■「内定への一言」バックナンバー編


「人は支配できる仕事を好み、服従する仕事を嫌う」(ポール・アラン)


その①



昨日、面接塾参加者と卒業生の皆さんに配信したメールに、ぽつぽつ返信をいただきました。お送りいただいた皆様、本当にありがとうございます。多くの学生さんとの出会いを通じ、僕も多々、学ぶことがありました。


そんな中、一人一人とゆっくりお話することはできなかったのですが、よく聞かれた質問について、今日は考えてみることにします。



なぜ、海外勤務をしようと思ったのか?



これについては、高校の頃くらいから、「将来は海外に通用する人間になりたいものだ」と考えていました。大学は英語専攻、国際経済、国際関係、産業社会の4学部に合格し、その中で最も興味のあった「国際経済」に進み、語学とビジネスを学ぶ日々が始まりました。



高校の世界史の勉強で、「経済力は軍事力に勝る」と感じていたため、経済大国と呼ばれるわが国の将来を考えるには、国際経済のつながりを学ぶのが大切だ、と考えたからです。



しかし当時は、目標もまだ、漠然としたものでした。為替や国際資本市場、貿易や外交の勉強は好きで、テストもそれぞれ良かったのですが、周りの学生は全然勉強していないし、教授も「サボっている学生」に合わせた授業をやったので、馬鹿馬鹿しくなって、さっさと中退。




話はちょっと戻って、大学1年の夏に英検準1級に合格し、ドイツ語、フランス語、中国語、韓国語を独学で学び、韓国語が最も面白いと思ったため、韓国に旅行し、その時の体験談を書いて恩師に送りました。



すると、先生が旅行記を評価して下さり、当時、東京大学教育学部教授だった藤岡信勝さん(現在、拓殖大学教授)に、僕のレポートを郵送されました。それが、テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」で、「ある学生の声」として引用されたのです。僕はその時、番組は見ていなくて、当時は携帯電話もなかったため、友達の話で知りました。




そして、その番組を見ていた岐阜県の建材商社の社長さんが、「あの番組で引用された旅行記を書いた若者は誰だ」と問い合わせをされ、社長さんの知り合いの方から、僕に電話があったわけです。「わが社は海外で働ける社員を募集しているが、君は働いてみる気はないか?」と。条件は

20代で独身 ・英検準1級以上 ・意欲があること


で、僕は20歳になったばかりだったので、春に業務説明を受け、夏に筆記試験と面接を受け、その2週間後に、マレーシアの首都・クアラルンプールの小さな貿易会社に入社しました。



ちなみに最後は、学習塾事業部の講師も担当し、ユニークな体験ができました。面接塾に来られた方にも、海外勤務を希望される方がおられ、少しは経験をお話もしましたが、ここで答えを要約しておきます。




まず、語学力については、TOEICに換算すれば、勤務時の僕の点数は800点前後だったと思いますが、正直言って、TOEIC700点でも、800点でも、商取引や為替の知識がなければ、海外勤務は辛いと言ってよいでしょう。



商社関連の仕事がしたいなら、「Inventory(在庫)」や「Depriciation Expense(減価償却費)」、「Historical Cost(取得原価)」くらいの用語は、日常会話の中で普通に駆使できなければ、現地の中卒ほどの使い物にもなりません。日本語でもその意味が分からない人となれば、論外です。



英語は「できればよい」ではなく、「できて当たり前」で、プラスαがなければ駄目でした。中退しただけの僕は、「憧れだけじゃ何もできないんだ」と素直に反省しました。




「海外勤務」と話すと、たいていの人は「いいなぁ」と言いますが、僕は20歳で赴任したため、毎日猛勉強しました。そのため、帰国後にベンチャー企業に就職した際、「日本語だけで仕事ができるなんて生活適応努力の時間的負担がないなんてなんて楽なんだ!」と感じました。



しかし、どのような苦労を対価として払っても、海外勤務は、それ以上の見返りをもたらしてくれるものでした。挑戦する価値は、十分にありますよ。もし希望される方がおられたら、遠慮なく相談して下さいね。




どうして経済誌出版社の記者になったのか?


マレーシアで1年働いた後、貯まりすぎた貯金の半分を使って、シンガポール、タイ、フィリピン、韓国を8ヶ月旅し、21歳の冬に帰国しました。帰国後半年くらいは、将来の計画を描き、達成をまとめ、報告するため、東京や横浜、名古屋、倉敷を訪れ、自由に過ごしていました。



次なる目標は、3ヶ月滞在したバンコクと、2ヶ月滞在したマニラでまとめ上げた起業準備」。メディアや起業支援、教育・雇用関連の分野で、革命的な大事業ができないものかと、あれこれ調べ、経験者に話を聞き、転職活動に入りました。そうして不動産保険経済誌記者の3つにターゲットをしぼりました。それらを選んだ条件は


1)経営者と継続的に会える

2)トップでなければ扱えない話題の範囲に属する業務である

3)利益や売上げの配分の仕方が分かる

4)未来のことを話題にできる仕事である

5)事業の組み立て方をリアルタイムで勉強できる


といった程度のことでした。


色々な会社を回った中、文章が好きで、セールスにも興味があったため、経済誌の出版社を選びました。


1)小さくて無名

2)経営状態が不安定

3)誰も知らない雑誌を売っている


という点で、僕の志望基準と合致したからです。社長を目指す者としては、「経営状態が不安定な新設企業の発展に貢献し、誰も知らない商品を自分の魅力で売り込むくらいのことができなければ、とても起業などできないだろう」と考えたこともあります。


つまり、自分が独立した時の模擬体験ができる、と感じたのが理由です。



この会社での経験はとても役立ちました。というか、役立てようと思って入社したのだから、役立って当たり前です。原子力発電所と葬儀会社以外は、ありとあらゆる業種の社長に会い、営業、企画、コンサルティング、広告作成、営業代行を経験できました。



時々、「じゃあ、私も経済誌の会社に行けば、そんな経験ができますか?」と聞かれますが、「できません」と答えます。会社が何かをさせてくれることはありません。やりたい人がやるだけです。



会社が楽しいのではなく、その人が楽しく捉えれば、全ての仕事は楽しいのです。2325歳までこの会社で働き、海外で夢見た計画の一部は、順調に達成できました。やはり、若いうちは苦しい仕事をするべきだなぁ、と感じた経験でもあります。




独立の準備は、どうやって進めたのか?


これはもう、色々あって書ききれないほどですが、起業を希望するなら、おそらく一番苦労するであろう金策についてのみ、触れておきます。その他の準備は、海外勤務と経済誌出版社の仕事が、「大学」となって教えてくれたからです。