■「内定への一言」バックナンバー編


「四十代では何もできないと言うなら、

コロンブスはアメリカ大陸を発見していなかったはずだ」

(ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ)

その①

僕は高校時代、アメリカ大統領の演説やCNNFENのテープにはまり、こっそり貯めたバイト代をつぎこんでは、南雲堂アルクが発売している英語学習テープを買いまくっていました。(時代の流れか、今はCDです)。強制されてもいないのに、英語のリスニングだけはいくらやっても疲れず、高二の夏から卒業までに、おそらく五十本は聞き終えたと思います。



西南大や立命館大の入試の英語がわずか二十分で解き終わり、しかも全てほぼ満点だったのを自己採点で確認した時、自発的学習の威力を思い知り、このリスニング体験は、若き日の僕に大きな自信をもたらしてくれました。そのまま、大学一年の夏に英検準一級も一発合格し、大学の英語の授業も大半が聞き取れているのを自覚して、さらに自信を深めました。



と、二十歳前後は、「英語力そのもの」がリスニングで得られた財産と思っていたのですが、海外勤務を経て人前で話すことが多くなった時、またもや大統領の演説のテープが役立ちました。



それは、「スピーチ術」です。アメリカ大統領の就任演説や所信表明演説、議会でのスピーチは、それこそ老若男女、高級官僚から無学の老婆まで、世界中の民族が聞くものですから、誰が聞いても分かり、簡潔で本質的なことが求められます。詳しく研究したい人は『大統領の英語』(講談社現代新書)を買うとよいでしょう。


さて、今日は演説がテーマではなく、故・ケネディ大統領がまだ「候補者」だった時、共和党のニクソン候補に「若造」扱いされ、冷静に返答した言葉から、「年齢と挑戦の関係」について考えてみたいと思います。



コロンブスがアメリカを「発見した」というのは、現地に住んでいた先住民からすれば単なる「迷惑な話」で、今も現地人が「インディアン」と呼ばれているのは、コロンブスの「インドに着いたぞ!」という大きな勘違いが原因ですよね。しかし、白人がその後に何をしたかは各自の勉強に任せるとして、コロンブスの行動が西洋文明を世界に拡大する契機になったのは事実です。そして、コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは、四十代でした



スペイン女王を口説き、旅費と船の建造費を出資させ、大船団を率いて目標を達成した偉業を、かの山本七平さんは「ベンチャー企業家」として分析しています(『一九九年代の日本』PHP文庫)が、その性格はとにかく勇気と先見性に溢れていて、陽気です。コロンブスは、卵をタテに置いて「コロンブスの卵」と言われているようなエピソードも持っているので、さぞチャレンジ精神溢れる男だったのでしょう。



そんな彼が四十代にして、「その果ては大魚の口」とか「二度とは戻れない巨大な闇の世界が待っている」と言われていた大西洋を横断した業績は、彼の後に移住したアメリカ人の国民性にまで影響しています。若きケネディ候補も、このエピソードに触発された一人でしょう。



ケネディ候補の父は、上院議員として活躍するかたわら、禁酒法を破ってアイルランドから酒を輸入し、巨大な財産を築いて息子たちをハーバード大学に進学させました。カトリックを信仰するアイルランド系移民だったケネディ家は、その財力と権力で政界に影響力を強め、一族から初めてWASP以外の大統領を誕生させたわけです。



強敵ニクソン候補とのテレビ討論で流れを変えた言葉は、アメリカ人なら誰もが知るコロンブスの挑戦を称え、自分をそれと関連付けるという、スピーチの手法から見ても、大変優れたレトリックでした。こうしてニクソン候補を破ったケネディ大統領は、コロンブスの理念を彷彿とさせる「ニュー・フロンティア」という言葉を指針とし、多くの課題に取り組みました。



障害とされた「若さ」は、逆に爽やかさ、活気、積極性などのプラスイメージとして歓迎されるようになり、その後に登場した大統領はケネディ大統領と比べて「若い」とか「年老いている」と言われるようになったわけですから、「最初は例外、後は標準」となったケネディ大統領の存在は、アメリカ人に新たな可能性を与えたんですね。


さて、僕が今日のメルマガで考えたいことは、「自分が本気なら、経験の期間や年齢は気にする必要はない」ということです。というのも、二十代というのはとにかくお金がなく、時間もなく、やる気と決断力、スピード、元気さ、忍耐力、継続力で勝負するしかないからです。



例えば、学生時代の「留学」を考えてみましょう。親に資力があるから数年留学したとか、親に全額出してもらって海外の大学に通ったとか、あるいは親の海外勤務について行って帰国子女になったとかいう経験は、誰もが持てる訳ではありません。



そういう人や、あるいは働き始めてから留学した人などは、学生が「一ヶ月海外に語学留学をした」と言っても、「一ヶ月で何が分かる」と認めたがりません。その根拠は、「自分の方が長いから」。その他にも、「夏休みに二週間タイに旅行に行って感動した」と言っても、「二週間じゃ何も分からんやろ」と言われたりします。


つまり、唯物論ですね。「質」より「量や回数、投入時間」で評価したがるのは、既に化石となり、次の時代には不要なおじさんたちの悪いクセです。数が価値を持つのは、それが記録の時です。


何割かのおじさんたちの頭の中には、若き日の理想としてのマルクス主義や毛沢東思想がこびりついているので、意識しなくても自然にそういう発想、発言になってしまうだけなんです。もう、自力では修正できず、新しいことを学ぶ柔軟性も意欲もないため、「若造」をいたぶって快感に浸るしかないわけです。「おっしゃる通り」と聞き流して、無視しておけば結構です。


それより、あなたにとって大事なのは、「どういう動機から決意し、どういう準備をもって臨み、どういう工夫を通じて獲得し、どういう展望と反省を持って後の人生に位置付けたか」です。


タイに二週間の旅行?いいじゃないですか。あなたがそれを待ち望み、必死のバイトで旅費を貯め、現地での一日、一時間を燃えるような好奇心と行動力で過ごし、タイの素晴らしさに触れ、それが大学生活を変えるきっかけになったなら。


韓国に一回旅行した?いいじゃないですか。あなたがそれをきっかけにハングルを学び始め、日韓の比較から日本の歴史を学び、先人に対する敬意と日本人であることに対する誇りを獲得し、その後の人生の自信と希望につながったなら。


大事なのはいつも、量より質です。たとえ短くても、逆に短いからこそ集中し、それを貴重なチャンスとして後の行動につなげていければ、それは優れた資質です。質が悪いまま量が増えても、害が増えるだけです。それがどういうことか、ちょっと振り返って説明します。長くなってすみません。


例えば、僕は五回フィリピンに行きました。海外勤務中に、深田祐介さんの『炎熱商人』(文春文庫)を読んで、日比両国をつないだ商社員の熱い奮闘ぶりに感動し、また、フィリピンの教科書を執筆しているレナト・コンスタンティノ氏の『フィリピン民衆の歴史 一~三』(井村文化事業社)を読み、ホセ・リサールマルセロ・デル・ピラールアギナルドインマヌエル・ロハスなどのフィリピン近現代史を彩った人物たちの個性に惹かれ、給料を我慢して貯め、二十一歳の夏、初めてマニラに行きました。



「きっと、フィリピン人も日本に興味があって、フィリピンの若者は建国の英雄を尊敬し、苦しい経済事情ながらも、強く明るく生きているに違いない。フィリピンの友人を作り、日本とフィリピンの歴史を語り合おう」と決意して、タガログ語の文法書まで買い込み、ワクワクしながら飛行機に乗り込みました。しかし、ニノイ・アキノ空港を出るやいなや、フィリピンに初めて来た僕に浴びせられた言葉は


「ハイ、シャチョー!オンナ、イルヨ。カワイイネ。イチニチ、ニィセンペソ、オーケー?」


意味が分かりませんでした。



「オレに言っているのか?」と後ろを向くも、僕一人しかいません。そんな僕に、フィリピン男性は続けて、「オンナ、イルヨ。フツカ、サンゼンペソ、ディスカウントネ」と言います。


続けて、「ハイ、ユー、チャイニーズ?ユー、ウォント、プロスティチューション?」


つまり、男は「買春」の話をしていたのです。さっきまで飛行機の中で考えていた「フィリピン」の姿は崩れ去り、僕はもう、なんだか自分がどこに来たのか分からないような目まい感にクラクラしました。軽蔑しようにも無視しようにもどうでもよくなって、しばらくマニラ湾沿いを歩こうとしたら、男は後ろの日本人観光客に向かって、また同じようなことを言っているではありませんか。きっと、毎日空港に行っては、日本人が訪れる便を確認し、同じことを言い続けていたのでしょう。



フィリピンを初めて訪れた僕が、こともあろうに「女を買わないか」と言われるとは屈辱でした。僕の顔が女好きに見えたなら、仕方ありませんが(そういうことを言われたことは日本でもありませんよ)。これは紛れもなく、「以前に来た日本人がダメだった」ことの結果です。