■「内定への一言」バックナンバー編
「肥沃な土壌も、耕さねば雑草しか生えない」(プルターク)
昨日は『FUN営業塾』第②回で、「見込み客の作り方」について学びました。
できない営業マンが持っている「見込み客=商品を買ってくれそうな人」という一方的な勘違いを修正し、努力するほど結果が出る考え方について説明したのですが、参加している学生さんの素直なこと…。
福大のM君がレジュメに線を引く音が講義中に「サッ、サーッ」と聞こえたので、「おぉ、そこまで共感してくれたのか」と僕は一方的に感激していたのですが、終わって聞いてみると「インクが出なかった」とのことでした(笑)。
このように、「一方的な願望を仮託した思い込み」は、「思い入れ」とは全く違った形で計画の成否を分けてしまいます。
人生で持つストレスの大半は、周囲や環境が自分の期待通りではないことから生まれる徒労感や挫折感が積み重なったものでしょう。言うなれば「過剰な願望に勝手に裏切られている」ということです。
「他人に期待せず、ただ信頼して、自分に期待する方向に努力の性質を変えていったら、一切のことを他人や環境のせいにせず気持ちが楽になった」とは起業した友人から等しく聞く実感です。
昨日はついでに、本メルマガでも2年ほど前にご紹介した「体験と経験の違い」についても触れました。
「体験」とは、こちらが何もせずにいても、あちらから降りかかってくる人生のイベントのこと。それはただ「受けるまま」に現実を味わうので、そこには何の主体性も工夫も生まれず、過ぎ去って残るのは「感想」のみです。
一方「経験」とは、体験に処し方、乗り越え方を考えて立ち向かった履歴のことで、こちらは「自己最適化」の努力が常に払われ、回数を重ねるほど対処が上手に、しなやかになっていきます。
営業マンにも、ただボケーッと単調な作業を繰り返して数年たち、全くうだつが上がらないまま年だけを重ねる人がいます。
それで学生に会うと「営業をなめたらいかんぜ。オレは5年の体験があるからよく分かってるんだ」などという労働価値説の信奉者が多いものですが、工夫と情熱のない体験など、何年重ねようがムダの塊に過ぎません。
就活でも、必死に暗記した「自己PR」やら「志望動機」を自己紹介が終わるや一方的に、九官鳥のように暗誦し、不採用通知の山を築き続ける学生がいます。
そして、後輩に会うと「就活をなめたらいかんぜ。オレはもう50社選考を受けてきたからよく分かってる。体験に勝る勉強はないね。何かあったらオレのところに聞きに来い。相談に乗ってやる」と言います。
しかし、こんな無能な先輩には絶対に相談しないことですね。単に頭脳が不景気なだけで、未来ある3年生の方が話すと瞬時に「負けウイルス」が伝染します。
そういう4年生がどんな社会人になるかは、既に今の時点で明らかなことです。そもそも、50社も落ち続けるとは偉大な才能で、どうやったらそこまで落ち続けるのか、僕はその秘訣を聞きたいくらいです。
ただ「就活」だからと受身の体験を重ね、何社の選考を受けようが、そこには何の成長も発展も存在しません。体験は人の頭を頑迷固陋にし、経験は人の頭を柔軟に、心を素直にするものです。
ですから、「トップ営業マンになりたければ、体験ではなく経験を重ねることだ」ということで、その経験の基準、成長の定義、前進が起こる仕組みについて説明したのが、昨日の第②回でした。
この「体験と経験」と同じく、学生さんと話していて「なんと幸せな勘違いをしているのか」と思うのが、「可能性」という言葉です。
どうも学生さんは、ただ「若い」というだけで自動的に可能性があるのだと錯覚してはいないでしょうか。
「保有時間が多い=良いことが起こる確率が高い」などという甘い願いは、スロットに打ち込むおじさんと何も変わりませんが、同世代同士でいるとこんな単純なことにも自覚が働かなくなるのかと不思議です。
可能性とは、保有時間や残り時間が多いことから生じるのではありません。それは、純粋に計画、準備、努力からのみ生じるもので、これらに裏付けられない計画は「悪くなる可能性」しかありません。
確かに、「学生時代」は4年間という時間が与えられ、そこでは自由に何にでも挑戦でき、いくらでも変化と成長の機会を掴みうるかもしれません。
しかし、大半の学生が感じているのは、「やるべきことに挑戦し、前進がもたらす未来の自分との摩擦としてのスリル、失敗、成長の手応えの実感」というよりは、「やるべきことを延期し、全てを小出しにして消化不良に退屈し、次は、次はと言い続けるうちに将来の決断の時期が来た」という焦りや不安ではないでしょうか。
ただ「時間が多い」ことだけが可能性の前提なら、4年という長期間を過ごせば、誰もが自信家、野心家、冒険家になっていていいはずです。定年退職したおじさんなどは、みんな裕福で幸せになっていないといけません。
しかし、現実はそうではなく、時間は報いてくれないもの。夏に種まきをしていない田んぼで、秋に何の収穫が得られるのかと考えれば単純なことで、1、2年の頃に「種まき」をしていない学生には、自動的に「チャンスロス」という差別待遇が用意されるだけです。
しかるべき時を迎え、同じ時間を過ごしてきた一人は希望と自信に溢れ、伸び伸びと野心的に将来を展望しているのに、片やもう一人は不安と恐怖に夜を過ごし、「まだ学生のままでいたい」と願っている…。正確に言えば、そういう人はまだ「学生」ですらない、と言った方がよいでしょう。
「保有時間」は、ただ単に「種を蒔く前の土壌」であるに過ぎません。土の側には栄養もあるでしょう。そこにまかれた種に何らかの活力を送り込み、芽を出して天に向かって成長させるだけの余力は十分にあるはずです。
そこに「パチンコ」という種を蒔いても、その芽は立派に育っていき、朝鮮人参のように強力な吸収力で、大学生活で保有しうる全ての時間、お金、人脈、エネルギーを吸い上げていくはずです。
そこに「無為無策」という種をまけば、その芽は「退屈」として育ち、収穫時には「不安と恐怖」という実を付けて「たんと召し上がれ」という結果になるでしょう。
人生では常に、「何かをしよう」と思っていなくても何かがなされているわけですから、無意識であれそれらの行動と潜在心理が、4年という時を経て強固な信念と習慣として定着するのは自明の理です。
安心すべきは、「土壌を保有していること」ではありません。そんなのは単に、苦しかった受験の反動で学生になれた安心感の余勢を駆って惰性的に描く人生哲学に過ぎません。
ですから、「学生であるだけ」のことで「可能性」があるとは、自己欺瞞もいいところです。そういうごまかしを捨て、「やれば何でもできるが、やらなければ何事もできない」という単純な事実を直視してこそ、初めて種が蒔けます。
FUNには浪人経験のある学生さんもたくさんいて、予備校生時代は随分人生を考えた様子ですが、そのような学生さんはこういう哲学っぽい「考え方」の話が好きで、「可能性は準備と行動によってしか生まれない」という事実を自らの経験によってしっかりと確認しやすいようです。
僕は時々、笑顔で学生さんと接しつつも、感じるのです。
「君たちは、人生の問いすら借り物で済ませていないか」と。
お互いに「学生だったら、こうじゃない?」というイメージのみを毎日刷り合わせ、それで前期、後期、前期、後期…と時間を浪費し、本当の自分が心中深く抱いている問いを何ら発することないまま、マスコミや噂から借りた話題で自分を表現し、避けて考えないようにしていた「卒業後」と、こちらから近付くのではなく、あちらから近付いてくるという形での対面を果たして、それで満足な行動ができるのか。
おそらく「このままじゃダメだ」と思っているだろう。では、それはいつまで「ダメ」なのか。いつから「ダメ」でなくなるための行動を開始するのか。その成功の見込みはあるのか。
「あんたに言われたくない」と強がるのは簡単だが、要するに「大学生」という都合のいい身分をその場その場の感情に合わせて着こなして、結局はいつも自分で自分の邪魔をしているだけではないのか。
自ら志望して大学生になったのに、そこで発生する行動を全て「やらされる」と詐称し、自由時間の勉強ではなく講義室の風景の一部になり続けた時間の集合体をもって「卒業」と称する、その何が「勉強」なのか、と。
僕は、少数の行動的な学生さんを除き、多くの学生さんは、素直になれば今の自分を到底認めがたいほど悔しいはずだと思います。
合格した頃は、溢れんばかりの希望と喜びに満ちていたはず。受験勉強中は、未知の大学生活を積極果敢に想像し、そこに考えられる限りの挑戦と成長のモデルを詰め込み、生き生きと未来を設計していたはず。
もちろん、中には志望校や志望学部以外のところに入って、心中どこかに不全感のあるまま入学した人もいるでしょうが、自分の意思で選んだのですから、どこかに「この接点から将来を描くぞ」と思ったに違いありません。
しかし、大学は「下には下がいる」という世界でもあります。
自分が手を抜いても、さらに信じられない怠慢でことを済ませて平然としている学生がうじゃうじゃいます。
そういう風景から心理的影響を受け、持った実感を表面的な問いで友達に確認してみると、「レポートって、これくらいでいいんだよね?」と逆に聞かれたりして、そこはただ、「不安と最低の努力のラインを確認しあう環境」でしかなかった、と気付く…。
こうなれば、没落はその「可能性」の分だけ恐ろしく速いものです。
「頑張って勉強するぞ!」は「授業には出るぞ!」に格下げされ、さらに「単位だけは取るぞ!」、「試験前だけは勉強するぞ!」、「卒業だけはするぞ!」と段々と動機が腐り果てていき、最後は「何をやったのか」という後悔と無念さを内なる「卒業証書」として巣立っていく…。
「今の自分を率直に見て、どう評価するか」が、自分の「可能性」が開花した姿です。
僕は「学生の味方」などではなく「挑戦者の味方」でありたいので、まだ自分にはチャンスはある、と信じる学生さんは全力で応援していますが、傍から見ていて正直、「これじゃ悔しいだろうな」と思う学生さんもたくさんいます。
帝政ローマに仕えて歴史書を書き続けたプルターク(プルタルコス)は、既に2,000年以上も前に、多くの国家や人物の栄耀栄華と没落のドラマを知って、「肥沃な土壌も、耕さねば雑草しか生えない」という言葉を残しています。
「豊かな大学の時間も、挑戦せねば怠慢と後悔しか得られない」とでも言い換えたら、学生の皆さんにはよく実感が湧くのではないでしょうか。
僕はそんな学生さんのために、超強力な肥料となって固まった土壌を耕し、生気を失いかけていた種を復活させるための栄養を届けて応援する「水」や「太陽」でありたいと思っています。