■「内定への一言」バックナンバー編
「見捨てられていることと、孤独とは別のことだ」(ニーチェ)
FUNで今までサークル内講義、対外講座、自由勉強会などを含め、3年半で400回以上のスピーチをしてきました。
僕は教師でも研究者でもなく、福岡市内で細々と事業を営む一経営者に過ぎないので、講義の内容はあくまで僕が個人の関心と責任において集めた文献の解説や、あるいは10年間の社会人経験で得た実務知識、及びビジネス思考の提供が目的となっています。
そんな僕がコツコツ休まず続けている講義ですが、そういう話でも休日の早朝や授業終了後に聞きに来てくれる学生さんが、サークル内外で毎週50~70人ほどおられ、その終わりには一応「拍手」をいただけることになっています。
内容に対する共感なのか、発見に対する感動なのか、あるいは知識を得られた喜びなのか、動機はいずれであるにしても、単なる惰性的習慣ではない若者の拍手をもって毎回の講義をしめくくれるのは、教師でもない僕が毎回小さな達成感とともに学生さんへの感謝や愛情を確認する瞬間でもあります。
ところが、昨日の『近現代史勉強会⑦』では、過去400回以上の経験で一度も起こらなかった事態が…。
それは、「拍手が起こらなかった」ということです。さらには、それにすら気付かなかったということです。
昨日の内容はそれほど衝撃的で、感動的で、頭の中と心の中に一瞬にして電気ショックが駆け抜けるような知的興奮、あるいはそれともつかない自己忘却、言い知れぬ屈辱、自己発見といった感慨があったようです。
評論や概説ではなく、歴史的事実を記した一次史料に迫ること、あるいはそれを発見して初めて届けた作家の洞察に迫ること、それがどういう衝撃をもたらす学びであることか。
まるで10年前の僕を回想するような姿の学生さんたちを見て、さらにその後喫茶店で文献を輪読して感想を語った後は、皆さんの素直さと姿勢の立派さに、「こういうサークルをお手伝いしてきてよかった」と心から思いました。
それにしても、「近現代史勉強会」は自由参加でありながら反響の大きさに定員を超え、7回にして収容人員を超えてしまったので、一度来週の第8回で打ち切って、会場・日時を再検討することにします。
ここまで継続希望、学習希望が多いとは、僕も嬉しい悲鳴です。
「拍手も忘れて、しばらくその場を動けない学生さん」の姿が、起きた今も鮮明に脳裏に浮かんできます。そしてその後の、目を輝かせ、凛とした表情で「これからもっと勉強します!」と行って店を出る頼もしい姿も。
僕の持論では、歴史に勝る自己分析、志望動機研究、時事問題学習、業界研究はありえないのです。
歴史的一次史料に比べれば、『金持ち父さん』など幼稚園児向けパンフレットのようなものです。
今までご提供してきた『スピーチ塾』、『ビジネス塾』、『マネー塾』、『財務・会計スペシャル』、『営業塾』、『取材塾』、『面接塾』、『作文塾』など、県外からも参加者・教材購入者が絶えない各種講座は、全て僕の歴史研究の派生的な「影」に過ぎないものです。
僕の家には、ビジネス書や戦記に加え、この3年間一度も発表していないような資料や書籍が、大学教授の研究室の数倍の規模で蓄積されていますから、今後は地道に資料の質を上げてさらに深いレジュメ、講義を発明し、ともに最高の感動に到達する学びを続けていきたいと願っています。
その全てを整理・収容する予定の『FUN図書館』は、来年頃に僕の新居のリビングに開設される予定です。
先日その家を見に行ってきたら、「家賃27万円」ということでしたが、学生さんのためなら別にそれくらい払っても惜しくありません。ぜひ開設を楽しみにお待ち下さいね。赤坂地区にはこの1年で続々高層物件が建てられるらしいので。
FUNに集まる学生さんには、高校時代に運動部のキャプテンだった人や、あるいは生徒会長だった人、他には何かのチームでリーダーを務めた経験がある学生さんが多い反面、一人で孤独に耐えてきた物静かな学生さんもおられます。
およそ傍から見れば、一体何の集まりであるか分からないくらい多種多様な学生さんが集まるFUNに共通しているのは、「孤独との付き合い方を変えたい」と願う学生さんが多い、ということではないでしょうか。
友達といる時は明るい、だけど家に帰ると言い知れぬ不安に襲われる学生さん。
人を助けている時は勇気に満ちているけど、自分の課題と向き合う時はその勇気を振り絞れない学生さん。
なかなか人に溶け込めず、新たな出会いの取っ掛かりを掴むのがやや苦手な学生さん。
あるいは、人をつなげ、盛り上げ、勇気付けることを率先して引き受けて場を和ませる学生さん。
そんな学生さんが、一枚のビラや友達の紹介、あるいはHPへのちょっとしたアクセス、雑誌forFUNでの記事をきっかけに、素敵な仲間に変わっていく姿を見るのは、顧問としての立場で味わえる最高の感動です。
そういう姿を毎週観察していると、どこかに昔の僕と似通ったところがあって、「年は10歳くらい離れているけど、みんなとは一生の友達だろうなあ」という感慨に浸ることがあります。
僕の本業は「さみしがり屋」ですから、こうして若い世代と深く本質的な話題で触れ合える場があるのはとても有り難いことです。ただ漫然と時間を共有するよりも、深いところで認め合える実感こそ、孤独の意味を高めてくれるからです。
本メルマガでも時々引用してきたニーチェは、「見捨てられていることと、孤独とは別のことだ」という言葉を残しています(『ニーチェとの対話』西尾幹二/講談社現代新書/1978)。
4年生の就活での挫折、疲れ、悲しみを深いところで希望に変えてきた人気図書『いきいきと生きよ』(講談社現代新書)の著者・手塚富雄さんの弟子である西尾さんは、「孤独」について以下のような解説を行っています。
~『通例の人間、とくに日本人の場合、自分だけが一人ぽっちに置き去りにされた寂しさ、世間は明るい光に包まれているのに自分だけが暗闇に見捨てられている頼りなさを、孤独と呼ぶのであろう。
しかしニーチェの孤独はそうではない。孤独は彼が自分で欲し、自ら招いた結果である。そこには能動性があり、高い次元での共同体への欲求がある。
人間と人間とが深いところで結合し、個体であることを放棄し、融合帰一している状態への強烈な憧れがある。
孤独への意志と、共同体への希求とは、明らかに矛盾した、逆方向への志向のように見えるが、ニーチェの内部ではそれはなんら矛盾ではなく、彼を前方へ駆り立てていくもっとも基本的な生への衝動の一つであった(P40)』~
様々な名文、優れた洞察に溢れるこの本の中でも、僕は特にこの部分が好きです。
それは昔は、過去に自分が行ってきた、いくつかの「排他的」と断罪された判断や行いの数々を、「それでいいんだ」と認められているような安心感に浸れたからですが、今では「孤独に徹する強さを持つ者こそが本当の出会いを持てる」というさらに深い同意に達したからです。
FUNも最初は、大濠公園前ミスタードーナツで不定期に発生する、単なるビジネスの語り合いに過ぎませんでした。
それが4年で数百人の学生を巻き込み、今では100人近くの部員、OBを抱えるサークルになりました。
「サークルで就活や勉強に取り組む」という表面的行為だけを抽出すれば、「ふん、自分は一人でやれるからそんなのには反対だね」と思う若者もいるでしょう。
しかし僕がサークル発足当初から、「FUNは居心地に良さに安心して、自らの人生に立ちはだかる課題を都合よく忘れる場ではない。みんなで学ぶのは、一人の時に強い人間になるためだ」と言ってきたのは、入部して2年以上たつ学生さんであれば、誰しもが聞いたことでしょう。
そして、「今日は元気をもらいに来ました、みなさんに元気を分けてもらうために来ました、などと言うな。みんながもらったら元気がなくなってしまう。集まるのは純粋に与えるためだ。自分のことなんて考えなくていいから、友達を応援し、後輩を励まし、先輩を称えるために集まれ」と言っているのも、よくご存知でしょう。
孤独を正視できず、集まりに嫉妬して批判を行うことでかろうじて自己の尊厳を保つような皮肉屋には、孤独の本質は決して見えてきません。
そのような孤独は、本人は三流ポップスでも聴いてその歌詞に自己同化を行うことでロマンに浸っていても、実は健全な社会性が欠如した結果であるに過ぎず、とても積極果敢に受け入れ、楽しんでいる孤独とは呼べません。
何も集まって同じ部屋にいるから孤独が癒されるのではありません。授業が終わって友達と楽しくおしゃべりしていても、その中で登場する話題が人生の核心や問いから外れたものであれば、家に帰れば我に返り、余計寂しさが募るだけでしょう。
それは、自分で自分を見捨てているという点で、とても大人の孤独とは呼べないものです。感傷的な恋愛ならそのような心象風景も似合うでしょうが、人生の問いに裏付けられない孤独は単なる「孤立」に過ぎません。
孤独であるかないかは、「人と一緒にいる」という唯物的な見方によって判断するのではなく、「精神的に共鳴しうる友がいるか」という内面によって判断するべきことでしょう。
そして、たとえ一人でいる時間が長かろうが、深いところで分かり合い、認め合い、高めあえる友や先人を持つことが、学生時代を豊かな時間にしてくれるのではないでしょうか。
人生に対する真剣な問いを捨象して、「ただ学生時代は自由だから」と問いを無視して過ごすなら、自らの学生証の「○○大学」の「大学」の部分を修正液で消して、新たに「老人ホーム」と書き換えた方がよいでしょう。
自分で自分を見捨てた人間がいかに堕落するか、孤独をつよがりで認めない人間がいかに現実を曲解するか。
挫折を強弁で糊塗してごまかす人間の人生が「人生ごっこ」でしかないこと、そしてそれが戦後いかに日本社会を歪め、数々の悲劇の原因となってきたことか。
昨日の近現代史⑦では、現代人、とりわけ若者が抱える空虚感や無力感の最も本質的な部分と関連する現代史の事実を扱ったからこそ、自らの孤独の本質を理解した学生さんたちは勇気と優しさに満ちた表情になったのではないか…。
そう考え、2日の徹夜で行った資料検討・文章校正の疲れが達成感に変わるのを実感しつつ、昨日は眠りにつきました。
就活でも孤独は生じます。孤独は素直に観察すれば、仕事の魅力や人生の深さをよりよく反映させてくれる触媒になるでしょう。
怖いのは負けることではなく逃げることであり、孤独ではなくごまかすことです。
今そこに、最高の自分になれるきっかけは全てそろっているのですから、自分が選んだ人生で、その中で最も自由に成長を遂げられる大学生活の中で、ぜひ孤独を友とし、立派な成長を遂げていきましょう。