■「内定への一言」バックナンバー編
「時間がないと言う時はたいてい、集中力がないのだ」(山本猛夫)
その①
「小島さんって、どうして学生の応援をしてるんですか?」という質問を時々受けます。元はといえば、創業期の仕事の合間に、FUN創設者の安田君の友達の就職相談に乗っていたのが、FUNの始まりです。
お話しているうちに学生さんが続々集まり始め、多くの喫茶店から追い出されて、いつしか学内サークルになってしまい、今も定期的にお手伝いに行っているのです。
だから、僕はサークル化する前からいるのであって、学生の応援をしようと思って来たわけじゃなく、学生の方がFUNに集まってきただけだと思っています。その証拠かどうか、今でも僕のFUNの顧問謝礼は「月額\600」です。
私立大学の授業料は、この「280倍」の授業料を毎月、皆さんは欠かさず支払っているわけですから、FUNが「営利目的」というには程遠いです。
だから、「なぜ学生を応援するのか」という質問が出てくるのでしょう。いちいち答えるのも大変なので、今日は僕の仕事や人生にかける思いを綴ってみます。
僕の人生は13歳の時に決まったと、今でも考えています。11歳で両親が離婚し、13歳の時に父親が病気で亡くなった時です。あまりのショックに、自分に起きた出来事を受け入れられず、しばらく自分が中学生であることも忘れ、学校も休み、ただただ泣き暮らしました。
その時、弟から「兄ちゃん、ふざけるな!自分が一番悲しいみたいな顔しやがって!一番悲しいのはお母さんやろ。お母さんが元気になれるよう、オレたちが強くならんでどうする!」と一喝され、目が覚めました。
父は生前、二つの大学を卒業し、とても勉強が好きで、僕と弟にいつもクラシック音楽を聞かせたり、世界中の本の話や、偉大な人物の伝記を読んでくれました。
口ぐせは「おまえは天才だ、おまえは何でもできる」で、毎日しつこすぎるくらい、褒められました。とにかく、子供を褒めて伸ばし、その気にさせることにかけては、近くの親には見られないほど長けていました。
ただ、生来の学者的気質が抜けきらず、勤めた会社では長く働くことができずに、次第に酒の量が増え、転職と退職を繰り返すようになっていきました。
小学生の頃は、まだ家計の財産状態とか経済のことは詳しく分からなかったのですが、卒業する頃くらいになると、どうも家の事情が良くないということが分かり、母が実家で開いていたピアノ教室の営業を、弟と二人で一生懸命手伝いました。
チラシ作り、ポスティング、会計係を子供ながらに引き受け、母親から「お金のレッスン」を受けて、いつか父が酒をやめて仕事に復帰してくれるのを願っていたのですが、小学生程度の知識で、親の仕事の相談に乗れるわけもありませんでした。
昼間から酔っ払って団地を歩く父を見かけた同級生が、「おまえのお父さんが赤い顔して歩きよったぜ。おまえんちって、大変やね」と言った時は、怒りが爆発し、誰か分からない顔になるまで殴ったこともありました。
新興の団地というのは、ピアノ教室の営業には都合の良い土地柄ですが、同時に「あの家は○○だ」という噂も広がりやすく、僕の父の噂や、わが家の事情も知られるようになっていき、ピアノの生徒も減っていきました。
不安がる母と、生活を改めようともしない父を見て、弟と一緒に「生徒倍増作戦」を考え、その結果として生まれたアイデアが「兄弟でマラソン大会で優勝しよう」というものでした。小学校の頃は、とにかく腕力が強くてスポーツ万能で明るい人が人気者になります。
だから、兄弟でそうなってやろうと決めたわけです。
単純な思いつきでしたが、これは2年連続で達成し、「マラソンの小島兄弟」として有名になって、県の陸上競技大会に揃って出場しました。しかし、生徒はあまり増えませんでした。
子供ながらに「収支」くらいは薄々分かっていて、結局地元の春日市では手が尽き、筑紫野市に営業拠点を広げました。そんなことを、母と子供二人で、だいたい3年くらい、毎日やっていたわけです。全ては「お父さんがまた頑張るように」という目標のために。
しかし、父は結局酒が抜けず、健康を害して入院し、高額の手術の甲斐もなく、89年に亡くなりました。もう、17年も前のことです。明るく社交的だった僕は、物静かで思索的な性格になりました。
父がなぜ亡くなったのか、なぜ止められなかったのか、毎日毎日そればかり考え、授業中も母の家業を盛り上げるアイデアばかり練っていました。おかげで成績は最下位スレスレでしたが、入試で母を見捨てるわけにもいかず、学校の教科書は燃やして捨て、ピアノ教室の仕事を毎晩手伝いました。
父の生前の負債や手術費は、残された家庭には重過ぎる負担で、明るい母でさえ、ため息をつくことがありました。だからとにかく、弟と「早く働こう」と言って、お金を稼ぐアイデアばかり考えていたわけです。16歳の時のことです。
僕は大野城市に住んでいるいとこの花屋で、配達のアルバイトをしていました。そこでおばさん(母の姉)から、わが家の本当の負担金額を聞き、仰天しました。さらに驚いたのは、悪質な業者が関わっていたことで、母のため息や、夜の書類作業の理由が分かり、家に帰って確認したら、母が涙を流して謝りました。
母を責めるつもりなど毛頭ないものの、僕と弟はただ、力を付けようと願う以外にできることもなく、あの時の無力感といったら、今も思い出したくないほどです。
母子家庭と知るや、訪問販売の業者もなめてかかってくるし、どこからか奇妙な金融の案内も投函されます。「色々ときれいごとを言う奴は多いが、とにかく男は財力、権力、腕力を持たないとダメだ!」と強く感じました。
そして、我が家が絶体絶命になった時、祖母のつてで紹介された建設会社の社長さんと弁護士さんが我が家を訪れ、我が家を数年間悩ませた難題を、あっさりと解決してしまったのです。
高額な借金を、「あれ?ああ、僕が返しといたよ。小島さんは払わなくていいですよ。それより、立派な息子さんを二人も持っているんですから、そのための教育費を作って下さい」と、まるで蚊でも叩いてきたように話したのです。
僕は心からしびれました。悪人を軽々と追い払った手腕と、それを誇りもしない心の広さに。「オレも将来社長になるしかない!」と決意した瞬間です。
僕は17歳のこの時点から「会社」、「仕事」、「父親の姿」といったことばかり考えるようになり、会社組織になじめなかった父の姿を思い、少しばかり社会の仕組みが分かるようになった今、もしお父さんに相談できたら、少しは違っていたのか…と考え、改めて悲しみに浸りました。
ただ、もう悲しんでいる年でもないし、働こうと思えば働ける年齢でした。それに、仕事に誇りを持ち、弱い者を助ける強い人間になりたいと、それが人生の夢の一つになりました。
僕は大学に行かないで早く働きたいと熱望していたのですが、祖母が貯金を出してくれて、勉強好きだった僕を大学に行かせてくれることになりました。それで、人生初の受験勉強というものをやって、地元の西南大に入りました。
その頃からは、「日本のお父さんが世界一かっこいい、と言わせる仕事をしよう」と、漠然とですが描いていました。
巷間、「プロ」と言えば野球選手やミュージシャンだけだと思われがちですが、僕は会社で働くお父さんも「立派なプロ」だと昔から思っています。小学生の頃、友達の家に行って、「お父さんが仕事から帰ってくる姿」を見たり、「家族の団欒」というものに参加させてもらったりして、あまりのうらやましさに、帰り道に泣いたこともあります。昔の僕は、弱虫だったのです。
自分のお父さんが「自慢できる状態じゃない」ということが、悔しくて悔しくてたまらなかったのです。だから、マラソンや漢字テストなどを頑張って、とにかく母親が安心するように頑張ったりしました。
僕の大切な父は、とうとう仕事の楽しさを伝えることなく、亡くなりました。その後、東京の叔父(父の兄)に会って父の生前の仕事ぶりを聞き、頑張っていた時期もあったと知って、すごく嬉しくなりました。
しかし、高校生くらいになって気持ちも落ち着いてくると、世の中には案外「おやじの仕事」というものを知らない子供も多く、親が働いて金を稼ぎ、一家を支えていることを「当たり前」と思う、不届きな友達がいるのを知りました。
「オレは、自分のやりたいこととか、楽しいことみたいな、スケールが小さくてみみっちい目標のためには生きたくない。男が生きるなら、世の中を救い、巨大なスケールで事業を展開すべきだ!」と思い立ち、語学と経済を学ぼうと、国際経済学科を選びました。
大学1年の頃には、僕の方が商学部4年生よりも簿記や経済に詳しかったくらい、家庭環境で鍛え抜かれていましたから、バイトでもかなり稼ぎました。
そして自分に自信が付いてくると、なんだか悩んでいる友達がかわいそうになってきたのです。僕は周りの友達より2年早く働き、さらに言うなら小学生の頃から微力ながら「教室経営」を手伝ってきたので、友達の「働きたくない」という悩みに対し、具体的なアドバイスができました。