■「内定への一言」バックナンバー編
「孤独は天才が通う学校である」(ギボン)
昨日のFUNゼミは、九大2年のM君が準備と配慮の行き届いた司会で盛り上げてくれました。「スラムダンク」の名シーンの回想も、「お見事」の一言。
いつも仲間を思って念入りな準備を行い、はにかみぶりや訂正の仕方、身動きまで「実はこれも作戦か?」と思ってしまいそうなくらい、「この時間を大切にしよう!」という意気込みが伝わってきて、M君の司会に感謝できた時間でしたね。
反対に僕は寝不足で、大切な「リーダー塾」のガイダンスというのに、たけのこの里やら桃太郎やら、思いつくままに色々話してしまい、「もっと運動しないと」と思ってしまいました。
集まればすぐに仲良くなり、打ち解けて夢や大学生活について語り合う学生さんも、サークル以外の時は案外一人でじっと考え込んだり、何かの作業に没頭して時間を過ごす方も多いようです。
また、中には「ずっと一人だった」、「友達と呼べる人は2、3人しかいない」、「こんなに社交的な自分は初めて」という学生さんもいます。
誰でもFUNに来ると、「携帯代が上がった」と言うのは3年前から共通しています。毎日取材やイベント、集まり、勉強会の連絡などが飛び交い、皆ぐっと世界が広がるのが楽しいみたいです。
友達が増えて共有できる話題が広がり、人脈や情報網が広がるのも、もちろん良いことです。しかし、少ない友達とじっくり語り合い、世界や視野を狭めて一つの思索に焦点を絞るのもまた、良いことです。
「いつも誰かと一緒にいて何かをしている人」が明るく、「一人でいる時間の方が多い人」が暗いなどという考え方は、心のあり方を無視した表面的意見に過ぎません。
人生ではそう見えるのとは違い、「孤独によく耐える」という人の方が、案外深いところの明るさや強さを持っていることも多いものです。ですから、僕は友達が少ないとか、よく一人でいる学生さんが「暗い」などとは思いません。
そもそもこの「孤独」というものは、考えを深め、成長させてくれる青年時代の大切な伴侶です。全然悪い物ではありません。
孤独をごまかさず、一人でいる時間をコツコツと耕して何かを収穫できる意志力は、単に「寂しい」、「ヒマ」といって誰かとつるむより、よっぽど生産的です。
人と過ごすことの大切さは否定しませんが、「誰かの力を借りないと明るくなれない」、「手伝ってもらえないと思考が進まない」では、そちらの方が消極的な場合もあります。
例えば歴史上の偉大な人物や、あるいは今活躍しているスポーツ選手など、およそ凡人に隔絶した偉業を成し遂げ、実力を高めた人物は、若い頃に皆「孤独」とよく向き合った経験を持っているものです。
孤独とは、「完全な自由」を意味する時間的、精神的範囲を指すのですから、「そこで何を考え、何をするか」の差があるだけで、孤独そのものは贅沢な資源です。
ですから、孤独が暗いのではなく、孤独に圧倒されてしまうのが暗いということです。人とワイワイやっていても、それが孤独に押しつぶされた結果なら、宴会の明るさはその場限りのものにしかならないでしょう。
そして、この孤独を征服し、この時間を「自分の未来を考え、そのための準備に使う知的、精神的訓練」に充てる習慣を持った人こそ、後に多くの人々の称賛や憧れを一身に集める非凡な人に育つものです。
「この世界で唯一、音楽家だけが完全な自由を手に入れられるのだ」と言ったベートーベンは、青年時代から恋や人生に苦しみ、その苦しみを打ち明けられないまま、しかしそれから逃げず、両足を踏ん張って孤独と向き合い、その思いを楽譜に綴りました。
自分の話を聞いてくれない学校に嫌気がさしたエジソンは、母に与えられた「秘密基地」のような部屋で大好きな空想に浸り、伝記や科学の本を読み漁って、現在のアメリカのGDPの13%につながる巨大な発明のヒントを想像しまくりました。
「今を楽しもうぜ」という悪友の誘いを断り、自分の命をもっと価値あることに使いたかった吉田松陰は、「僕はこの後、人と会う約束がある」と言い、一人で古典や歴史書、戦記を読み込み、30歳で刑死するまでに偉大な教育者となりました。
このような例は無数にあり、一つ一つ扱うだけで膨大な量になるので、そちらは来月発刊の『メルマガ総集編・夢事典』に譲りますが、これらの例のどれをとっても、「孤独=悪」であることはなく、むしろ「善」とも呼べるほど、偉人たちは孤独をよく征服して楽しんでいます。
「それは、偉い人だからできたんでしょ?」と聞くのはヤボな質問です。
愚者と悲観論者は、すぐに「違い」を探してケチを付けたがるのが、ほとんど精神的な病気と化していますが、それも「すぐに人の判断を仰ぐ」という性格から生まれた短所です。その短所は、孤独からの逃避が生み出したものでしょう。
誰が先に「偉く」なることができるのでしょうか。なぜ「そうできたから、偉い人になった」と考えないのでしょうか。うまくいく人は、どんなに偉い人やそうでない人を見ても、必ず「共通点」を見つけて、自分の参考や戒めとします。
「へえ、あんなに立派な人も、若い頃は孤独だったんだ。じゃあ、自分も孤独を征服して人間的に成長できるんだ。いいこと知ったなあ。それにしてもこのメルマガ、なかなか役立つじゃないか」でいいのです。
素直にそうやって共通点を見つける習慣を持てば、自分の中にいくらでも長所が見つかるのを実感するでしょう。素直さこそ最大の長所であり、素直さが欠けた長所を「短所」と呼びます。単純なことです。
『ローマ帝国衰亡史』は、歴史書が好きな僕が今までに読んできた『繁栄と衰退と』(岡崎久彦/文春文庫)、『ある通商国家の興亡』(森本哲郎/PHP文庫)、『大国の興亡』(ポール・ケネディ/TBSブリタニカ)、『大英帝国衰亡史』(中西輝政/文春文庫)などの名作に、必ず引用されている作品です。
この作品を書いたエドワード・ギボンは、歴史好きなら一度は目にしたことがある歴史家でしょうが、この人もまた、青年時代から空想や研究に耽るのが好きで、「孤独は天才が通う学校である」という言葉を残しています。
歴史は名言とアイデアの宝庫で、テレビ番組や新聞よりも数百倍役立つ情報やアイデアが溢れています。ギボンは後世のため、繁栄を誇ったローマ帝国の歩みを一大ドラマとして残すことに、人生の大半を捧げる決意をした人物でした。
『フランス革命史』を書いたカーライルが、どれだけの精神的苦痛を克服してこの大作を書き上げたか、その顛末は『後世への最大遺物』(内村鑑三/岩波文庫)に書かれており、去年から就活生のひそかな愛読書として、多くの学生さんに勇気を与えています。この本を最終面接前に読んだ先輩も、多くいます。
『戦争論』(徳間書店)を書き上げたクラウゼウィッツは、陸軍参謀として古今東西の戦史や事例、人物論を集め、その集大成をまとめることで、この戦争という悲劇を最小限に食い止め、やるなら早期に勝つ秘訣を残したいと、実に7年間も引きこもって著作に没頭しています。
伊藤仁斎のような偉大な学者は、昨日のFUN Business Cafeで読んだように、なんと50年もかけて論語を読み込み、孔子の一挙手一投足が想像できるまで言葉を見つめ、京都で小さな塾を経営しながら研究に打ち込みました。
今、学校ではそれなりに友達と話はしていても、実は家に帰ると就活で出遅れた孤独感、自分の中に話題が見つからない無力感にさいなまれ、その不安に押しつぶされそうになっている3年生の方もいるかもしれません。
また、当初は希望に燃えて入学したのに、いつの間にか自分の意図とは違う方向に人生が進み、進むも退くもままならない気分のまま、一人で孤独と向き合っている1、2年生の方もいるでしょう。
あるいは、友達は数ヶ月前に内定をもらったのに、自分だけは未だに基礎的な選考を受けていて、友達の前では平静を装うか話題を避けるかしながらも、家に帰ると不安でいっぱいになる、という方もいるでしょう。
ですが、その孤独から逃げず、そこで見えてくるものをじっと見つめれば、来年にはきっと、その時間で得たものに感謝するでしょう。
「寂しいから」とすぐに携帯電話をピコピコしたり、あるいはカラオケやボーリングのような無意味なストレス解消に走るのは、今だけはよくても、数時間後には寂しさを倍増させるだけの愚かな逃避です。
そういう手段で「友達」が欲しいと思っても、そんなふうにして埋めた時間は、なんら価値ある友達との出会いはもたらしません。友達の価値は、自分の動機と相手に与えた影響によるものです。
見てください。寂しい、ヒマだといって酒に走り、カラオケでわめく学生が、帰りにどれだけ大きな虚脱感にまみれて家路に就くかを。
孤独は逃げても消えないのです。ただ立ち向かうことによってのみ、克服され、友となります。
ドイツには、「酒が作った友達は、酒と同じく一日しかもたない」ということわざがあるそうですが、これはどの国の人にも当てはまるでしょう。
「あいつ?ああ、この前の宴会であった奴でさ~」とかいう話を聞いたら、さも友達が多そうに錯覚するかもしれませんが、その「あいつ」という人は、話している本人のことなど何ら覚えておらず、ましてや評価すら行っていないもの。この手の社交性など、憧れる必要も参考にする必要もありません。
「その時を楽しむ」という過ごし方こそ、将来振り返って、最も大きな虚しさと悔しさを喚起するものです。だったら、ブックオフで名作を100円で買い、じっくりと何度も名文を読む習慣を確立した方が、何十倍も生産的です。
もし、そういう選択を取るあなたに「暗いね」と言う人がいても、それは所詮無知な大衆の「流行的意見」に過ぎず、心からそう思っているわけでもなく、ただ「暗い」といって優越感に浸りたいだけの寂しい人間に過ぎないのですから、無視するか、「そうかもね」とだけ言っておけば結構です。
そんな刹那的な不安や勧誘に負けて、何より大切な精神の自由をどうでもいい時間に投げ捨てるのは、何より惜しむべきことです。
FUNの皆さんは、本当に優しいです。それは、一人で苦しみ、悩み、あるいは現実逃避に走り、あるいはふさぎこみ、友達の悩みがとても他人事には思えないような経験を持っているからでしょう。
しかし、孤独から逃げず、その時間を価値ある何かで埋めようと思ったからこそ、より成長できる環境を求めてこういうサークルに集まったのでしょう。全ての出会いは運命的ですが、孤独や夢に導かれて出会った友達は、一生の仲間になるものです。
人間の価値は、行った学校や受けた教育ではなく、「一人の時間をどう使うか」で決まります。なぜなら、一人の時間に決めたことを行い、集中して達成することが、一番難しいからです。
大事なのは、一人の時間にどれだけ自分を形成できるか、つまり「孤独とどれだけ仲良くなれるか」です。
そうなってこそ、学校や社会、会社で学んだことが「価値があったか」が分かるもの。
当たり前のレベルを一段上げ、孤独をもう一つの「学校」にできるような大学生活を送りましょう。
「孤独は天才が通う学校である」(ギボン)
昨日のFUNゼミは、九大2年のM君が準備と配慮の行き届いた司会で盛り上げてくれました。「スラムダンク」の名シーンの回想も、「お見事」の一言。
いつも仲間を思って念入りな準備を行い、はにかみぶりや訂正の仕方、身動きまで「実はこれも作戦か?」と思ってしまいそうなくらい、「この時間を大切にしよう!」という意気込みが伝わってきて、M君の司会に感謝できた時間でしたね。
反対に僕は寝不足で、大切な「リーダー塾」のガイダンスというのに、たけのこの里やら桃太郎やら、思いつくままに色々話してしまい、「もっと運動しないと」と思ってしまいました。
集まればすぐに仲良くなり、打ち解けて夢や大学生活について語り合う学生さんも、サークル以外の時は案外一人でじっと考え込んだり、何かの作業に没頭して時間を過ごす方も多いようです。
また、中には「ずっと一人だった」、「友達と呼べる人は2、3人しかいない」、「こんなに社交的な自分は初めて」という学生さんもいます。
誰でもFUNに来ると、「携帯代が上がった」と言うのは3年前から共通しています。毎日取材やイベント、集まり、勉強会の連絡などが飛び交い、皆ぐっと世界が広がるのが楽しいみたいです。
友達が増えて共有できる話題が広がり、人脈や情報網が広がるのも、もちろん良いことです。しかし、少ない友達とじっくり語り合い、世界や視野を狭めて一つの思索に焦点を絞るのもまた、良いことです。
「いつも誰かと一緒にいて何かをしている人」が明るく、「一人でいる時間の方が多い人」が暗いなどという考え方は、心のあり方を無視した表面的意見に過ぎません。
人生ではそう見えるのとは違い、「孤独によく耐える」という人の方が、案外深いところの明るさや強さを持っていることも多いものです。ですから、僕は友達が少ないとか、よく一人でいる学生さんが「暗い」などとは思いません。
そもそもこの「孤独」というものは、考えを深め、成長させてくれる青年時代の大切な伴侶です。全然悪い物ではありません。
孤独をごまかさず、一人でいる時間をコツコツと耕して何かを収穫できる意志力は、単に「寂しい」、「ヒマ」といって誰かとつるむより、よっぽど生産的です。
人と過ごすことの大切さは否定しませんが、「誰かの力を借りないと明るくなれない」、「手伝ってもらえないと思考が進まない」では、そちらの方が消極的な場合もあります。
例えば歴史上の偉大な人物や、あるいは今活躍しているスポーツ選手など、およそ凡人に隔絶した偉業を成し遂げ、実力を高めた人物は、若い頃に皆「孤独」とよく向き合った経験を持っているものです。
孤独とは、「完全な自由」を意味する時間的、精神的範囲を指すのですから、「そこで何を考え、何をするか」の差があるだけで、孤独そのものは贅沢な資源です。
ですから、孤独が暗いのではなく、孤独に圧倒されてしまうのが暗いということです。人とワイワイやっていても、それが孤独に押しつぶされた結果なら、宴会の明るさはその場限りのものにしかならないでしょう。
そして、この孤独を征服し、この時間を「自分の未来を考え、そのための準備に使う知的、精神的訓練」に充てる習慣を持った人こそ、後に多くの人々の称賛や憧れを一身に集める非凡な人に育つものです。
「この世界で唯一、音楽家だけが完全な自由を手に入れられるのだ」と言ったベートーベンは、青年時代から恋や人生に苦しみ、その苦しみを打ち明けられないまま、しかしそれから逃げず、両足を踏ん張って孤独と向き合い、その思いを楽譜に綴りました。
自分の話を聞いてくれない学校に嫌気がさしたエジソンは、母に与えられた「秘密基地」のような部屋で大好きな空想に浸り、伝記や科学の本を読み漁って、現在のアメリカのGDPの13%につながる巨大な発明のヒントを想像しまくりました。
「今を楽しもうぜ」という悪友の誘いを断り、自分の命をもっと価値あることに使いたかった吉田松陰は、「僕はこの後、人と会う約束がある」と言い、一人で古典や歴史書、戦記を読み込み、30歳で刑死するまでに偉大な教育者となりました。
このような例は無数にあり、一つ一つ扱うだけで膨大な量になるので、そちらは来月発刊の『メルマガ総集編・夢事典』に譲りますが、これらの例のどれをとっても、「孤独=悪」であることはなく、むしろ「善」とも呼べるほど、偉人たちは孤独をよく征服して楽しんでいます。
「それは、偉い人だからできたんでしょ?」と聞くのはヤボな質問です。
愚者と悲観論者は、すぐに「違い」を探してケチを付けたがるのが、ほとんど精神的な病気と化していますが、それも「すぐに人の判断を仰ぐ」という性格から生まれた短所です。その短所は、孤独からの逃避が生み出したものでしょう。
誰が先に「偉く」なることができるのでしょうか。なぜ「そうできたから、偉い人になった」と考えないのでしょうか。うまくいく人は、どんなに偉い人やそうでない人を見ても、必ず「共通点」を見つけて、自分の参考や戒めとします。
「へえ、あんなに立派な人も、若い頃は孤独だったんだ。じゃあ、自分も孤独を征服して人間的に成長できるんだ。いいこと知ったなあ。それにしてもこのメルマガ、なかなか役立つじゃないか」でいいのです。
素直にそうやって共通点を見つける習慣を持てば、自分の中にいくらでも長所が見つかるのを実感するでしょう。素直さこそ最大の長所であり、素直さが欠けた長所を「短所」と呼びます。単純なことです。
『ローマ帝国衰亡史』は、歴史書が好きな僕が今までに読んできた『繁栄と衰退と』(岡崎久彦/文春文庫)、『ある通商国家の興亡』(森本哲郎/PHP文庫)、『大国の興亡』(ポール・ケネディ/TBSブリタニカ)、『大英帝国衰亡史』(中西輝政/文春文庫)などの名作に、必ず引用されている作品です。
この作品を書いたエドワード・ギボンは、歴史好きなら一度は目にしたことがある歴史家でしょうが、この人もまた、青年時代から空想や研究に耽るのが好きで、「孤独は天才が通う学校である」という言葉を残しています。
歴史は名言とアイデアの宝庫で、テレビ番組や新聞よりも数百倍役立つ情報やアイデアが溢れています。ギボンは後世のため、繁栄を誇ったローマ帝国の歩みを一大ドラマとして残すことに、人生の大半を捧げる決意をした人物でした。
『フランス革命史』を書いたカーライルが、どれだけの精神的苦痛を克服してこの大作を書き上げたか、その顛末は『後世への最大遺物』(内村鑑三/岩波文庫)に書かれており、去年から就活生のひそかな愛読書として、多くの学生さんに勇気を与えています。この本を最終面接前に読んだ先輩も、多くいます。
『戦争論』(徳間書店)を書き上げたクラウゼウィッツは、陸軍参謀として古今東西の戦史や事例、人物論を集め、その集大成をまとめることで、この戦争という悲劇を最小限に食い止め、やるなら早期に勝つ秘訣を残したいと、実に7年間も引きこもって著作に没頭しています。
伊藤仁斎のような偉大な学者は、昨日のFUN Business Cafeで読んだように、なんと50年もかけて論語を読み込み、孔子の一挙手一投足が想像できるまで言葉を見つめ、京都で小さな塾を経営しながら研究に打ち込みました。
今、学校ではそれなりに友達と話はしていても、実は家に帰ると就活で出遅れた孤独感、自分の中に話題が見つからない無力感にさいなまれ、その不安に押しつぶされそうになっている3年生の方もいるかもしれません。
また、当初は希望に燃えて入学したのに、いつの間にか自分の意図とは違う方向に人生が進み、進むも退くもままならない気分のまま、一人で孤独と向き合っている1、2年生の方もいるでしょう。
あるいは、友達は数ヶ月前に内定をもらったのに、自分だけは未だに基礎的な選考を受けていて、友達の前では平静を装うか話題を避けるかしながらも、家に帰ると不安でいっぱいになる、という方もいるでしょう。
ですが、その孤独から逃げず、そこで見えてくるものをじっと見つめれば、来年にはきっと、その時間で得たものに感謝するでしょう。
「寂しいから」とすぐに携帯電話をピコピコしたり、あるいはカラオケやボーリングのような無意味なストレス解消に走るのは、今だけはよくても、数時間後には寂しさを倍増させるだけの愚かな逃避です。
そういう手段で「友達」が欲しいと思っても、そんなふうにして埋めた時間は、なんら価値ある友達との出会いはもたらしません。友達の価値は、自分の動機と相手に与えた影響によるものです。
見てください。寂しい、ヒマだといって酒に走り、カラオケでわめく学生が、帰りにどれだけ大きな虚脱感にまみれて家路に就くかを。
孤独は逃げても消えないのです。ただ立ち向かうことによってのみ、克服され、友となります。
ドイツには、「酒が作った友達は、酒と同じく一日しかもたない」ということわざがあるそうですが、これはどの国の人にも当てはまるでしょう。
「あいつ?ああ、この前の宴会であった奴でさ~」とかいう話を聞いたら、さも友達が多そうに錯覚するかもしれませんが、その「あいつ」という人は、話している本人のことなど何ら覚えておらず、ましてや評価すら行っていないもの。この手の社交性など、憧れる必要も参考にする必要もありません。
「その時を楽しむ」という過ごし方こそ、将来振り返って、最も大きな虚しさと悔しさを喚起するものです。だったら、ブックオフで名作を100円で買い、じっくりと何度も名文を読む習慣を確立した方が、何十倍も生産的です。
もし、そういう選択を取るあなたに「暗いね」と言う人がいても、それは所詮無知な大衆の「流行的意見」に過ぎず、心からそう思っているわけでもなく、ただ「暗い」といって優越感に浸りたいだけの寂しい人間に過ぎないのですから、無視するか、「そうかもね」とだけ言っておけば結構です。
そんな刹那的な不安や勧誘に負けて、何より大切な精神の自由をどうでもいい時間に投げ捨てるのは、何より惜しむべきことです。
FUNの皆さんは、本当に優しいです。それは、一人で苦しみ、悩み、あるいは現実逃避に走り、あるいはふさぎこみ、友達の悩みがとても他人事には思えないような経験を持っているからでしょう。
しかし、孤独から逃げず、その時間を価値ある何かで埋めようと思ったからこそ、より成長できる環境を求めてこういうサークルに集まったのでしょう。全ての出会いは運命的ですが、孤独や夢に導かれて出会った友達は、一生の仲間になるものです。
人間の価値は、行った学校や受けた教育ではなく、「一人の時間をどう使うか」で決まります。なぜなら、一人の時間に決めたことを行い、集中して達成することが、一番難しいからです。
大事なのは、一人の時間にどれだけ自分を形成できるか、つまり「孤独とどれだけ仲良くなれるか」です。
そうなってこそ、学校や社会、会社で学んだことが「価値があったか」が分かるもの。
当たり前のレベルを一段上げ、孤独をもう一つの「学校」にできるような大学生活を送りましょう。