■「内定への一言」バックナンバー編

「健康であるとは、自分自身の存在に気が付かないということだ」

(ニーチェ)




月末の昨日、一昨日は、立て続けにFUNの学生さんから第一志望内定の連絡を受け、またまたサークルに活気が出てきそうです。頑張っていた先輩が努力と継続で掴み取った内定、ぜひみんなで称えてあげましょうね。

例年FUNで一番大きな祝福を受ける先輩は、「一番最後に内定した人」です。今年、その栄光は誰の手に…?該当者には、僕から祝意を込めて「たけのこの里」をプレゼントしたいと思っています。

昨日はインストラクターの大月舞さんが、福大の新しいサークルの発足イベントに招かれて講演したようで、色々と感想を聞きました。FUNも今や、たくさんの団体、企業から助けを求められるサークルになり、ずいぶん成長したものです。


学生さんや、かつては部員で今はインストラクターとしてサークルを応援する大月さんたちの純粋な努力の傍らで、僕は『マネー塾』や『近現代史勉強会』といった超ブラックな講座をこっそりやっているわけですが、このような講座が学生さんに熱狂的な支持を受けるのは意外なことでした。

特に、このようなブラックな話が入部以来「大好き☆」と言ってはばからないのがO月さんで、3年間ほぼ毎週3日以上会っていれば無理もないかもしれません。

僕は最近になって、「知らなかったよ、君がこんなに腹黒いとは」といじめているところです(笑)。いえいえ、大月さんは物事の本質を大らかに見ることのできる、優しい先輩ですよ。


歴史や会計の勉強が人気があるのは、きっと、「隣にいる人」の行動心理、発言の裏に潜む心理、学生や社会人といった集団の心理が手に取るように読めるようになるからでしょう。

また、それ以上に内定した4年生からよく聞くのが、「自分がやってきた自己分析なんて、何も分析していなかったに等しいくらい浅いものだった」という声です。

別に自己分析補助のつもりでやっているわけではないのですが、結果的に「最も自分が見える時間」として定着しているようで、それはそれで良い収穫だと思います。


そんな中、最近改めて『マネー塾』で紹介した言葉の中で、特に学生さんから人気だったのが、「健康であるとは、自分自身の存在に気が付かないということだ」という一言でした。

「自分自身の存在に気が付かない=自分を忘れる」。

それは自然や他人といった対象と一体となり、その中に自分を埋没させて完全に利他的な心境となって、仕事であれば「お客様のために無我夢中」といった気持ちになる状態です。


人はいつも「自分、自分」と自分が得することばかり考えています。

以前よく紹介していた『大きく考えることの魔術』(D・J・シュワルツ/実務教育出版)にも、「町行く人にアンケートをしたら90%以上の人が自分のことを考えていた」という話が出てきますよね。

特に学生さんのエントリーシートなどは、その大半が「私は~」で始まっており、とにかく自分をアピールしたいんだ、自分は特徴があるんだ、自分は注目に値する人間なんだ…という焦りとも自負とも付かない気持ちに満ちています。

しかし、このような態度はそれを見る側からすれば、やかましく醜悪なものです。自分のことに執着するあまり、全く会社や仕事、お客さんのことを考えていない態度は、「何をしに来たのだろうか」と思わずにはいられません。


大抵の人は焦ると「くれくれ族」になります。

「くれくれ族」というのは僕が勝手に作った言葉で、「認めてくれ」、「注目してくれ」、「気にしてくれ」、「評価してくれ」、「気付いてくれ」、「理解してくれ」、「優先してくれ」、「休ませてくれ」、「もっとくれ」…などと、いつも自分が受け取ることばかり考える大衆のことです。

つまり、自分ではなく他人や環境に依頼する態度を持つ人々のことで、こういう精神状態の裏には、常に劣等感や恐怖心が付きまとっています。


「自分は周囲より遅れているんじゃないか」、「周囲よりできないんじゃないか」、「周囲から認められていないんじゃないか」、「もっと評価されていいんじゃないか」、「もっと良い自分になっているべきじゃないか」…。

なるほど、こういうことばかり考えていると確かに疲れます。

だって、他人はいつもそういう期待をやすやすと裏切り、環境もまた、そのような願望には一切配慮してくれません。


営業マンでも、できない営業マンはいつも「自分は契約が取れるだろうか」、「自分の話を聞いてもらえるだろうか」、「自分は拒絶されないだろうか」、「自分は馬鹿にされていないだろうか」などと考えているものです。

心にあるのは、いつも「自分」。相手をどう利するか、どう相手の幸せを作るかなどということは、心の隅にもありません。これでは、契約など取れなくて当たり前です。

また、こういう態度で就活をすれば、理想の内定が取れなくて当たり前です。


例えば、もうすぐ冬です。

本メルマガは500人近くが「女性の読者」ですから、クリスマスを控え、恋人がいない寂しい男性があなたに言い寄ってきた、と仮定しましょう。


あなたはある日、知っている男性から告白されました。

あなたはその男の人を知ってはいましたが、別に恋愛の対象として見ていたわけではありませんでした。ましてや、自分に気があるなんてことも一切考えていませんでした。

別に悪い人と思っていたわけではないのですが、さりとて他の男友達と比べて何も特別視するような理由もなく、普通の知り合いといった感覚でしか見ていませんでした。


ですからあなたは、「ごめんなさい。そういう気持ちにはなりません」と断りました。


しかし相手は思いのほか熱心で、あなたが断ってもそのたびに思いを強め、「僕ほど君を想っている男はいない」、「君と付き合えたら今まで寂しかっただけ幸せになれる」、「君を幸せに出来るのは僕しかいない」などと強烈にアプローチしてきます。

そして、情に弱いあなたは、数週間を経て「私でよかったら」と交際を承諾しました。こんなに熱心なら、きっと自分を大切にしてくれるだろう、と思ったからでした。

「こんな出会い方から始まる幸せもアリかな…」


ところが、その男性はあなたの態度を知るや狂喜し、別れた後こっそり友達に電話していたのです。

「良かったー、オレにも女ができて。とりあえずこれから冬やしさ、女くらいおらんとカッコつかんよね。マジ焦っとったけん、あいつなら押せば行けるやろうと思ったけど、ギリギリセーフでマジ助かった」。

…という内容の電話を。


もしあなたが、このような内容を知ったらどう思うでしょうか。あなたはあなただからではなく、「女」だから、しかも「落としやすい女」だから熱烈なアタックを受けたのでした。

きっと、常識的な判断ができる女性なら、「ひどい」と悲しむか、あるいは落ち込むかして、「やっぱり付き合わない」と言うでしょう。

それは、あなたのことを無視されたからです。相手が「自分」のことしか考えていなかったからです。仮にも相手の幸せがあなたの幸せにつながればと思って受け入れたのに、その思いは裏切られたわけでした。


毎年こういう話をすると、だいたい就活コースやFUNゼミは女子大生が7~8割なので、「そうだそうだ」、「そういう男はお断り」、「あたしは寂しすぎる女だからちょっとは羨ましいけど許せん」といった声が聞かれます。


そうでしょう。

みんな、こういう興味がある話題から自分のことを考えれば、相手から特別視されずに軽視されることがいかに悲しく屈辱的か、よく分かるものです。

僕がサークルで恋愛の話をすることは3年間で一度もありませんが、こういう例え話であれ、女子大生のロマンスに対する想像力は僕の原価計算速度並みにすごいので、想像しているだけで「ホワーン」となる学生さんもいます。

嫌でしょう。悔しいでしょう。

しかし、大半の3年生は、「早く内定したい」とだけ考えて自分を粗末に扱い、企業に対してこの「憎むべき男」と全く同じ態度で臨んでいるのではないのか?

と聞いた瞬間、多くの女子大生の顔が凍りつきます。


「相手のことなんてどうでもいい」、「とりあえず内定がもらえればいい」、「早く受かって遊びたい」、「早く春が来てほしい」…。

全ての動機は会社や仕事とは一切関係ない「自分の関心事」にばかり設定され、このような心構えでいる限り内定はもらえず、もらえても幸せな仕事は不可能です。

思いやりや愛情が伴わない夫婦を、昔ある本で「仮面夫婦」と名付けていたものですが、「仮面学生」や「仮面社員」も多いもの。「仮面」が身分の前に付く人は、「自分のことしか考えていない」という条件を満たしている人です。


「自分」のことばかり考えていると、就活のようなイベントですら、うまく事が運ばなくなるものなんですね。

自分ばかり考えるから、期待通りの反応が得られず裏切られた失望感や徒労感に苛まれ、自分の興味しか優先しないから企業から拒絶され、自分のやりたいことしか考えないから選択肢が狭まる。

ニーチェの言った「健康」とは程遠い有り様で、「自分の存在を気にしている人」はどこに行こうが、何をしようが「不健康」極まりない言動を繰り返しては、自らの「ストレス」を運用し続けているものです。


例えば、あなたが大好きな友達に、その人が好きそうな映画を紹介したとしましょう。あなたは友達の性格や好みを知り抜いているからこそ、その友達がその映画を見ればどれだけ感動するか、どれだけ納得するか、ありありとイメージできます。

だから、「昔、○○に興味があるって言ってたよね?」、「あなたは○○だから絶対に感動するよ」、「○○の夢にもきっといいヒントが見つかるよ」、「○○な人になりたいなら役に立つ映画だよ」といった感じで紹介するでしょう。

そういう作業に没頭している時は、あなたの心の中には「自分」という存在は完全に忘却されていることでしょう。


無心に友や相手を思い、その成功や幸せを願って自分の知識や能力をフルに発揮する、この姿勢こそ「仕事の本質」である「問題解決を通じた社会貢献」の要素を含んでおり、自他共に幸せになれるコミュニケーションの基本だといえます。

相手をいかに思い、いかにその幸せに貢献するか。それが「自分」です。それこそ、「自分自身の存在に気が付かない」という点で完全に相手と一体同化した「健康」な状態だと言えます。

「自分をどう売り込むか」、「自分をどう捉えるか」などは、自分に見えて自分ではありません。それは他者との関わりが一切存在しないからです。


学生さんは「自己分析」という言葉はよく使いますが、自分の中に自分を見つける作業が分析だと思っている点で、その手の自己分析は最初から間違っているのではないでしょうか。

仕事とは、何も一人でやることではなく、社内では誰かと協力・調和し、社外では常に誰かと出会って新たな関係を構築・発展させていく営みです。

「人のやりたいこと」を助けるからこそ報酬が得られる、という仕事の基本を忘れてはなりません。学生さんがこだわる「自分のやりたいこと」は、むしろ「お金を払う行為」です。


この世で自分の幸せよりも嬉しいのは人を幸せにすることです。他人の幸せに与えた貢献と影響を見る時、誰しも最も幸せな気持ちになれます。

「楽しまなきゃ損」なんて馬鹿げた処世訓です。自分が楽しむより、人を楽しませるほうがもっともっと楽しいではないですか。人が楽しむことが自分の楽しみです。その意味で、「楽しませなきゃ損」と考えた方がうまくいきます。

「自分が幸せじゃないと、他人を幸せにすることなんてできない」なんて、なんと安っぽく傲慢な態度でしょうか。自分が不幸であれ、人を幸せにすることで自分の幸せの欠落が埋められるのではないでしょうか。



うまく行きたかったら、愚かな大衆の無責任な流行語など、さっさと頭脳から排除することですね。そんなのは、自分の意見に思えて実は全くそうではないはずです。

「みんながやっていること」など絶対に参考にしないことです。そんなのは自分の願望に従ってただ抽象的に「感じているだけ」で、考えて参考にしているわけではないでしょう。

うまくいきたければ、「楽しそうに、また熱心に働いていて仕事が大好きな人」だけを参考にすればよいことです。

自己分析とは、もしそういう作業があるなら、自分だけの言葉と出会う作業にほかなりません。借り物の言葉を排し、自分の頭脳で悠々自適の心境を作り出すことです。


ニーチェは「健康=自己忘却」という心境を19世紀半ばに哲学化していますが、わが国では既にニーチェより600年も前に、さらに明確で力強い体系で「悟り」と「幸せ」の一体化を説いた哲人がいます。

言うまでもなく鎌倉時代の禅僧・道元で、超優良企業の創業者や世界中の日本愛好家たちが「日本の思想で最も普遍的かつ本質的な哲学」と呼ぶだけのスケールと力強さがあります。

その道元の「自己を運びて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり」という言葉は、夏に本メルマガでご紹介しました。


「自分の基準で世の中を見ると迷いが生まれ、自然の営みや会計の法則から世の中を見ると悟りが生まれる」とでも解釈すれば、就職活動において取るべき態度の参考になるのではないでしょうか。

つまり、「やりたいこと」ではなく「してあげたいこと」という視点で、常に相手の幸せを介在させて思考・想像し、客観と主観の一体化を図っていくということです。

新日鉄の会長は道元の書を「世界最高の経営書」と呼び、フランスの文化大臣は「世界最高の日本哲学」と呼び、プロスポーツの監督は「最高の指導者論」と呼び、名教師は「最高の教育書」と呼んでおり、わが日本にこのような優れた先人がいるのは、誇るべきです。


僕は最近、「道元入門」(秋月龍民/講談社現代新書)や「正法眼蔵を読む」(秋月龍民./PHP文庫)などを読んでいますが、なんと深く素朴な思想であることか、ページを開くたびに驚くばかりです。

もう700年以上も前の本なのに、ここ数年ずっと読んできた経営書や経済書、歴史書、古典、戦記で感じてきた様々な疑問の本質的な解決策が説かれているようで、改めて先人の洞察力に恐れ入るばかりです。

僕の人生のバイブルは、明治維新で日本の資本主義を生み出した偉人が書き残した『論語と算盤』(渋沢栄一/国書刊行会)ですが、「正法眼蔵」もそれに加わりそうです。心と頭と体の健康のためにも、これから根気良く勉強していこうと思っています。

では、今日も心身ともに健康な一日を送りましょう。