■「内定への一言」バックナンバー編
「親思ふ心にまさる親心けふの音ずれ何と聞くらむ」(吉田松陰)
今晩、病み上がりの体で、「それにしても、最近は黄色い袋と遠ざかっているなぁ」と思い、近頃エンジンの調子が悪くなった愛車タクトで今泉のブックオフに行ったら…
なんと、西南4年のE浦君と遭遇。その手には、メルマガで紹介した本が一冊握られていました。「こうしてメルマガで紹介した本がブックオフから消えていくのか」という現場を見て、ちょっと嬉しい気分でした。
E浦君は明日のFUNゼミに来るそうですから、みんなで盛大にお迎えしてあげましょう。
さて、今日10月28日は、僕にとって一年で一番、誕生日よりも大切な日です。というのは、僕の父親が47歳で亡くなって、今日で17年を迎えるからです。1989年、まだ中学1年生だった時のショックは、人生を変えるものでした。
さすがに1年は自暴自棄になり、わが家に起こったことが信じられず、教科書を燃やしたり授業をさぼったり、先生に歯向かったり、悲しさと悔しさを押さえきれずに暴発していました。
それが、弟から「このアホ!誰が一番悲しいと思ってんだ!お母さんやろが!それを自分が一番悲しいみたいな顔しやがって、貴様ふざけるな!お母さんが元気になるようオレたちが頑張るのが一番やろうが!いつまでも悲しんどったらブチ殺すぞ!」と言われ、中2で目が覚めたのでした。
とはいうものの、わが家は借財やら不義理やらで没落する一方。「いかに家を建て直すか」は受験に優先する家庭の一大事で、弟と炎の団結を組み、「今後は一切、人のせいにはしない」という約束をして母を盛り上げる誓いをかわしました。
箱崎で短い生涯を閉じた父の遺言は、心臓外科医として活躍する卒業式の日を2週間後に控えて原爆病で亡くなった叔父と同じ、「偉い人にならなくてもいい。立派な人間になれ」というものでした。
以来、未熟ながらも「お父さんだったら、僕にどういう行動を望むだろうか」という規範が、僕の行動を最も深いところで規制する価値判断基準になりました。
僕が当初、最も恨みとしていたことは、「会社という組織が父を受け入れなかった」ということでした。まだ未熟だったので、父が酒をあおって会社の愚痴を言うのを、そのまま受け入れていたのです。
僕は一家の団欒や家族旅行など経験したこともなく、父を失ってしばらくは、友達の家に行くことさえ嫌でした。
今でこそ泣くことはありませんが、夕食などに招かれて帰る時は、あまりの悔しさに涙をこぼして歩いたこともあります。
「お父さんがいる家庭って、なんて羨ましいんだ…」。
その悔しさや悲しさといったらきりがなく、子供の頃は社会のせいにしてみたり、学校に恨みをぶつけたり、ほとばしる激情を憎悪に転換させてなんとか正気を保っていました。
しかし、高校で良い先生に出会ったり、あるいは父が大好きだったゲーテの本を見つけて、その最初にあった「心が開いているときだけ、この世は美しい」という言葉を知って反省したりして、なんとか平常心を取り戻すことができました。
気付いてみれば、僕の家よりもっときつい境遇にある友達もいて、僕が高校の時に得た処世訓は、「落ち込んだら友達を励ませば、自分も幸せになる」というものでした。
活発だった小学生時代、反抗少年だった中学生時代に比べ、高校時代はずいぶん内省的な性格になり、ゲーテやドストエフスキー、ジッド、トルストイなどの本を読んでは、人生の終わり方を考えるような青年になってしまいました。
当時、高校の先生から薦められた『後世への最大遺物』(内村鑑三/岩波新書)や『兄小林秀雄との対話』(高見沢潤子/講談社現代新書)、『美に生きる』(林武/講談社現代新書)などは、今でも愛読しています。
きっとあの頃が、僕の精神形成が始まった時期だったのかもしれません。
僕が高校時代に興味を持ったのは、「男の死に方」でした。高校時代は「会社」というものへの偏見もなくなり、僕はよく友達のお父さんに、お仕事について質問をするような精神的余裕も回復できていました。
父を失って数年後に気付いたのは、わが家と違い、友達の家の両親は優しく、「やりたいようにさせなさい」という考えが多いことでした。
また、わが家では一切聞かなかった「受験勉強」の話題が多く、また、「勉強しなさい」という言葉が頻繁に聞かれました。
わが家では「古典と伝記を読め」、「お金とリーダーシップを勉強しろ」、「先生の言うことは聞くな」という偏向教育(?)が当たり前だったため、このような差もユニークに感じたものでした。
わが家では父が絶対権力を握る君主だったのに、他の家ではどっちかというと友達もお父さんの仕事には興味もないようで、お母さんが家庭のリーダーシップを握っているようでもありました。
その結果行き着いたのは、「日本には男の死に場所がない」ということ。
これは、16か17歳のガキの過激な結論ですから、今はあまり参考にならないのですが、僕はずっと、「どのような死であれば、家族は安心できるのか」という意味不明なテーマを持って暮らしていました。
それで、友達から「危ない奴」と言われながら、軍人やスポーツ選手、歴史上の英雄の死に方ばかりにこだわって本を読み、男には「背負うもの」がなければいけない、という結論に到達したのです。
例えば、政治的判断を抜きにして、僕は日本の軍人や特攻隊の人生が美しいと感じました。死を背負った人間の生がいかに輝くか、そしていかに優しくなれるか、文学や伝記を通してまざまざと感じました。
だからといって、別に戦争があった方がいいとか、皆軍人になった方がいい、とは思いません。
ただ、男が「いざという時」を意識して生きるのと意識しないで生きるのでは、家庭や社会に及ぼす緊張感がずいぶん違うものになるんだなぁ、と感じたまでのことです。
少なくとも、僕の父親が肝硬変から劇症肝炎を併発し、もはや長くもたないということが自他共に知れ渡ってからは、父の傍若無人な振る舞いはなりを潜め、子供の頃のような優しさを取り戻していました。
父にとって「この世を去る」とは、「いざという時」の中でも最大の問題だったでしょうから、僕たち家族は、なぜ今頃になって気付いたのか、喜びつつも悲しみ、その死を見送ったのでした。
酒好きで、仕事も続かず、会社の愚痴を言っては文学や政治談議に花を咲かせ、子供を膝に座らせては音楽家の人生を語りながらクラシックを聴かせる…。
社会人としての機能から言えば、晩年はとても合格とは言えない状態でありながらも、僕にとっては憧れの父親が生き生きとしている姿を見ている時が人生で一番幸せな瞬間でした。
そして、その姿を静かに心に描く時、僕にとって解決しえない問題はこの世に存在しないほどの力がみなぎってくるようになりました。
高校三年の頃は、早く働いて母に楽をさせようと思い、自分でリーダーシップや古典、経済書を読んだりしていたのですが、祖母が学費を出してくれることになったので、大学に行くことになりました。
しかし大学では、「教科書を読む」などという当たり前のことを授業でやっていたため我慢ならず、さっさと中退して海外勤務に行きました。
30回のアジア旅行で感じたこともやはり、「父親が誇りを持っているかどうかは、家庭や社会、国家に大きな影響を及ぼす」ということでした。
21歳でマレーシアから帰国し、将来の夢を大きく思い定めた僕のビジョンの中心にあったのは、「日本で父親が尊敬されるような大事業をやろう」という目標でした。
以来、「企業」、「組織」、「人間」、「社会」といったものに関心が向き、帰国後は経済誌の記者になったわけですが、「仕事の捉え方」が人生を決めるという実例を、何百人も立て続けに観察し、独立計画の骨子が見えてきました。
それは「社長を変えれば、社員(お父さん)が変わり、子供も家庭も教育も変わる」という単純な想像です。
そのため、独立支援事業で独立したのですが、全くお客が集まらず、肝心の僕の会社自体が倒産寸前の状態にまで傾きました。そんな中、僕を頼ってくれたのがフリーターや転職希望社会人だったわけです。
驚いたことに、その人たちは、僕の父親が生前苦しんでいた時と同じようなセリフを言っていました。
26歳で独立して社長になり、まさかまた同じような言葉を聞くとは思いませんでしたが、僕は「きっとオレは、地味な分野で再建型の仕事をやるのが合っている人間なのだ」と悟り、そういう人を応援する業態に切り替えました。
ですから僕は、日頃はフリーターのことをボロクソに書いていますが、本当は亡き父を叱咤激励するような思いが抜け切れず、「このダメ野郎が」とか思いながらも、「しっかりしろよ、オレが手伝うから」と見捨てられないのかもしれません。
効率主義者、現実主義者、合理主義者の権化のような僕なのに、これは意外なことでした。自分が一番軽蔑していたタイプの人間を応援するなんて。
その仕事の伝手で引き受けることになったFUNも、仕事の効率から見れば恐ろしく負担が大きい役割でありながら、将来に迷う真面目な学生たちを見ると、「オレがなんとかせねば」と、また柄にもなく面倒を見てしまったわけです。
僕は黙々と、卒論より多い分量のレジュメやメルマガを3年間、毎週誰にも知られることなくひっそりと準備し、ただ地道に作り続けています。
そんな中で学生が退部したり、来なかったり、恩知らずの仕打ちを受けたら、一時はカッと来たりすることもあります。
ですが、「オレが未熟なのだ」と言い聞かせ、「人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」(論語)の精神で、「人に分かってもらえないことよりも、分かってあげようとしていない自分を反省せよ」と自分に言い聞かせています。
僕は教育不足の未熟者なので、こういう万古不易の言葉を肝に銘じていないと、すぐに暴発してしまうのです。
ですから、14歳で自分の人生を全責任をかけて全うすると誓って以来、僕が「やりたい」と思ったことのほかに、予定外のイベントがたくさん舞い込みました。
「やりたい」というのは、他人の干渉や強制の影響を受けず、自由気ままに将来を展望する時に使う言葉だとすれば、僕の人生は「やりたい」よりも「やるべき」に立脚して過ごした時間の方が圧倒的に多かったと思います。
19歳からは母親の生活費も稼いでいるし、とても自分の夢や希望を基準に将来を描くような余裕はありませんでした。だからこそ、今のように多芸多才で何が専門なのか分からないような青年社長になってしまったわけですが、何一つ後悔はありません。
それは、一に「父の目」を意識して、「立派な人間ならどうするか」を深く考えた結果の決断に従ってきたからです。
立派な人間なら、希望を失って悲嘆に暮れている若者を見れば、たとえ自分の知識や経験が未熟であれ、できる限りの援助を惜しまないはずだ、と。
そうして、友達からは「お節介」、「世話好き」、「関係ない人まで助けすぎ」とか言われながらも、僕はこの姿勢を変えようと思ったことはないし、今後も変えるつもりはありません。
偏差値こそ30そこそこで、学校の勉強はからっきしですが、実践的経済学は中学時代から家庭で叩き込まれて育ったので、若者の経済事情や職業問題を解決するノウハウなら、そんじょそこらのコンサルタントに負ける気はしません。
そういう僕で役に立つことができるのを心の底から喜びながら迎えた30歳の一年は、これまでの人生で最も充実した年でもありました。
僕の人生は父親の遺言に一生規制されて、傍目には不自由な様子に映るのかもしれませんが、僕は「誰かを喜ばせる」という目標を毎日あちこちに持てるこの人生が、何よりの精神的自由に立脚したものだと自信を持っています。
ですから、僕を信じて集まってくれる人が年上であれ年下であれ、倒産寸前の社長さんであれ夢を失った学生であれ、一度引き受けたからには全力を尽くして応援するのが、父の言う「立派な人」としての第一歩だと確信しています。
時には、未熟さのあまり感情を抑えきれず、厳しすぎることを言ったり書いたりする時もありますが、その時は「仕方ないな、この兄ちゃんは」くらいに軽く流してもらえたらと思います。
講義であれメルマガであれ、僕は自分と向き合う人と過ごす時間には、一切の手抜きをしたくありません。それが「立派な人」に近付く小道だと思うからです。
そして僕の葬式の時、ご縁を頂いた人が「本当に出会ってよかった」と言ってくれれば、僕は安心して父との宴会に向けて旅立てるわけです。あと何十年か分かりませんが、時々そういうことを考えると、怖いような幸せなような、変な気分になります。
明治維新に火をつけた偉大な教育者・吉田松陰は、幕府に捕えられて死刑が決まった時、
「親思ふ心にまさる親心 けふの音ずれ何と聞くらむ」
という和歌を詠んだのは有名な話です。
「自分が親を思う心よりも強い両親の心は、今日の音沙汰をどのようにお聞きになるのだろうか」という意味です。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
の二首と並び、とても有名な和歌ですよね。
松陰は、今の僕と同じ年である30歳で刑死しました。晩年は幽閉されて自由の利かない身でありながら、獄中でも友達を作って孟子の講義を続け、その話を聞いた罪人たちは涙を流して感動したといいます。
僕は刑務所に入ったことはないのでよく分かりませんが、今の世の中でも自分を責め、夢を持つことを邪魔し、将来に希望を持たず細々と生きていく未来を受け入れる寸前の若者がいっぱいいます。
そういう人は、「自らの可能性を冒涜する」というとても大きな罪を犯していると思います。
そんな若者を、①経済教育、②歴史教育、③職業教育で甦らせるお手伝いをするのが、僕のライフワークです。そうしてこそ、日本に元気でかっこいいお父さんが続々増えていくわけです。
FUNは「月額600円」という、経費さえ出ればいい全くのボランティアで引き受けているサークルですが、実は極秘計画「かっこいいお父さん輩出作戦」の一環としてお手伝いしていたのだ、というウラ事情を明かしておきます。御免。
ただ一つ意外だったのは、今でこそ男子学生が増えたものの、「女の子が大半」という事態でした。これはFUNでは、創設者の安田君のおかげ、ということになっています。それはその通りでしょう。
かわいい女子大生に囲まれると、本当に疲れを忘れてしまうのを認める時、僕も年を取ったものだと思います…。と、勝手に幸せを感じていることをお許し下さい。
人が死に際して自分の人生をどう締めくくったか。それを知るのに、わが日本の先人は「辞世の句」という素晴らしい文化遺産を残して下さっています。いくつか見てみましょう。
まずは俳諧の創始者、山崎宗鑑です。宗鑑は1553年、つまり戦国時代の最中に亡くなっていますが、「これが辞世の句か?」と思うくらい明るい和歌に驚きます。
『宗鑑はいづこへと人の問うならば ちとようありてあの世へといえ』
「宗鑑はどこに行ったのだと誰かが尋ねれば、ちょっと用があってあの世へ行っている、と言ってくれ」という意味です。豪快というか、快活というか…あっぱれです。
次は、僕が好きな軍人の和歌です。
政治的判断抜きで、どのような思いで世を去ったのかと伝記を読んだ時、誰にも言えない苦しみや隠れた人間味を感じました。
まずは、東条英機大将の辞世の句です。
たとえ身は千々に裂くともおよばじな 栄えしみ世をおとせし罪は
(たとえ自分の身が千々に裂かれようとも足りないであろう。栄えていた世の中を壊してしまった私の罪は)
我ゆくもまたこの土地にかへり来ん國に酬ゆることの足らねば
(今はこうして死刑になっても、またこの国に帰ってこよう。国に対するお手伝いが足りないからには)
阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大将の生涯は、『一死、大罪を謝す』(上坂冬子/講談社)に詳しく描かれています。靖国神社には血染めの軍服が今も掲示されていますよね。その辞世の句は、
おほきみの深きめぐにみあみし身は 言いのこすべき片言もなし
(陛下の深きお恵みを浴びたこの身には、言い残すべき言葉は一言もない)
硫黄島で劣勢の軍勢を率いてよく戦い、先頃、米軍からも「その忠誠と奮闘は世界の軍人の鑑であり、日本が誇るべき偉大な武人」との評価を改めて得た慈愛溢れる栗林忠道・陸軍中将の辞世の句は、
国の為重き努めを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
(国のための重い務めを果たせないまま、矢も弾も尽き果てて散るのは悲しいことだ)
次は、明治天皇に殉死した乃木希典大将の辞世の句です。
うつし世を神さりましし大君の みあとしたひて我はゆくなり
(この世の神様は去られた。明治大帝のお後を慕って私も逝くのだ)
本メルマガでも以前紹介した大分・日田の私塾『咸宜園(かんぎえん)』で広瀬淡窓に学び、近代陸軍の兵制を整えた軍人、大村益次郎の辞世の句は、
君のため捨つる命は惜しからで ただ思わるる国の行末
(陛下のために捨てる命は惜しくはないが、ただ思われるのはわが国の行く末である)
という感じで、他にも戦国武将や鎌倉時代の歌人、武人の辞世の句も素晴らしいものばかりです。
今の時代にその人の生を批判し、あれこれ論評するのは簡単ですが、僕は何より、その人物が死を前にして何を心に描いたか、生をどう締めくくろうとしたかを偲ぶことが大事だと思います。
「人は誰しも、他人を許す時が最も成長する」というゲーテの言葉も、本当にその通りだと思いつつ、歴史を彩った様々な人物の去り方を学ぶのも、価値ある生を考える上で重要なことではないでしょうか。
今、父が後半の人生を生きたこの福岡の地で、細々と会社を経営しながら、空いた時間は全て学生や若者のための経済教育、歴史教育、職業教育に費やして、遊びも趣味もほどほどに、「お人好し」と言われてばかりの日々を過ごしている僕を見て、父はどう思うだろうか…。
「それがおまえの使命だ」という天国の声に従ったからこそ、今こうして僕もあるわけです。その意味で、仕事でもFUNでも、一切の言い訳は存在しません。
僕を信じる学生を信じ、学びたい者と教えたい者とが調和と感動を生み出し、仕事による自己表現と社会貢献の喜びを少しずつ世の中に広げていくことで、学校や地域を少しでも明るくできたら…。
それは、「立派な人」の端くれくらいにはかろうじて合格できる行為だろう、という望みが、今日も黙々と頑張る理由です。
今後も手抜きは一切せず、持てる知的財産と精神の経験は全て学生さんに捧げますから、真剣勝負で学んでいきましょう。
あと!今年の就活サポートのお礼は「トマトジュース」でお願いします。「たけのこの里」は3年で150個を超え、冷蔵庫から溢れたので、くれぐれもお間違えのないように。