■「内定への一言」バックナンバー編

「苦労は一括前払い、幸せは分割後払い」





今日からFUNでは、業界研究とSPI対策が始まりました。4年生が率先して説明係を担当し、後輩を応援する姿は、本当に頼もしいです。

他の学生さんの中には、毎年この時期から始めると「まだ早かろうもん。今やったってどうせ忘れるし」という意見もあるようです。

そうです。忘れます。

しかし今度は、「二回目」になります。最初は「できるかどうか」を知るだけでも価値があります。失敗しても取り返しがつく期間から行動を開始するのが、賢明な人間です。遅い人の失敗は、それこそ本当の失敗です。



作業が迫らないと始めない人は、作業にもてあそばれるだけです。

SPIや業界研究などは、2~3月に入ってやることではありません。その時期には、そういう準備は全て終え、企業と向き合う自分を作ることが大事です。

あるいは、入社後の自分を想像することに時間を割くべきです。

だから、まずは早く、筆記や書類準備を一通り済ませてしまいましょう。きっと、「案外問題数が多い」とか、「けっこう基礎的なことを忘れてる」と感じるでしょう。

そうして不足や悩みを、できる限り先取りして実感することです。それがこの時期であることに、価値があります。

今は「失敗キャンペーン」の時期です。だからこそ笑って済ませられるし、次の準備に臨めるのです。業界研究も、今日みたいなのは難しいかもしれませんが、役員面接できっと「よかった」と思います。



ぜひ「先取りで余裕を持って楽勝」の就活を楽しみましょう。

皆さんの仕事は「顧客感動体験」の準備期間として大学生活を過ごし、自分を高めることです。そして、旅行や読書で一生を支える感動を重ねることです。

内定は小さな通過点に過ぎません。「トップ営業マン」とか「敏腕クリエーター」とかいう目標を持って、初めて「待望の新戦力」としての内定が叶います。不安な内定なんて、いやでしょ?


学生の可能性は、動くほど次々と開花するんですから、とにかく動いて形にすることです。

手遅れな人ほど「可能性」という言葉に逃げ込みますが、だいたいその「手遅れ状態」こそ、過去の「このままじゃ手遅れになる可能性」が顕在化された結果です。

希望的観測のみから「可能性」と言わないことですね。動かない人間、先延ばしにする人間、中断する人間には、常に「悪くなる可能性」しかありません。



さて今日は、趣向を変えて僕の小さい頃の話をします。というのも、ちょっと前に「小島さんも、子供だった頃があるんですね」と言われてしまったからです。なんて素敵なコメントなんでしょう…。

今日ご紹介するのは、嬉しくもあり悲しくもあり、その後の僕の価値観形成に大きな影響を与えた体験です。

時は僕が9歳の頃。ちょうど、今から22年前の1984年の出来事です。ちょうど今、大学4年生の人たちが生まれた年ですね。我ながら、年を取ったものです。


僕が少年時代を過ごしたのは、春日市と那珂川町の境界付近の地域です。近くには白水池という池があって、そこで釣りやゴルフ、「けいどろ」に明け暮れ、いつも泥まみれで魚やザリガニを連れて帰っていました。

一時は「プロゴルファー猿」にはまり、新幹線基地近くのMr.Maxで1,480円のドライバーを買い、「桜美ヒルズゴルフプラザ」から200個近くボールを失敬し、名前入りのハサミを忘れて校内放送で呼び出されて、罰として丸刈りの刑に処せられ、「チャボ小屋」に入れられたりしました。

ランドセルごと忘れては校庭を何週も走らされ、忘れ物、悪口、規則違反でもさらに走らされ、おかげで福岡県小学生陸上競技大会で、県予選で8位になるほど足が速くなってしまいました。


しかし、僕が最もはまったのは「自転車」です。


僕の昔の家の近所は、今では白水団地や月の浦、若草など、大規模に整備された住宅街ができていますが、僕が子供の頃はまだ、池とか空き地、田んぼばかりでした。

中でも、特に広い空き地が「紅葉ヶ丘」という地区にあって、そこに小さな山を盛ったり穴を掘ったりして、「モトクロス場」と呼ばれる秘密基地を作っては、走り回っていました。(今思えば、全然秘密じゃなかった)

今思えば、たかが30センチくらいの土の山でしたが、それを全速力で助走を付けて飛び越えると、それはもう、なんとも言えない快感でした。飽きもせず、日が暮れるまで走り回って遊んでいました。

ところが…僕の自転車は一番遅く、小さく、古かったのです。

スピードは体力でカバーしていましたが、友達は「切り替え付き」などの新兵器を投入してきて、徐々にレースで負けるようになり、僕はある日、母に設備更新のための新規投資を呼びかけました。

僕が欲しかったのは、「ニチイ(現:大野城サティ)」の2階に売っていた、22,000円くらいの6段切り替えの自転車でした。

頑張って説得すれば何とかなるだろうと頑張ってみたものの、母の答えは「自分で稼ぎなさい」の一点張り。なんて無茶なアドバイスなんでしょうか。


ということで、家庭内で業務提携を行い、皿洗いや草取り、買い物、ピアノ教室の手伝い、掃除、封筒チェック、風呂の準備などの業務リストを作り、それぞれ5円~30円くらいに分類して、自転車購入資金を貯めることになりました。

貯金箱は、ティッシュの箱でした。

それに、「マッキー」の太字で大きく「自転車ぼ金」と書き、5円玉とか10円玉を、それこそお賽銭箱のように貯金し始めたわけです。


一日の平均的な作業をやっても、売上は30~60円くらい…。

2万円なんて金額は、当時の僕には地球が買えそうに感じた大金ですから、その目標を前にして5円玉を眺めるたび、「おれの一生は自転車の貯金で終わるのか?」と悩んだりしたものです。

「日暮れて道遠し」。それで悔しくなって、九大2年・M君の「聖地」である清水商店で、「フェリックスガム」や「かば焼きさん太郎」などを買って、せっかくの給料を使い果たしたこともありました。


だから最初は弱音も吐き、「お母さん、なくなったらいかんけん、先に自転車買ってよ」とか言ったところ、「そんな弱気なら、最初から欲しいとか言いなさんな」とか、「ま~た、公務員みたいなこと言ってから」と言われ、なにくそ、と思って貯金を頑張りました。

時々はモチベーションを高めるため、ニチイに行っては自転車売り場を見ていたんですが、ある時、なくなっていました。

それを報告しに行って、「お母さんが買ってくれんけんやん」と言ったら、「貯金が遅いけんたい。もっと考えなさい」と叱られました。全く、さすがは僕の親だけあって、図々しく一点の遠慮も妥協もない母です。


それで、必死に一ヶ月頑張って貯金したものの、貯まったお金は多分、1,500円にもならなかったと思います。800万円のスタインウェイのピアノがあった僕の家は、世界で一番金持ちなのではないかと考えたりしました。

色々とアイデアを練り、例えば「皿洗い代」が増えるように、最初から皿を小分けにして夕食を準備したり、物置の下まで草取りをしてハサミ虫にかまれたり、そうこうしてやっと、日給が80円くらいに上がりました。

正月、おじいちゃんの家に「自転車ぼ金」の箱を持参し、お年玉で1,000円冊を入れてもらった時は、おじいちゃんが神様のように見えました。


そうやって、僕が8歳から9歳までの間は、ただ「自転車を買う」という目的のために費やされた時間になりました。

83年にファミコンが登場し、徐々に外で遊ぶ友達が減ったものの、そういうので遊ばない子供たちは自転車や釣りが好きでした。ファミコンがうまいことより、チャリでかっこよく速く走れることの方が大事でした。

だから、ただひたすら節約し、事業案を練り、貯金を続けました。そして徐々に、「自転車ぼ金」の箱が重くなり…ついに1年弱で、目標の22,000円を達成しました。


それはもう、天下を取ったような感動でした。僕が変な箱を大事にしているのは、何人かの友達も知っていましたから、あまりに嬉しくて学校で「貯金したぜ」と言うと、数人の友達が「いいな、ちょうだい」と言ってきました。

「絶対やるか」と思いましたが、それより何より、最初は途方もない金額だと思っていたお金が、ちゃんと貯金できたことで、どれだけの自信が得られたか分かりません。

母からもらったのは励ましと助言だけでしたが、とにかく我ながら、人生で初めて「耐える喜び」を知った体験でした。


そして、忘れもしない1984年6月10日のお昼。僕は世界で一番偉い人間のような勝ち誇った表情で、「自転車ぼ金」の箱を持ってニチイに行き、「これ下さい」と言って、レジに並びました。

店員さんは多分、「なんだ、この厄介な子供は」と思ったでしょう。だって、当時は500円玉も発行されておらず、その箱には1円玉とか5円玉ばかりで、最大派閥は10円玉、1,000円札は2枚くらいしかなかったからです。

レジの後ろの人にも迷惑だったでしょう。しかし、申し訳ありませんが、その時の僕には自転車以外視界にありませんでした。



そして購入。ニチイから家までは3キロくらいあって、その時は父の車で送ってもらったんですが、帰りはあまりに嬉しくて、なんとレジから乗って帰りました。まさしく奇妙なガキでした。

自転車の感覚に慣れながら、買ったのが信じられないような気持ちで大切に乗り、やっと家に着きました。

その日の僕がそれですぐに寝る、なんてことは不可能な話で、すぐに友達が集まる場所に行き、自転車を見せびらかし、随分久しぶりでしたが、こちらから競争を申し込みました。


こちらは最速の6段切り替えです。負けるはずがありませんでした。驚くほどの加速で抜き去った後は、この世で最高の快感を味わいました。

そして、何度目かのレースの時…。6段で友達を抜き去って、それから1段に戻した時、ペダルの感覚がいきなりスカスカになって足がもつれ、僕は大変な勢いで転倒し…

左腕の皮がほとんどむけ、右腕を骨折してしまいました。自転車もハンドルがやや曲がり、ライトが割れてしまい、友達もびっくりして「大丈夫や?」と駆けつけたほどのコケ方でした。


母も驚いて腕を見て、「病院行かんと」と言い、近くの「まごた整形」に行ったら、「折れてますね。紹介状書きます」とやらで、僕は夕方には腕を簡易固定され、南区の「福岡整形外科病院」でレントゲン写真を撮りました。

その診察結果は…「1ヶ月ほど入院が必要ですね」。

自転車を買って3、4時間後に、まさか病院で入院の知らせを聞くとは、自分でも予想すらできない展開で、さすがにこの時は落ち込みました。

1年間、あれだけ他の欲望に耐えて貯金し、やっとの思いで自転車を買ったのにと思うと、悔しくてやりきれませんでした。


入院は7月初旬までで、僕は先生の目を盗んでボール遊びなどをしていたため、さらに2週間引き伸ばされ、結局、7月17日に退院。

久しぶりに学校に行って数日で夏休みを迎え、大学生並みに長い休暇期間を過ごしました。

この入院はもう、小学校時代の一番の思い出というくらい、悔しく退屈な体験でしたが、両親がいつも伝記や歴史マンガを差し入れてくれたため、「僕も絶対に強くなってやる」と願い、退院を待ち続けました。

今思えば、全ての場面で自然で計画的な教育をしてくれた両親だったと、心から感謝しています。



今でも南区のあの辺や、春日市、大野城市、那珂川町あたりを通るたびに、「自転車事件84」を鮮明に思い出します。

その近くに住んでいると聞いた九大2年のM君、西南3年のKさん、2年のHさん、4年のNさんたちが生まれた前後、僕は既に悪ガキとしての天罰を受け、入院してたんです…。

それからも自転車でけっこうな範囲を走り回り、その自転車は中2でいとこの子供にあげるまで、5年ほど活躍しました。

今、20年以上も前のこの事件を振り返ると、「買った日に入院した」というハプニングは確かに恥ずかしく予想外でしたが、それよりも大事なものを、母は僕に身に付けさせようとしたんだということが分かります。

それは「克己心」です。一旦定めた目標を絶対に忘れず、あくまで達成のために集中し、中断しない精神力です。

たかが子供の2万円でしたが、それからの登山やマラソンなど、継続力や精神力が必要な競争では、僕が他の子供に負けることは、まずありませんでした。



この財産は、大人になってからは特に、「貯金」や「事業」の面で大きなメリットを発揮し続けてくれています。

それは、何事も大きな目標に臨むときは、「苦労は一括前払いにせよ」という教えであり、先にきついことがある行動が正しいのだ、という人生観です。

そして、「幸せは分割後払い」にすること。正しくは「受取」ですが、幸せは与えないと返ってきませんから、楽しいことは後からでよい、という人生観です。いわゆる「先憂後楽」の境地ですね。



僕が苦節1年で作った2万円は「自転車」という資産に変わり、それはたった1日で壊れて「入院費」という負担を親にかけてしまったわけですが、そこで得た習慣は、その後の僕の人生にどれだけの見返りを与えてくれたか分かりません。

子供の頃から、何か欲しいと言ったら、「買うためにはどうすればいい?」と聞かれ、それを親子で考えるのがわが家の文化だったので、「金持ち父さん」を読んだ時は、「僕の家みたいだ」と感じました。

子供の頃は悪さばっかりでしたが、それでも学校の勉強や新聞では絶対に学べないようなセンスや精神態度などを、色んな経験を通じて身に付けたように思えます。


僕が今就活をするとしたら、「今まで一番熱中したこと」には、この経験を書きたいところです。

実際、小学生の経験なので、エントリーシートには書けませんが、後の僕の可能性を発掘させてくれた偉大な思い出だからです。


皆さんも子供の頃から今までを振り返ると、「これが自分だ」と思える経験がいくつか思い出されることでしょう。ぜひそれを、友達と取材しあってみてはいかがでしょうか。

人の成功と失敗は、能力ではなく性格で決まります。能力とは、持続する性格や知識のことだからです。

「楽しいことを先にやる人間」か、「きついことを先にやる人間」か、そのどちらかが分かるだけでも、就活には随分役立ちますよ。もちろん勝つのは、「先憂後楽」型の人間です。