■「内定への一言」バックナンバー編


「憧れの音楽プロデューサー」(十八・七・三)



少年時代の最大の思い出

私の実家は「ピアノ教室」である。母が二十三歳の時に個人向けの音楽家庭教師形式で開業し、一九八年、自宅内で教室を開くようになった。


私の両親はシャンソンで趣味が合い、オペラやクラシックの話題がマッチして結婚したそうだから、我が家では私が物心付く頃から、ありとあらゆるジャンルの古い音楽が毎日鳴っていた。


人生で初めて覚えた曲は、ジルベール・べコーシャルル・トレネのシャンソンで、ハーモニカやアコーディオンのシンプルで優しげな演奏が心地よく、子供ながら懐かしさを感じさせる曲調だった。


そのおかげで、べコーやトレネ、リュシェンヌ・ボワイエエディット・ピアフアダモなどの曲は、今でもほとんどの歌詞をフランス語で暗記している。私が高校時代から外国語に惹かれたのも、幼い頃からフランス語やドイツ語、イタリア語が毎日のように流れる家庭に育ったためである。


しかし、最大の思い出はそういう音楽に囲まれて育ったことではなく、演奏会のため、父が母の「プロデューサー」として、演奏方法や演技について、毎晩のようにアドバイスを行っている姿だった。



今は全く弾けないが、私も小二から中一まで自宅でピアノを習っていた。母は音大出身だけにピアノとバイオリンを弾き、当時の私には人間の指とは思えないような早業が、驚きと誇りの対象だった。


反面、父は鍵盤も読めず、ピアノはおろかリコーダーも操れなかった。しかし、こと演奏になると、父の方が優位に立って「違う、そうじゃない」、「ここはもっと感情豊かに」、「それじゃ作曲者の思いが伝わらないぞ」などとアドバイスしているのである。


私にはそれが不思議だったので、ある日母に「お父さんはピアノを弾けんのに、なんでお母さんに教えられると?」と尋ねてみた。



母の答えは「音楽にはプロデューサーっていって、その曲がお客さんの心に響くためにどうしたらいいかを考える仕事があるとよ」というものだった。


「ふーん、変なの」と言った私に、母は続けて「お父さんはお母さんの曲をもっときれいにしてくれるとよ。ずっと世界中の音楽を聴いてきたけんね」と言った。


「お父さんも音楽を勉強したと?」と聞くと、「大学でも、八年間ずっとクラシックばっかり聴いとったらしいよ」と教えてくれた。なぜ八年かと言えば、二つの大学を卒業したからだ。



そんな我が家には、年に一度のビッグイベントであるコンサートがあり、この準備のために家族総出でアイデア会議を開いた。もっとも、私と弟は遠方の団地までくまなく回り、家々のポストにチラシを入れたり、パンフレットの折込をするのが仕事だった。


春日市の市民プールの横にあるホールを借り切って、だいたい三百人くらいの人を集めて開くコンサートでは、我が家でピアノを習う約五十人の子供たちが課題曲と自作曲を演奏し、最後は母がリストショパンの曲を弾き、余興として父がカンツォーネを歌った。


上手か下手かは分からなかったが、父が毎日練習していた曲を客席から聴くひとときは、人生で最も幸せを感じた瞬間だった。父の死をもってこの演奏会は終わりを迎えたが、今もって私の少年時代の最大の思い出は、学校の運動会や遠足ではなく、このピアノコンサートである。



心に残った「プロデューサー」の姿

家庭でクラシックやシャンソン、タンゴばかりを聴き、日本語の歌は一曲も聴いたことがなかった私は、当然、中学に入学して、同級生の音楽の話題についていくことができなかった。


当時流行していたアーティストといえば、BOOWY、TM Network、パーソンズ、爆風スランプなどだろうか。テレビでは「トップテン」や「ベストテン」などの歌番組も放映されていて、曲調くらいは知っていたが、私には雑音としか聴こえなかった。


無意味で欲望丸出しの歌詞、先に曲から作って後から言葉を詰め込んだだけのような曲調は、聴いてすぐにチャンネルを替えさせるほど嫌だった。



「音楽には娯楽と芸術がある。今の音楽は消費用の娯楽がほとんど。聴いても意味がないから、ポップスは聴きなさんな」と言う母の言葉を信じて、その後も日本の曲は一切聴かなかった。


塾にも行かず、音楽も聴かず、ゲームもあまりせず、話題は陸上部の話か本くらい。そんな中学生に友達ができるわけもない。家庭の不幸もあり、「勉強せんと高校に入れんぞ」という教師も、大嫌いだった。


クラスマッチや体育会、特に「応援団」が大嫌いだった。中学の卒業アルバムは、卒業式の日にゴミ箱に捨てた。



しかし私は、作曲家の気持ちや人生を想像したり、本の中で偉人と出会うのが好きだったので、寂しさはそれほど感じなかった。


その代わり、中学時代からは洋楽をよく聴くようになった。エア・サプライ、ベット・ミドラー、シャーデー、ロバータ・フラック、べリンダ・カーライル、マンハッタン・トランスファー、ミニー・リパートン、チャカ・カーン。ミスドで流れているような、古いアーティストばかりだ。


いずれも「優しさ」、「個性」、「歌詞の美しさ」という点で共通点があるアーティストで、彼らの歌詞を眺めては、あまり意味が分からない英語のイメージから曲風を想像し、ぼんやりと過ごすのが、中学時代の楽しみだった。



CDを買い、ライナーノーツを読むたびに、私が必ずチェックした項目といえば、「プロデューサー」だ。それで驚いたことがあった。私が今もって好きなエア・サプライ、ベット・ミドラー、ロバータ・フラック、チャカ・カーン、ホール&オーツなどのプロデューサーは、同一人物だったのだ。


その人物はアリフ・マーディンといって、なんとなくアラブっぽい響きの名前からも分かるように、トルコ人である。トルコ人が、アメリカ人の音楽をプロデュースしているミスマッチぶりが、なんとも新鮮に思えた。


一九三二年にイスタンブールで生まれた彼は、ジャズの響きに魅了され、ニューヨークに渡って音楽を学んだ。彼は楽器よりは編曲に強い関心を持ち、無名でも優れた才能や個性を持ったアーティストを発掘し、数多くのビッグ・アーティストを育成した。



彼がある曲のマスターテープを聴き、独特の想像を働かせて優れた感性で編曲すると、作曲者やアーティストまでも、「すごい、こういう曲にしたかったんだ」と喜んだという。彼は作曲者以上に曲を味わい、アーティスト以上に曲を知るプロデューサーだった。



原曲がどうだったか、一リスナーに過ぎない私は知る由もないが、編曲の道具はおそらく、優しさや愛情だったのだろう。彼が手掛けた前出のアーティストの曲は、優しさに溢れた曲風になっている。


また、うるさいドラムやキーボードの音もなく、どちらかと言えばシンプルな楽器で構成された演奏で、アーティストの持つ個性が引き出されるような曲調になっている。CDラックに、何度聴いても疲れず、年を重ねるほどに味わいが増し、懐かしさと新しさが同居する曲ばかりが残っていく中、彼のプロデュースしたアーティストは、ほとんど100%の確率で残り続けた。


私はこの、「自分を出さずに相手を引き立てる」というプロデューサーの姿が気に入った。父が母を応援した姿を、私が引き継ぎたいと願ったことも理由かもしれない。だがそれは、むしろ将来を描く一つの基準として影響した。



社長もプロデューサーだ

その後、私はどこで道を誤ったのか、経営者になってしまった。最近は、学校の先生も合っていると言われたりする。自分では、学者や作家も良いのではないかと思ったり、あるいはスポーツチームの監督に興味があったりと、三十を迎えても様々な誘惑に駆られているが、差し当たっては金と実績がないと、世間は絶対に認めてくれない。


ということで、今は社長をやっている。これもこれで、事業や人の世話が好きな自分の性格に合っていると思うが、私の仕事の大半は「書くこと」と「話すこと」だ。誰にそうするかと言うと、ほとんどは若者であり、企業経営者である。つまり、「表現したいものを、思ったように表現できずに困っている人たち」が、私のお客だ。


大学を中退して以来、平均睡眠四時間で、寝る間もなく働きまくってきた私が、独立までの六年で発見した才能は、「説明力」だった。他にもあるのかもしれないが、時間を忘れるほど熱中して、やっと一つだけ、心から自信を持てる才能に気付いたのだ。


才能とは、あると思えば誰にでもあるし、ないと思う人間にはあっても存在しないが、「これが自分の才能だ」と思うには、努力、努力の積み重ねしかない。


そういう過程を経て、私は説明する力に自信を深めたので、その力を独立起業の材料にした。「説明が下手で困っている人を、自分の力で助けよう」と思ったのだ。



色々と紆余曲折もあったが、この読みは当たった。なぜなら、当たるまで続けたからである。客を得た時の仕事の完成度には、客がいない頃から絶大な自信を持ってきた。


問題は客がいないことだったが、これは安田君や協力者のお陰様で解決でき、私は得意分野で社会貢献ができるようになった。



去年ヒットした「下流社会」(三浦展/光文社新書)で、社会的地位、経済状況、生活レベルなど、主な指標で「下流」とされる若者に決定的に欠けている要素は、「自分を説明する能力」だと説明しているが、これには私も同感だ。


社会には、自分のやっている事業を説明できない社長や、やろうとしていることを説明できない若者が多すぎる。



社長が説明下手だと、銀行との交渉も、社員に力を発揮させることも、取引先にメリットを提示することも、顧客に満足を提供することもできない。こういう「便秘経営」が慢性化した会社が最後にやる説明努力は、「値下げ」しかない。


そんな悪循環を、不景気や競合他社のせいにしてしまうのもまた、自社の置かれた状況を正しく自分に説明できないからである。私は記者時代、日本語をまともにしゃべれない社長にたくさん会ってきた。人柄は良いが、何を言っているのか分からない。


そんな社長に広告記事や特集記事を見せると、「これ、会社案内に使っていい?」と言われ、大変喜ばれた。



また、フリーターと呼ばれる若者を中心に、特に読書の習慣を持たなかった若者の言語感覚もひどい。フリーターの日本語は、留学生の日本語よりひどい。理由は、「何も考えていないから」だ。


思考がない言葉は想像できない。説明が下手だと、相手はストレスを感じる。何度も聞き直さないと意図が見えないような若者と付き合う社会人は、そう多くない。


だから、フリーターの周りには、同じような言語感覚を持った人間ばかりが集まり、言葉は余計に鈍っていく。誤解と矛盾の拡大再生産は、彼らの収入を極限まで引き下げ、人間関係までも狭めていく。



こういう企業の仕事の本質を見抜き、求職者のモチベーションを刺激するように説明するのは、何度やっても喜ばれる。日本語がしゃべれない若者の就職相談を引き受け、自分で自分の思考が理解できるように応援するのも、喜ばれる。


どちらも骨が折れるし、お客と接する以外の九割の時間で勝負が決まる地道な仕事だが、その努力の甲斐があって、決まらなかったことは一度もない。決まるまで投げ出さないから、全部成功して当然とも言えるが。



こうして、生まれたばかりの中小企業や、業績が伸び悩んでいる企業の相談を引き受け、自分の成長意欲を説明できない若者の相談を引き受けているうちに、私は自分の仕事はまさに、「プロデューサー」だと感じるようになった。


企業にも個人にも、その人が奏でたいような音楽のスタイルがあるに違いない。私はその社長やその人ではないが、客観的に把握した魅力や可能性を主観的な文章や言葉に置き換え、楽譜として提供するのだ。


誰もが感じるであろうし、誰にでも感じてほしい個性を、その人の言葉で編曲し、楽曲を提供する。私の仕事は音楽とは関係ないが、やっていることは、音楽プロデューサーと全く同じである。



そんな私が、仕事外で引き受けている学生サークルでも、毎年エントリーシート添削や、面接の練習がある。学生の言語能力もフリーターとさほど変わらないが、彼らには学生という身分があるためか、いい意味での思い切りがあって、とにかく成長が速い。


就活のピークである2~3月には、寝る間もないほど、県内のあちこちから履歴書やエントリーシートの添削依頼が来るが、これもまた、楽しいプロデュースの一環だ。毎年「こういう風に書きたかったんです!」、「家族全員で見ました!」、「担当者が見入っていました」という感想が返ってくるたびに、「謝礼」のたけのこの里やトマトジュースが増えていく。


フリーターと比べて格段に明るい学生たちの応援は、まるでメイクアップアーティストかファッションデザイナーになったように楽しい。



表に出るのはあまり好きではなく、自分から出しゃばってリーダーシップを取るのも嫌いな私だが、こういう立場でも人を応援できるのだと知ったのは、少年時代に見た父の姿や、私の好きなアーティストを育てたアリフ・マーディンのおかげだ。日本がブラジルに敗れて全国が沈み込んでいた時、ネットで「アリフ・マーディン氏が七四歳で死去」というニュースを見つけ、一人、こんな感慨に耽っていた。


以来、ここ十日ほどはずっと、彼の手掛けたアーティストの曲ばかりを聴いている。私が応援した会社や若者も、十年後には、ひとかどの社会貢献をなしうる存在になってほしい、と思いながら。今年は、誰のどういう表現を、どのように応援していこうか。自分の成功よりも人の成功を優先して考えられるプロデューサーの立場は、何年やっても飽きないものだ。