■「内定への一言」バックナンバー編
「空気とは、まことに大きな絶対権を持った妖怪である」(山本七平)
さっき、ある新聞社のホームページを見ていたら、「学校に行けない子供の数…」という広告が表示された後、「120,000,000人」という数字が。
「仕方なかろ。途上国じゃ、子供を生み過ぎるのが普通やけん」
と、僕は反射的に、そう思ってしまいました。
…と僕が書いたら、「あんた、人間じゃない!」、「こんな人のメルマガを読んでいたのか!」、「いつもひどいけど、今日は特にひどい!」、「許せない!」、「子供に罪はない!」という言葉が返ってきそうです。
だから、このように反論されそうなことが予想できる人は、自分の本当の考えとは違っていても、事前に「周囲の意向」をきちんと見極め…
「そんなにいるのか、かわいそうに」、「日本の人口と同じ数の子供たちが悲しんでいるなんて」、「罪のない子供たちを救わないと」などといった、「ヒューマニズム溢れる発言」を行わねばなりません。
かくして、皆が同じような実感を確認しあい、一人も「違和感を醸し出す人間」がいないことが証明された後、その課題だけは丸々放置され、居合わせた人々はそそくさと持ち場に向かって散って行きます。
答えはともかく、その場の「和」は乱されませんでした。かえすがえすも、喜ばしいかぎりです。
ふぅ、よかった。
もう一つ。
あなたの友達は皆、就活で「航空業界」を受けると言っています。
夏休みが終わって就活サイトがオープンし、友達は待ってましたとばかりにエントリーを開始して、「やっぱJALよね」、「いや、私はANA」などと航空談義に花を咲かせています。
しかしあなたは、たとえば「航空なんて…ファミレスに翼が付いてるだけじゃないの」と、心の中では思っているとしましょう。
航空談義に加わらず、やや傍観者めいた表情でその会話を眺めているあなたに、ある友達が「でさぁ、あんたどっち?」と聞いてきました。雰囲気から、どうやら「JALとANAのどっちか」と聞いている様子です。
「飛行機なんて、ファミレスが飛んでるだけじゃないの…」と言おうとしたあなたは、その瞬間に圧力を感じ、「え…あたしはJALかな。だって、国際線が充実してるイメージがあるし」と言ってしまいました。
「さっすが~!」とJAL派の数人が言いました。他の数人は、「へぇ~、あんたも航空に興味があったんだ」と、初めて知ったように言いました。
「じゃあさぁ、エントリーとか、もうしてるわけ?」と、友達の好奇心は尽きることを知りません。もちろんその場の成り行きで答えたあなたは、「いや、まだしてないけど」と答えました。
「じゃ、今からしよ!カンタンなんだから」と押し切られたあなたは、友達やその周辺の仲間たちの間で、「航空志望」ということにさせられてしまいました。
それから半年…航空業界の選考があるたびに本気になれず、「なんだか違うんだよなあ」と思いつつも、友達からのけ者にされたくないばかりに、あなたの就活はダラダラ進み…
結局、スチュワーデスは全敗。のみならず、他の業界の対策も十分に行えないまま、あなたは卒業を迎えることになりました。
「ああ、せめてあの時、航空には興味がないといっておけば」と後悔するも、後の祭り。
「仕方ない。あの場の空気では、とてもそんなことを言えなかった」と考えたあなたは、自分の身に起こった現実を受け止める努力を必死の思いで保ちながら、就活を回想しました…おしまい。
二つほど例を挙げましたが、双方に共通しているのは、「人は時として、意向とは違う発言や言動を行うことがある」という点と、「何だか分からないが、自分の思考や言動を拘束する要素が働いて自分を圧迫することがある」という点です。
論理的に考えた結果や、客観情勢や自分の能力、意見を考慮した結果が答えとなるのではなく、いつの間にか出来上がった場の強制力に押さえつけられ、誰も同意していないような答えが導かれてしまう…。
ではこの、論理的判断や客観的事実を超えてコミュニケーションや会議の結果を決めるものの正体とは、一体何なのか?
1990年に亡くなった、出版社経営者兼作家の山本七平さんは、これを「空気」と呼び、『空気の研究』(文春文庫/1977)という本を書いて、日本人の思考や言論を統制する怪物の正体を解明しています。
ちょうど、昨日のFUN Business Cafeで読んだ本です。
FUNでは、4年生を中心に2~3年前からよく知られた本で、既に持っている先輩もたくさんいますよね。
冒頭で挙げた例に戻ると、「学校に行けない子供」という言葉は、認識すると同時に「同情しなければいけない」とか、「子供=罪なし」、「救われるべき弱者」といったイメージ(臨在感)が設定されます。
この言葉が出てきた瞬間、「文教政策が貧弱な当該国政府」とか、「働かない父親」、「家族計画もなしに子供を生む親」といった条件は暗黙の同意のうちに捨象され、原因を指摘することが許されにくい雰囲気が瞬時にして形成されます。
そして、それはおそらく、その場にいる他の人も、きっと同じように感じてくれるはず…という想像を前提に、「かわいそうやね」、「ひどいね」、「子供に罪はないのに」という「確認フレーズ」が各自から繰り出されます。
もしかしたら、その場にいる3人が、「んなこと言われたって、その国の政府の責任やろが!」、「親のせいだ」、「運命だ。働くしかない」と思っていたとしても、それを発言することは許されません。
というのも、「子供」は絶対神聖にして、自ずから「善」である純真無垢な存在だからです。従って、その「子供」と対比される全ての要素は、子供より汚く、劣り、価値が低くなければなりません。
居合わせた人々は、まるで踏み絵を踏まされるかのように、それに同意する宣言として、「皆が同意するであろう言葉」を、短くてもよいので吐かないといけません。
そういう「空気」が出来上がったところに、僕がもし「仕方なかろ。途上国じゃ、子供を生み過ぎるのが普通やけん」とでも言おうものなら、それは「水」を差したということで、許されざる存在として糾弾されるのです。
あぁ、日本社会とはなんと住みにくいところなのか。
自分が思うことも満足に表明できず、やりたくないことを「やりたい」と言わせられ、そう思わないことに「賛成です」と言わせられ、一体、いつまでこんな肩が凝るコミュニケーションを続けないといけないのやら…。
しかも、そう言ったところで、本心はそうじゃないのだから、いざやることになると、苦しいったらありゃしない。でも、今さら「嫌だ」なんて言えない。
だって、「空気」には逆らえないから。
誰か、お願いだから「水」を差してくれ。
…という思いは、誰しも少なからず経験したことがあるでしょう。
山本さんは、帝国陸軍や自動車による大気汚染、公害問題を事例に、「空気」に配慮して健気なほどに奮闘する人々の心理を探り、そうさせる要因を比較文化的な視点から求め、やや抽象的ですがユニークな持論を展開しています。
僕の父親が山本さんの著作が好きだったため、僕はこの本を学生時代に読んだのですが、色々な事実や体験を思い出しながら、実に興味深く読んだ記憶があります。
例えば、「合唱コンクール」の練習。僕は昔から精神論が嫌いで、放課後を潰す過剰な練習を嫌う生徒でした。そういう生徒は、僕の他にも少なからずいました。
「あ~、かったりぃ。今日も練習?いい加減、はよ帰らせろって」。
僕がそう言うと、何人かの友達も「そやね、やっとられんよ」とか、「帰ってドラクエしたいぜ」とか言ってくれました。
それが、いざ練習が始まるとどうでしょう。本番も近いのだから、1、2回歌うのは、まだ我慢できます。しかし、失敗が続いたり数人がヒートアップしてくると、またあの「空気」が出てきます。
「みんな、優勝したいよね?絶対先生に喜んでほしいよね?ここまでやって、後悔したくないよね?じゃあさぁ、もう一回歌おう」。
昼休みは「ドラクエやりたい」と言っていた友達も、「そうやね」と言い、女の子たちは「頑張ろうよ」と言い合い、延々と歌い続け、またもや放課後が潰れてしまいました。
僕は、こんなNHKのドラマみたいな「きれいごと」づくめの学校が大嫌いでした。
平和教育、体育会、受験勉強、部活、家庭訪問、進路相談…。
「おまえら、ホントにそう思ってんのか?」と思うような人間を見るほど、吐き気がするほどの嫌悪感を抱いたことも、二度や三度ではありません。
心からそう思っている人間は、まぁよしとしましょう。そういう人は、考えには賛成できなくても、それはそいつの個性だから、と子供ながらに納得できました。
しかし、僕が一番嫌だったのは、仲間内ではお互い同じ意見を共有しながらも、あの「空気」が出てくるやいなや、コロリと態度を変えてしまう友人でした。
受験勉強だって、必死に頑張っている友達もいましたが、中には大学に行って何をしたいかも考えずに、さらには勉強したくないと思っているのに、勝手に盛り上がる親や周囲に同調して、「○○大学を目指してる」と言う人もいました。
そういう人間は「空気」に従って勉強していただけで、別に夢があったわけでもなく、大半が入学した途端にハリを失い、見るも哀れな劣等生に転落していきました。
それはそれで、見ていてなんだかかわいそうなくらいでした。
「与えられた目標」や「強制された空気」の中では努力できても、自分一人になると、「何をやってよいか分からない」となるのですから。
僕は中学時代、偏差値は徹底的に低い悪ガキでしたが、友達が合格した途端に没落していく姿を見て、一体いかなる原因によるものか、成績不良者ながら少し観察しました。
かつての自信に溢れた優等生が、志望校以外の大学に入るや、「本当は○○大に行くはずだったけど、高校でさぼってしまってね…」と聞きもしないのに弁解するのを、何度も聞いてきました。
そして学生時代、本書を読んで、僕はそういう、学校やいくつかの人間集団で経験したようなあの圧迫感の正体を、「なるほど!」と気付かされたような知的興奮を味わったのです。
「空気」。不思議な存在です。
何かとともに自然発生的に生まれ、その場の議論をプロレス技のように固めてしまい、居合わせた人々に意図とは違った答えを言わせたら、いつの間にか雲散霧消してしまう…。
山本さんは、このような空気の性質を評して、「人は空気を相手に戦うことはできない」と言い、空気に翻弄されて戸惑う人々の姿を活写していますが、あの例は、日本社会のあらゆる場所で日夜展開されているものでしょう。
大学のコンパで、したくもない一発芸が始まって、渋々やった。
部活で、誰もが嫌がる追加の練習が提起され、嫌々やった。
就活で、夢があるのに、「やりたいことが見つかっていない」という多数派に配慮して、「まだない」と言わざるをえなかった。
面接で、本当は第一志望じゃないのに、そう言わなければ「ヤバい目に遭いそう」な気がして、「御社が第一志望です!」と言ってしまった。
学生生活でも、空気はいたるところで猛威を振るっています。
たとえ本心と違うことを言って、後で「あれは、実は○○だったんだ」と弁解したところで、空気を相手に損害賠償や訂正を求めることは、山本さんが丁寧に解説しているように、不可能です。
そのような力を持つ存在であれば、まさに「空気とは、まことに大きな絶対権を持った妖怪である」としか言いようがなく、日本社会で生きていく者であれば、この空気との付き合い方を知っておかないと、おちおち安眠することもできないかもしれません。
『空気の研究』は、発表当時に賛否両論、あらゆる分野から意見を集めた話題作で、今でもよく引用される本です。昔、サッカー日本代表の岡田監督が、ワールドカップ前に熟読した本としても有名です。
なんとなれば、日本では政治やスポーツ、経済、株式投資、金融政策、税制、教育などの論議で、いつも「空気」が登場するからでしょう。
ワールドカップが始まれば、誰がどう見ても「負ける」としか思えないような日本代表でも、マスコミは「目指せ、勝ち点3!」とか言わないといけないことになります。
終わって見ればやはり実力どおりの惨敗で、どう考えてもそうなって当然だったのに、当時はそう言うことはできなかった…。
だって、「空気」があったから。
この空気、いつどこで、どうやって生まれるのか、気になりますよね。反対に、空気と戦い、勝利を収める方法も、今のうちに知れるものなら、ぜひ知っておきたいですよね。
もし興味がある方は、30年ほど前の作品ですが、ブックオフに行けば見つかるので、ぜひ読んでみて下さい。群集心理の生成過程や対策を把握するのは、実に面白い勉強です。
このメルマガも、学生の間に蔓延する望ましくない「空気」を打破し、学生さんに考えるきっかけや素材を提供する「水」のような道具として使ってほしいとの思いから、毎回コツコツ配信しています。
なんせ、僕は「空気」が読めない男なので…。
ということは別にありませんが、就活以前に、学生心理を客観視する上でも、本書はユニークな視点から役に立つ一冊だと思いますよ。