった、という経験は、皆持っているのではないでしょうか。
「私は勉強ができない」と思って知識で「欠け」を埋める。
知的欠落を埋めて安心するかと思えば「慢心」が生じ、「思いやり」が欠けた自分を発見する。
それではいけないと、名作文学を読んで思いやりの気持ちを回復してみると、次は「日頃全くその思いやりを実践していない」というさらに壮大な「欠け」に気付く。
こうして、最初は欠点だらけの自分と思っていたのに、次第に他人を思いやる優しさが生まれ、他人の欠けを満たそうと動き始めると、「世話好き」になって時間の「欠け」が発生する。
忙しいと思って心中困っていると、次は誰かが登場して助けてくれ、自分の時間的欠落が満たされていき、感謝が足りないと新たな「欠け」が生まれ、それは永遠に循環していく…。
といったサイクルからも分かるように、一つの満ちは一つの欠けの始まりであり、林さんはそれを美術の面から自己の経験に基づいてとても分かりやすく説いているわけですが、いつ読んでも気持ちが落ち着く名文です。
要するに、「欠点、短所の集合体」が長所になることもあれば、「長所の集合体」が欠点になることもあるのであって、僕たちは平素、長所や短所が別個に切り離されて存在すると思い込んでいるから、余計な雑念にとらわれる、とも言えます。
例えば、これは昨日も紹介した例ですが、松下幸之助さんは「なぜ成功したと思いますか」と聞かれ、「体が弱くて学問がなかったからだ」と答えました。
普通の人なら真っ先に短所に挙げそうなことを、よりによって資産数百億円の成功の理由に挙げているわけです。
松下さんは「体が弱かったから人を信頼してお願いすることができた。学問がなかったから人の知識を素直に求めて感謝することができた」と続けています。
要領が悪い、ケアレスミスが多い、専門知識がない、何事においても未熟すぎる…という自分を見つめれば、誰よりも他人の応援に感謝できる「素直さ」という長所に転じるでしょう。
短所の塊のような人も、人に感謝する心さえ忘れなければ、人を惹き付けて離さない巨大な魅力を持ちうるものです。
反対に、何でもできて周囲から完璧と思われている人でも、長所の塊が冷たさや慢心を招けば、それはいくら長所を挙げても足りない巨大な短所になってしまいます。
まさに満ちと欠けは表裏一体であり、相互が原因であり結果です。
ですから、欠点を欠点とだけ見て落ち込まず、長所を長所としてだけ捉えて慢心するのではなく、相互を「表れ方の違い」だと考えて、もっと循環的、長期的に人生を考えてみてはいかがでしょうか。
仮に「業界知識が不足している」という欠けがあったとして、それを埋めても別の欠けが見えます。その欠けは新たに生じた欠けというよりは、一つの部分が満たされたことによって自覚が鮮明になった欠けなのであって、「元々劣っている」というような種類の欠点ではありません。
内定をもらっても、それは「就活」という基準から見た満ちであって、内定後に取って代わる「社会人」という新たな基準から考えれば、内定した程度の状態では壮大な欠けであることは、誰しも気付くものです。
そして働き始めれば、実務面では人脈や知識、経験、信用、実績があまりに乏しい自分に嫌気が差し、それを埋めようと必死に努力していくらかの改善を達成すれば、次はリーダシップやマネーセンスが足りないと思えてきます。
そこでそれらを埋めてみると、次は愛情や健康が足りない自分に気付き、幸せの動機も基準も、こうして年齢や経験を重ねるほどに変化していくのです。
そこにあるのは「欠けの自覚」と「埋める努力」の繰り返しで、だからこそ「いま生きているという実感は、欠けによってはじめて得られる」と林画伯は説きます。
足りないことを恐れる必要はなく、むしろ20代前後で「満たされている」と思い込んで停滞するほうが怖いことです。それは「希望なし」、「成長なし」という巨大で悪質な欠けにつながるからです。
足りないことも、埋めている間は楽しいし、埋めればこそ感動があります。空腹を埋めれば満腹になるし、寂しさを埋めれば喜びになるし、寒さを埋めれば温かさになるし、無知を埋めれば知恵になります。
喜びの影にはこのように、常に「欠け」が存在しており、一つの欠けを埋めれば新たに一つの欠けを自覚し、また喜びも同じように、循環していくのです。
まさしく、やせ我慢やカラ元気ではなく、「不足万歳」と言える心境だとは思いませんか?不足や欠落にコンプレックスがあるという方は、ちょっと視野が狭かったり、視点が短かったりするだけではないでしょうか。
欠けは欠けているからこそ欠けなのであって、それは「満たされる前」であるに過ぎません。
そう考えれば、存在自体が不足と欠落の塊である学生さんは、誰よりも多くの満たされる喜びを味わえる位置にいると言えます。前進しさえすれば。
自らの短所に感謝し、そこから大きなチャンスを掴みたい方は、ぜひFUNで一緒に勉強しましょう。
FUNはきっと、あなたの中にある欠けや渇きを優しく楽しく満たす、オーダーメードの井戸のような場になるでしょう。
また、未来に訪れる出会いと可能性に対しては常に欠けているFUNも、皆様のご協力によって満たされている存在です。