■「内定への一言」バックナンバー編
「教ふべきことありて師となり、学ぶべきことありて弟子となるべし」
(吉田松陰)
昨日のFUNゼミには西南大から1人、横浜国立大から1人の見学者(訪問者?)の方が来られました。毎年、夏休み明けからは見学者が続々と訪れ、早くも9月頭から、その気配を感じました。
実は、僕のところには既に去年から、長崎や鹿児島の学生さんから、「長崎では面接塾をやらないんですか?」、「鹿児島にはFUNはないんですか?」というメールが来たりしています。
でも…僕はただの顧問です。ミスドで一人でできる範囲で、仕事の後に相談に乗っていたら、いつしかこんな巨大で有名なサークルになっていた、というのが真相で、別に仕事としてやっているのではありません。
地元でなら、週に1~2回はお手伝いできますが、県外となるとちょっと…。
でも、せっかくそういう方がおられるなら、少しでもお役に立てればという気持ちはあります。
大月さん、石橋君、あとは頼みます。僕はアイデアならいくらでも作ります。
さて、年に2、3回、見学に来られた方から「先生」と言われるのですが、そのハプニングがあるたびに、部員の皆さんから笑いが起きます。
だって、みんな「小島さん」と呼んでいるし、僕ほど教職や教育の常識とかけ離れた不適格教師も、あまりいないと思うからです。去年の僕の名刺には、「西南学院大学・福岡女子大学 非常識講師」と書いてありました(うそ)。
もっとも、そう呼ばれるだけのことは少しはしているのかもしれないので、言われて嬉しい、という気持ちもあります。ただ、「なんだかくすぐったいなぁ」とも思います。だって、僕は一経営者に過ぎないからです。
しかし、僕はこうして毎週、若い皆さんの貴重な週末の時間を70分も頂いているからには、きっちりその時間を運用し、「今日も勉強になった」と言われるだけのことは、絶対に果たさないといけません。
学校でもまともに勉強していないし、大学も出ていませんが、ひとたび責任と役割を預かれば、キャンセルも引き伸ばしも言い訳もせず、ただひたすら黙々と義務を果たすのみです。
教育においても情報収集においても、世の中は「何を言っているか」は大事ではありません。「誰が言っているか」だけがいつも見られます。僕は、シンプルな言葉でも学生を集中させるだけの行動や姿を備えたいです。
企業経営の世界でも、立派なことを言うコンサルタントや、計算や理屈だけにはやたらと強い「貧乏社長」がいますが、誰もそんな人の正論は聞きません。頭で分かっているだけの状態など、誰も認めないからです。
経営の世界は「結果論」で、残した結果が全てです。いくらやる前に意気込んでいようが、立派な正論を吐こうが、結果が出せない人間の「動機論」など、卒業後は誰も相手にしないものです。
そういう「結果に対する容赦ない評価」が働く世界では、僕は10年間手抜きせず頑張ってきた自負心がありますから、正規の勉強はしていなくても、実力には自信があります。まだまだ知らないこともいっぱいありますが。
そういう、昔は偏差値25だった僕も、人と接する時に心得ている信条はあります。本メルマガでも過去に紹介した言葉を、ちょっと振り返ってみましょう。
■教科書を教えるな。教科書で教えろ。
学生にやる気がなければ、授業がいくらテキストに忠実であろうが、その話は「瞬間催眠セラピー」でしかありません。教える側の人格や思想、生徒への愛情、期待を話し振りや声の調子、表情の全てを用いて伝達するための道具が、教科書です。
生徒はやる気になれば、自分で勝手に勉強し始めるもの。僕は昔塾の先生のバイトをやっていましたが、全学年の学年トップは、僕のクラスでした。
ある子供のお母様から、ある日「先生…ご相談があります」とお電話があり、「何でしょうか」と聞いてみると、「先生、大変です。ウチの息子が予習しているんです。何か悪いことをしたんでしょうか」とご心配な様子。
「僕もできるんだ」と思った不良中学生が、自らの意思で国語の勉強を始め、なんと60点という高得点を取りました。平均点くらいの点数でしたが、この成果が彼をどれだけ自信付けたか、僕も振り返るたびに嬉しくなります。
■愚かな教師は教科書を読む。凡庸な教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。偉大な教師は心に火をつける。
教育とは過去と付き合うことでもなければ、現在と付き合うことでもありません。教師は生徒の未来を一点に見つめ、子供たちが達成した姿や頑張る様子をリアルに想像して、子供の内なる自信を喚起すべきです。
点数が悪かろうが、すぐに理解するのが難しかろうが、先生の方がますます熱心になっていく様子を生徒が見れば、生徒は自然に心の中のリミッターを外し、自ら努力を始めるものです。
「君はできるんだ。君は大切な人間なんだ」と実感してもらう教育力こそ、学科知識や試験対策の伝達以上に大切ではないでしょうか。
■教ふべきことありて師となり、学ぶべきことありて弟子となるべし。
これは明治の偉大な教育者・吉田松陰の言葉です。この前には「みだりに人の師となるべからず」とあるのをご存知の方もいるでしょう。
人に何かを助言したり、指導したりする時は、その内容について一つの完結した責任ある意見を持っていなければならない、という心構えです。
例えば、読んでもいない本を「いいらしいよ」と紹介する態度などは、これと全く逆の態度で、無責任極まりない接し方といえます。
そして同時に、「よく知らないからといって、すぐに人に聞くな」という戒めでもあります。
そのような態度が習慣化すると、自分で考える努力をすぐに放棄し、自分でまとめた意見にも自信が持てなくなってしまいます。
自分が発すべき問いはどのようなものか、そもそも自分は何がどのように分からないのか、それをしっかり考えてからでないと、簡単に人の弟子になるな、ということですね。
無学な僕にもこれくらいの信念はありますから、たとえサークルであれ、学生さんに教える内容は、
①その知識で実際に稼げる
②少なくともその分野に関し、100冊前後の本は読んでいる
③客観的な賛同・反対の意見を踏まえている
④初心者の学びが自発的に持続する意欲を喚起できる
といった基準を満たしているものに限っています。僕は早く社会に出て余計な知識を身に付けたせいか、けっこう多芸多才な人間で、勉強好きです。しかし、勝手な押し付けをしようとは思いません。
特に、予備知識や社会経験が少ない学生は、一つの知識に対しても、それから受けるインパクトが社会人以上に大きいものになるため、言葉や知識を丁寧に伝達していくのが大事だと感じています。
やっぱり、人より年を食うと、それなりの能力や知識がないと認められません。学生ではすごいことでも、社会人になるとそうとは思われないこともあります。
だから、誰から何を聞かれるか分からない講義やメルマガを毎週制作していく習慣も、僕の人格形成やスキルアップにはとても役立っています。「一人の時間に、どれだけ頑張れるか」が未来を決めるので、人にそう言うからには、自分がまず誰よりも行動で示さねばなりません。
教育では教える側だけが偉いとされがちですが、学ぶ者も立派です。影響を受けるのも立派な才能です。良い教え方があるなら、良い学び方もあるもの。
そろそろ集中講義が始まったり、後期の授業を考えたりと、秋からの自分を考え始めている学生さんも増えてきたようですが、ぜひ「努力が自然に続くような初心」を固め、年末の自分にワクワクしましょう。
簡単には教えず、簡単には学ばない。要するに、全ては「そうしようと思ってやる行動しかない」ということ。だったら、言い訳などできないはずです。全ての結果は自分の選択の成果だから、まず大きな可能性を選択したいものですね。