■「内定への一言」バックナンバー編
「雪が溶けたら、春になる」
最近は早朝からベローチェやプロントで、クラシックを聞きながら読書を楽しんでいます。
その後は、「メルマガ総集編」の編集スタッフに応募してくれた学生さんと打ち合わせ(皆様、本当にありがとうございます)。
長期の愛読者ならではの感想や提案など、書いている側の僕には思いつかないアイデアもあって、勉強になります。
今日は、西南国際文化3年のNさんと話したのですが、Nさんと話す時はいつも本題から反れてしまい、サークルや仕事の話題になります。今日は生まれ育った場所が近所だったと分かり、ちょっと盛り上がりました。
その勢いで、FUN発足当初に「サークルの活動方針」として、創設者の安田君が大事にしていた考え方を紹介したら、「それ、面白いですね!」と共感してくれました。
それは、「雪が溶けたら、春になる」という言葉でした。
安田君は個人的に色々な経験をしていることもあってか、教育に対しては人一倍強い問題意識を持っていました。しっかりした考えを持っているので、最初に会った時は、とても1年生とは思えないほどでした。
1年生の頃から学内講演会で一番前に座り、新聞記者の人に直接質問をしたり、2年生の時に憲法をテーマにしたスピーチコンテストで、関東の有名大学の学生を抑えて優秀賞を獲得したり、とにかく会えば何かの達成があって、「これは伸びるだろうなぁ」と感じたものです。
それからしばらく会わなくなって、3年の就活の時に、エントリーシートの添削で会ったことから、仕事や教育を話題にするようになりました。
久しぶりに会ったその時もまた、入学時と同じ「雪が溶けたら、春になる」について話していました。
これは、ある教育研究者が著書の中で書いていた言葉で、安田君がその先生の講演を聞いた時に感動した言葉です。その由来とは…。
戦後の日本では、教育界のあらゆる場所で「科学的」、「合理的」であることが求められ、本来は数学や化学、物理などの分野で求められる「整合性」を、勢い余って文学や歴史学にも応用してきました。
文学や歴史でも、本来の「人の思いに迫る」、「時代背景や事件の背景を想像し、当時の思いに共感する」という目標は失われ、とかく「辻褄合わせ」や「因果関係の証明」が勉強である、とされてきました。
法則は便利です。しかし法則には、「全てを法則で解明することは不可能である」という法則もまた、厳然と存在しているのです。
合理的に考えることは、学問には大切なことです。
迷信や当て推量でしか説明されない分野に、追証可能な法則性を探り、知識として客観化した上で抽出する作業を、昔の人たちは「啓蒙」と呼んだわけですから。
しかし、物事には全て「バランス」が必要で、中庸の道を弁える謙虚さは、科学的な合理性以上に大切なことがあります。
電気通信大学の西尾幹二教授は、地下鉄サリン事件や青年による凶悪犯罪、引きこもり、監禁事件、家族の崩壊、学校の崩壊などの事件に流れる「人間性の劣化現象」に対して、象徴的な定義をしています。
それは、「理性を失ったら狂人になるのではない。理性しか信じない者が狂人となるのだ」という言葉です。これは、『自由の悲劇』(講談社現代新書)での西尾さんの洞察です。
オウム事件の被告は、灘高校などの名門とされる学校から有名大学に入り、優秀な成績で卒業した人ばかりでした。「理性」の世界では、誰しも「秀才」と認めるような学歴を持っていました。
僕はあの事件当時、大学2年生になろうかという春休みを過ごしていましたが、教育、法律、経済、文化、心理学などの専門家たちがこぞって「原因究明」の大論陣を張ったことは、今も覚えています。
今の国立大学医学部では、半分近くの学生が手術を嫌がるそうです。理由は「血が汚いから」。もちろん、そうではない立派なお医者さんの卵もたくさんいますが、医者にあるまじきこの傾向は、戦後の特徴だそうです。
要するに、偏差値が一番高いところに入って、あとは学歴の威光をバックに老人のように生きていければいい、という劣化した人間性の発露です。
理性の世界では、「1+1=2」です。この考え方で行くと、「有名校卒業+有名大学入学=幸せ」となるはずでしたが、現実の人生がそうなるとは限りません。
しかし、理性にしか頼らないと、欠落したプライドを埋めるために、何らかの補完作業を行うしかなくなります。
「1+1=1」だと、理性しか信じない人は「そんなはずじゃなかった」と恐怖を感じ、そこになければならない「1」を求めてさまようものです。
あの事件の場合は、そこに新興宗教が入り込んだわけです。正しくは、自己責任で「選んだ」のです。
「足せばいい(足りない)」という発想だから、そうしたのでしょう。「1-0」と、式(問い)を変える思考方法は、あれほど難解な入試問題を解けたにもかかわらず、遂に出てこなかったようです。
切羽詰った時、人生の達人ほど「引き算」をしますが、未熟な人は「足し算」をしたがって、自ら首を絞めていきます。「自分は間違っていない」と帳尻を合わせる方法は、入試問題のように一つではありません。
しかし、そういう作業は往々にして恣意的になりがちで、1年間も自己啓発書ばかり読んでいたりすれば、読んでいる本は立派でも、それはやはり幼稚な態度でしょう。
名言は自分の怠慢を正当化するために求める時、悪のささやきにもなるものです。「帳尻を合わせる」というのは理性の範疇で行う作業ですから、思考の前提自体が危ないと言うほかありません。
かくして、西尾さんが指摘したように、「理性を失った者」ではなく、「理性しか信じない者」はたびたび狂人となり、常識では考えられないような奇妙な、かつ異常な行動に出るのです。
第289号(8/1配信)で、道元の「自己を運びて万法を修証するが迷。万法進みて自己を修証するが悟」という言葉をご紹介しました。
「自分の基準で世の中を証明するのが迷い。世の中や自然の法則で自分を証明するのが悟り」という鎌倉時代の言葉は、教育問題の解決に重要な手がかりを与えてくれます。
就活でも、いつまでたっても何も進まずにいる学生ほど、「自分なり」とか「オレ流」とか「マイペース」とよく言います。その「失いたくないもの」こそ「捨てるべき執着」なのですが、理性で帳尻を合わせようとしてしまうのかもしれません。
こういう思考パターンだと、学生でも社会人でも、最後は大体、「運命論」しか当てにしなくなります。
あるいは、0.001%も関係ない「景気」とか「小泉内閣」とか「イラク戦争」のせいにしたりします。通常の理性で考えても、恐るべき論理の飛躍ですが、切羽詰った人の理性は、これを「異」としません。
欠落した「1」を求める理性の働きとは、間違って活用すれば、こうも無関係な要素を「悪の根源」として特定したがるのです。そういうのは「青年の悩み」と一蹴されますが、年齢ではなく「考え方の癖による悩み」なのですから、僕はいつも「問いを変えてみたら?」と言うことにしています。
つまり、理性は大切ですが、理性が理性として働くには、精神のもう一方の働きである「情緒」が両輪として機能しなければなりません。
ゲーテも「知りうることを知り尽くし、知りえないことを敬うのが学問の姿勢だ」と言っています。考古学の世界では、このルールが大切にされているそうですね。
「知りえないこと」、つまり「帳尻が合わないこと」に対して「憎む」と「敬う」のどちらの精神態度を持っているかで、その後の人生は随分違ったものになってくるでしょう。
さて、ここで冒頭の言葉に戻りますが、皆さんは「雪が溶けたら、何になる?」と聞かれたら、何と答えますか?
これは、全国どこの小学校で聞いても、ほぼ全員が同じ答えだそうです。大学生に聞くと、「は?」と言われそうなくらい基本的なことですが、あえて大学生に聞いても、やはり小学生と同じ答えだそうです。
その答えは、「水になる」です。
よろしい。正解です。
しかし、もっと小さい子供たちや、あるいは病気や障害のために外で遊んだことがない子供たちに聞くと、「春になるよ!」と答えるそうです。
雪は水でできています。気温が一定以下に下がったり、ある気象条件が整ったりすると、液体から固体になり、それを人は「雪」とか「水」と呼び分けているわけです。
つまり、科学的に考えれば、「水になる」というのは文句の付けようのない正論です。合理的に考えてみても、誰も反論できない真理を含んでいます。
では、「春になる」という答えは間違いなのでしょうか。
物理的現象の説明ではないかもしれませんが、もっと大きく温かい、人間的な要素を反映した答えではないでしょうか。
聞くと、なんだか温かい気持ちになりませんか?いつの間にか心が忙しくなって、小さい頃の思い出も忘れて、「自分は一人で生きているんだ」と慢心していたことに気付き、はっとさせられますよね。
今は夏ですが、もし冬にこの答えを聞くと、なんだか枯れ木からつぼみが花を咲かせそうな、そんな期待が心の中に広がってきそうです。
こういう、科学的合理主義では解明できなくても、聞けば心に訴え、現象を大きく包む感情的な認識基盤を、「情緒」と言います。
もちろん、「春になる」形式の認識でしか全てを処理できなければ、それは未開人かもしれません。しかし、「水になる」形式の認識で生きていけば、人生にはストレスや嫉妬が絶えず生まれるでしょう。
情緒の特性は、「疲れないこと」です。それはつまり、道元の言葉を借りれば、自然や動物の営みを見て、自分の方が「修証されている」と言ってもいいでしょう。
ギスギスした人間関係の中で着けていた「仮面」や、面接用に一夜漬けでこしらえた「よそ行きの自分」のガードをスルリと抜けて、心の奥深くに浸透してくるのが、情緒です。
そういう話を安田君とはよくしていたから、FUNでは「情緒⇒理性」型でいこう、と方針を決めたわけです。「感動しまくった後、勉強しまくる」です。
僕が就活の開始に際して毎年話す「レンガ職人の話」も、理性に凝り固まった学生の頭を、情緒で解きほぐすためにやっているわけです。
情緒で会社や仕事、人間や社会を捉えてこそ、初めて感情が動き出すからです。
そして、そのような精神基盤で実社会と向き合えば、認識するもの全てに楽しみややりがいを見出すことができて、「良い迷い」が生まれ、最後にそれが統一されていって、感動の内定につながります。
学生さんの凍り方によって、時には線香花火、時には湯たんぽ、時にはガスバーナー、時にはスカッドミサイルを撃ち込んで、理性でガチガチの心に春をもたらすのが、社会人たる僕の役目です。
僕は情緒重視型ですから、原始人っぽいんだと思います。
だからNさん、「やりたい仕事がいっぱいあって迷う」というのは、いいことなんですよ。
そうやって、まずは心でいっぱい感動を受け止め、そこで感じた何かを探り当てるため、会計や経営を勉強すると、就活はどんどん楽しくなります。
いつまでも精神論でも駄目だし、いつも理屈でも駄目です。迷ったり悩んだりする前に、自分という車は両方のタイヤで走ってきたか、走っているか、ちょっと立ち止まって考える余裕も大切です。
この情緒を教育の分野で提言し、その考えに触れたあらゆる教育者や学生に感動を届けた方と言えば、数学者の岡潔さんです。
以前もご紹介した『春宵十話』(角川文庫)には、45年前に書かれたとは思えないくらいみずみずしい名文がたくさん収録されていて、学生時代の必読図書だといえます。(大月さん、大橋文庫で見つけたあの本のことです)
学生の皆さんも、通販でも良いから購入してみてはいかがでしょう。「忘れていたけど、実は忘れていなかったこと」に気付き、心に春が訪れたような気分になりますよ。