■「内定への一言」バックナンバー編

「希望職務を聞かれたら、一番きつい仕事と答えよう」




今週は身内の用事であれこれ忙しい時間が続きました。

それでも5種類の講義のレジュメを作って、いつも通り全て貫徹できたので、どんな大変なスケジュールでもやってみるものだと思います。

先週も30冊は読んだし、メルマガも3通出したし、新事業計画も進んだし、僕ってなんて手際がいい人間なんだろう…とうぬぼれながら眠りました。


身内の用事というのは、実は弟のケガで、もう退院したからいいのですが、僕は月曜日に知らせを受けた時、体と仕事と二重に心配しました。

なぜかというと、弟は27歳から社長をしているからです。それも、僕の超ミニ会社とは比べ物にならないほど大きい、「社員55人、売上6億円」という建設会社を率いています。

仕事やFUNの合間に超過密スケジュールで大村にある国立病院に行ったら、「論語と算盤」(渋沢栄一/国書刊行会)を読んでいました。「仕事は大丈夫ね?」と聞いたら、「任せてあるから心配ない」との答えでした。本は相変わらず、今回も返してくれませんでした。


今年で30歳になる弟は、21歳で結婚して23歳で父親になり、今は3人の子供がいて、僕は長崎に行けば「ベビーシッター」をやっています。兄の僕が言うのもなんですが、子供が生まれるとこうも働き振りが変わるのか、と感じたのも懐かしい思い出です。

「20代で資格8個」を目標にして働いていたところ、15個取得してしまい、うち2つは難関国家試験を突破したので、それで受注できる工事が増え、売上も上がったとのことです。

このように、兄弟揃って大学を出ていないにも関わらず、二人とも20代半ばで社長になったのは、一にも二にも母の教育のおかげ。

昔聞いた「株?なんでそんな儲からんことせないかんとね。子供が何よりの資産運用たい」という言葉の意味を今更かみしめながら、毎月通帳を握られている兄弟でもあります。


僕は大学を中退して20歳で働き始めたので、社会に出たのは工業高校を出た弟の方が先でした。最初は測量事務所で、トランシットを抱えて山野を駆け巡っていたのをよく覚えています。

わが家では「きついことから先にやれ」という方針のため、仕事でも例外なくそのルールを適用し、僕も弟も、一番きつくて重要な仕事から先にこなす習慣が身に付きました。

「できることからやれ」というのも一面の真理はあるのでしょうが、それだと進むほど「できないこと」が増えてきます。難しいことと格闘するうちにアイデアや方法が磨かれ、進むほど簡単になっていくのを思えば、最初は嫌でもきついことからやったほうが、後々早道になるものです。


ということで、僕が中退後に最初に選んだ道は「海外勤務」。マレーシアの貿易会社で、木材の輸出に関わる仕事を担当しました。

これは「海外」と聞くと、華やかなイメージを持つ人がいるので言っておきますが、日本の大抵の零細企業よりも劣った環境で、しかも日本では考えられないトラブルが間断なく仕事を妨害する、そんな仕事でした。

「貿易、つまり商社」とカッコいいイメージを持ってくれる人もいて、学生さんの時代錯誤ぶりに感謝しているのですが、実態はそんな洗練されたものではありません。地道で、泥臭くて、堅実に進めないとすぐに失敗する仕事です。

しかし、岐阜県に本社がある建材販売会社の関連会社だったため、給料は日本を基準に支払われ、現地の人たちの5倍の収入でした。日本の初任給に換算すれば、「20歳で月収100万」という感覚を想像してもらうとよいでしょう。

当然、仕事も忙しく、それ以外の適応努力もずっと必要だったので、かなりのお金を貯金して、学生の夏休みの旅行では味わえないほど豪華な旅行や経験もしました。

そういうオフの思い出は、それはそれでよいとして、何より困ったのが採用と人事管理、それからマレー語です。

マレーシアはマレー人6割、中国系3割、インド系1割という国で、それぞれの民族が「調和して仲良く暮らしている」と日本のガイドブックでは紹介されていますが、現地ではケンカや悪口も絶えません。

僕がいた会社が求人広告を出すと、日本の会社だと思った現地の人たちから、10分おきくらいに電話がかかってきます。

僕はインボイスのチェックやその他の文書、小さな商談、および採用窓口の電話番も担当していたので、随分マレー語や英語が鍛えられました。

例えば、マレー人が面接に来たとします。彼はこう言って自分を売り込みます。

「中国人はカネが全てで、人をこき使うことしか考えていない。奴らの行儀の悪さと図々しさといったら、ユダヤ人並みだ。インド人はカレーばかり食べていつも踊っていて、感情的で手に負えない。

その点、我々マレー人は温厚で慎み深く、アッラーの神に守られて抑制を知っている。日本軍が最初に攻めてきた時、銀輪部隊を出迎えたのも我々マレー人だ。オレたちは相性がいい。だからオレを雇ってくれ」

その後、中国系の人が面接に来ると、彼はこう言います。

「マレー人は怠け者で、過去もそうだったように、未来もカンポン(田舎)に引っ込んでおけばいい。インド人は何でも理屈で割り切って、不満があるとすぐに訴えたがるから信用ならない。

その点、我々中国人は商売道徳を重んじ、どの民族より勤勉で自信を持っている。時間を守り、約束を重んじ、ともに栄えたいと思うなら、我々中国系を雇うのがよい」


最後に、インド人が面接に来ます。彼はこう言います。

「マレー人は臆病で言いたいことも言えず、すぐに相手の言いなりになって不利な条件を飲まされるからだめだ。中国人は他人の町や家を汚しまくって、人前で大声でケンカをする恥知らずだ。

その点、我々インド人は燃えるような情熱を持ち、法律と会計に強く、何より日本軍と協力してイギリス軍を打倒したチャンドラ・ボースはインド人だ。だからインド人である私を採用しなさい」


現地の日本企業は、大なり小なりこのような民族比較を聞かされていて、このように他民族を批判して自分を「民族的性格」から売り込むという面接は、それはもう、自分が日本人なんだなと感じた経験でした。

僕も赴任する前は、「異民族が調和の中から文化を生み出し、たくさんの言語、風習、歴史、民族性が交じり合って日本では見られない多様性を生み出している」

という旅行代理店の宣伝文句のままにマレーシアを描いていたのですが、そういうのは日本人の一方的願望を仮託した理想像で、しかも旅行か短期留学用の認識でした。


実際に働けば、「いい加減にしろ!」と思うようなトラブルは頻発するし、約束は守らないし、ケンカはすぐに始まるし、勝手な契約を取ってきたりするし、いきなり辞めるし…で、異民族と働くのがどれだけ大変か、身をもって味わいました。

仕事では英語、街中と自宅ではマレー語、会社では日本語という奇妙な言語生活をしていたおかげで、語学の方は達者になりましたが、仕事のトラブルも語学の適応努力も、全て「帰国したら使わない」もの。

ガイドブックに書かれていない地域の貧富の差は、日本の田舎と都会の比ではなく、福岡女子大英文3年のTさんが去年この地を訪問した時に感じたように、まさしく「世紀が変わるほどの差」とでも言った方が適切です。

心優しく、途上国支援を願うTさんは、当時(2年生の頃)は僕の体験談を「仕事だから」と聞いていたかもしれませんが、実際に1ヶ月ほど滞在してみて、「なんですか、あの差は」と言っていました。


マレー人は、優しい民族です。だから競争と異民族支配による屈辱で鍛え抜かれてきた中国人やインド人には、到底かないません。その遠慮が、今の格差になっているのでしょう。

日本人がマレーシアの高速道路で強盗に遭い、所持金全部を奪われた時、「このままじゃガソリンが入れられない」と言うと、「そうか」と言って50リンギ(2,000円ほど)を返してくれたという、悪人なのか善人なのか分からないエピソードも、まことしやかに耳にする民族です。

あまりに仕事が遅いので、「頑張ったら君たちの給料を2倍にする」と言ったら、「やったー」と喜び、「じゃあ、給料は今のままでいいから仕事を半分にしてくれ」と要求してきたという、マルクスにも理解できない職業倫理を持つ民族です。


かの国では、雨が降り、太陽が照るだけで、何もしなくても家畜が育ち、野菜や果物が採れるのです。彼らの生活の規範は「神の道」を歩むことであり、お金や仕事は必要な時に現実生活の「誤差」を埋める道具に過ぎません。

日本ではモチベーションとして機能する「利益(給料上昇)」や、「恐怖(解雇)」も、ことマレー人には全く通用しませんでした。

一回会えば「アワ、カワンム(おまえ、おれの友達)」と抱きついてくるし、家に行けば満腹中枢が破壊されそうなくらいの熱帯の果物で歓待されるし、とにかく話し好きでもてなし好き。もてなし過ぎて、異民族に国を乗っ取られたほどです。


こういう文化的背景や労働習慣を持つ国でも、もちろんお金儲けがしたいマレー人もいるわけで、現地語を学びながら仕事を覚え、仕事を圧迫する非常識なコミュニケーションで睡眠を削りながら働いたのが、海外勤務の実態です。

今では10年前の思い出として甘美に回想できますが、帰国当時は「楽しそうでいいなあ」と言われるのが嫌でした。

それは、一にも二にも「仕事」だったのです。途上国だから仕事の質も低く少ないということはなく、逆に途上国と先進国の間に介在する仕事はすさまじく大変で、僕の集中力や忍耐力も、この海外勤務でずいぶん鍛えられたと感じています。

最後は現地で学習塾の講師までやったわけですから、帰国時は「やることはやった」という満足感や達成感でいっぱいでした。


ですから、帰国して独立準備のための転職先を探し、それを「経済誌を発刊するベンチャー出版社」に設定し、面接で「うち、ベンチャーだからきついよ?」と言われて働いた時も、「この仕事の何がきついのか?」としか思えませんでした。

電車は時間通り来るし、バスには「時刻表」なる便利なものがあるし、停電はしないし、社員は毎日出勤するし、社内でわめいたりしないし、契約はちゃんと守られるし、行政の書類は日本語しかないし、イスラム教には配慮しなくていいし…

要するに、「仕事」だけやっておけばいいんです、日本の会社は。仕事が仕事として完璧なまでに標準化され、それが「合説」や「インターネット」でパッケージ告知され、労働条件や給料が「前もって」提示されているではないですか。

外国、とりわけ東南アジアや南米の人々が「恐るべしジャパニーズ」というのも、帰国して働き始めた時点で分かりました。純粋に「生産」と「投資」、「営業」にのみ労働時間を投入できる日本の会社が、いかに強いかということを。

僕の仕事の能率が、じき経験豊富な上司を上回ったのも、無理はありませんでした。通訳、翻訳、折衝、説明、処理ミスによる事務作業再開、渋滞の中の移動、山奥への調査…をしなくていいんですから。

そういうのは、日本では完璧に標準化され、公開されているのです。あるいは、単一民族であるために、最初から存在しない問題です。帰国して、僕は「すごいおもりをつけて働いていたんだな」と感じました。

僕のようなパターンは例外で、あまり学生さんの参考にはなりませんが、それでも「若いうちは一番きつい仕事からやろう」というのは、人生の成功と失敗を分ける貴重な考え方だと思っています。

皆さんが入る会社、および志望している会社にも、「途上国」に相当する「途上業務」や「標準化されていない業務」があるでしょう。いわゆる「新事業」や「成長部門」と呼ばれる職種です。

僕はぜひ、そのような業務に、自ら志願して打ち込んでほしいと思います。きっと、25歳を過ぎたくらいから、他の人に比べて自分の仕事が格段に速いのに気付くようになるでしょう。


僕は海外勤務からベンチャー出版社を経て独立した時、大手企業に勤めている友達に会うと、まるで都市高速から3号線に降りた時のように、あまりに頭の回転が遅いのを知って、事故に遭いそうになりました。

西南法学部4年のI君、海外勤務は行くまでも行ってからも大変ですが、帰国した時に初めて自分が得た財産が分かりますよ。

ですから、ぜひ己の信念を貫き、困難を歓迎して大きく成長していきましょう。

来週は西南で、半年ぶりに「海外勤務体験談」と「4ヶ国語を覚えた語学学習法」をお話しますから、興味がある方はミニ教室でお話しましょう。

あ、ちなみに一番得意な言語は韓国語ですよ。

韓国語塾も今月半ばから始まるので、履歴書にニュースを追加したい方、自分の頭の良さと語学を学ぶ喜びを味わいたい方は、ぜひ一緒に勉強しましょう。