■「内定への一言」バックナンバー編


「金を残すは下、事業を残すは中、人を残すが上」(後藤新平)



昨日の夜、西南のM地君と広告代理店で独立したK君と一緒に、空港前の「ほんだらけ」に立ち寄りました。あるある「なんでこんないい店にもっと早く来なかったのか」と思うほど、名作がどっさり置いてあって、まさに「宝の山」状態でした。



特に、歴史や経済関係の本や文庫の品揃えは、博多のブックオフほどの量はないものの、質は上だと感じました。閉店間際で急ぎ足だったため、今度改めて行くことにして、4冊だけ買ってきました。



なぜ閉店間際に古本屋に行ったかというと、昨日は「営業塾」の終了後、ベローチェでM地君、九大のM川君と「ベンチャーキャピタル」について語り合ったからです。


M川君は九大の2年生で、営業塾参加者の中では最年少ながら、アルバイトの経験を生かして営業や経営を考え、先輩にも積極的に質問しています。


女子大のTさんの紹介で、FUNでは筑紫丘高校の出身者がぽつぽつ増えていますが、皆さん積極的で温かく、今後が楽しみな若者ばかりですね。



さて、M地君が来年から入社する会社の話題から、M川君が興味を持った「ベンチャーキャピタル」とは、一体、どんな仕事をしているのでしょうか。この魅力ある仕事を理解するには、明治の人物を知ると、最も本質的なアプローチを得られます。今日は数人の英雄を紹介し、それぞれの姿や言葉に迫ってみましょう。


日本の近現代史に大きな足跡を残しながら、自らの栄誉よりも国家の発展を願い、後世の事業家や政治家に大きな影響を与えた人物として、僕は渋沢栄一後藤新平を心から尊敬しています


渋沢栄一については、読者の皆さんはもう「雄気堂々」(城山三郎/新潮文庫)でご存知だと思いますから、ここでは触れません。くれぐれも、試験前には読まないようにして下さい。あまりの面白さに単位を落としても、僕は責任を取りませんよ。


その代わり、中退したくなったら、経験者として相談に乗ります。今日は後藤新平の生き方から、事業や仕事のあり方を考えてみましょう。



後藤新平といえば、今も台湾で最も尊敬されている日本人で、日本史を研究した外国人からは「西洋の政治家を凌ぐ発想と実行力を持った巨人」との評価を得ています。


岩手県に生まれた後藤新平は、医学を修めて医者となり、ドイツ留学を経て、内務省の衛生局に勤務します。その手腕と見識を買われ、「君しかいない」と請われて赴任したのが、当時は風土病の宝庫と呼ばれた台湾でした。


民生局長となった彼は、医者らしく綿密な調査と周到な準備を重ね、多くの困難に直面しつつも、台湾の風土病を減らし、医療制度を段階的に整えていきました。



この時、彼が「この男は将来が楽しみだ」と抜擢し、どんどん仕事を与えたのが、後に「武士道」を著す新渡戸稲造でした。人材育成の名手であった後藤の下には、他にも多くの人材が結集し、薫陶を受けています。


台湾を再建し、独立国並みの福祉制度、産業基盤を整えて帰国した後藤を待っていたのは、関東大震災でした。この、維新後最大の災害から東京を復興させられる男は彼しかいないと、後藤はまたも「東京市長(今の知事)」として再建に携わることになりました。



彼は100年先を見据え、当時の国家予算の半額の金額を復興のために要求します。


しかし、彼が要求した40億円に比べ、実際に支出されたのは5億円でした。当時の後藤の計画を知った国民は、「帝都改造案は後藤の大風呂敷」と本気にせず、他の事業家たちも「それは、いくら何でも大きすぎる」と尻込みし、維新の元勲たちも「君は正気か?」と疑ったほどでした。


そんな中、「後藤さんの計画は、発想が小さくないか?」と、現在の価値にして数十億円になる350万円を私財で寄付したのが、安田善次郎です。この善次郎の寄付が呼び水となって、寄付金が徐々に集まりました。



後藤はその予算を生かして次々と再建案をまとめ、壮大な都市計画を実行していきます。しかも、この間の市長としての給料は、全額政府に返上していますから、本当に使命感や義侠心だけで引き受けていたのです。


新橋、渋谷、丸の内、新宿、六本木、池袋といった、今では全国民が知る名所は、彼が綿密な調査を重ね、地理的事情や可能性を考慮して復興させた町です。



ちなみに、後に東京大空襲で再度壊滅した東京の被害状況を、内務省が地区別にまとめた結果、後藤の計画が「大風呂敷」でも何でもなく、正確な調査と予測に基づいて立てられていたことが分かったそうです。


医者でもあった政治家・後藤新平は、物流や移動だけでなく、火災や水害の予防策も考慮し、日本だけでなく世界中の人々が安心して暮らせる首都を構想していたのです。昭和天皇も、「後藤の計画通りであれば、被害も半分以下で済んだかと思うと、本当に残念でなりません」と会見で述べられています。



この後藤新平を慕っていた実業家の一人が、読売新聞を築いた正力松太郎です。正力は、財政難に陥って先行きが危ぶまれていた読売新聞を再建するため、後藤に資金の相談に行きました。この時に「貸してくれ」と頭を下げて頼んだ金額は、現在の価値で数億円にも相当する金額だったそうです。


正力は、警察官僚時代から妥協しない仕事ぶりが評判で、その人柄や可能性は、後藤もよく知っていました。そんな正力が手掛ける事業ということもあり、後藤は「分かった。新聞経営は新しい事業で先も見えにくいから、この金は返さなくともよい。その代わり、死ぬ気で経営しろ」とだけ言って、当時のお金で10万円を与えています。


正力は、まさか承諾されることはないと思った大金を融資してもらったので、感激して「絶対に読売新聞を再建してみせます!」と誓って、その言葉通り、読売を日本最大の新聞に育て上げました。


しかし、この時の資金は、実は後藤が自宅を抵当に入れて銀行から借りた「借金」だったのです。後藤は、現在のIT事業のように先行きを危ぶまれ、まだ十分な信用が確立していなかった新聞事業の成功を正力に託し、日本の世論が健全に成長するように、自分の信用を担保に資金を集め、代わりに借金をしていたのでした。


後藤が亡くなった後、正力は、自社が倒産の危機にあったあの時、事情も聞かずに自分を見込んで貸してくれた大金が、実は後藤の個人的借金であったことを知り、男泣きに泣いたといいます。


この感動で、「後藤さんのためにも、日本再建に命を尽くす!」と腹をくくった正力に圧倒され、「正力さんには勝てぬ」と言いながらも、広告業を新卒が憧れる仕事に育て上げたのが、電通の名社長である吉田秀雄さんです。また、現在の日本で後藤を心から尊敬し、そのスケールにわずかでも追い付こうと事業を発展させてきたのが、六本木ヒルズでおなじみの「森ビル」社長、森稔さんです。


このように、後藤の人柄と迫力に触れた人は、みんな偉大な人物となって、後世の事業家に大きな影響をもたらす名経営者となっていきました。そんな後藤の処世訓としてあまりにも有名な言葉が、今日の一言である「金を残すは下、事業を残すは中、人を残すが上」です。


巨大都市・東京を創造し、多くの巨人を育てて人生を駆け抜けた後藤新平のスケールに比べれば、堀江さんや村上さんはアリのようなもので、日銀の福井総裁なんかはあまりに器が小さく、見るのもかわいそうになってきます。



この後藤が「事業の師」として仰いだ渋沢栄一は、事業における大切な心がけとして、「入ルヲ計リ、出ズルヲ制ス」と答えています。「いくら入るかを計算し、出る金を抑えることだ」という、あまりにもシンプルな事業観です。


しかし、情報技術が格段に発達した現在においても、「いくら使うか」を計算せず、自分をごまかし、「借金漬け」になって支払いのために一生を捧げる人の、なんと多いことか。



また、安田銀行(現:みずほHD)を創業し、全国の破綻銀行を救済して「再建王」の異名を取った安田善次郎も、「金ヲ集メルハ易ク、散ズルハ難シ」と語っています。「お金を稼ぐのは簡単だが、使うのは難しい」と、こちらもシンプルな事業観です。


平成のこの世においても、使い方が下手だから貧乏になったのに、それでも「収入が増えれば生活は良くなる」、「社会人になれば余裕ができる」と永遠に叶わない夢を見て、破綻に突き進む若者のなんと多いことか。



明治の世にも、「金」を最上とする風潮はあったのでしょう。そして、そういう考え方で働き、事業を起こした人は、思いとは逆の結果に遭遇しました。だから、後藤も渋沢も安田も、「金」を最下位とし、次を事業、最高位を「人」として、多くの人材を見極め、彼が信じられると確信すれば必要な資金を融通し、事業相談にも乗れば、経営支援も惜しまなかったのです。


まだ、アイデアと情熱しかない人物を見て、小さな仕事を任せてみると、ほとんどの人間は「なんだ、この仕事は。自分をバカにしているのか」と手を抜きます。このような人間に「金」や「事業」を残せば、借金と悲劇だけが増え、ろくなことにはならないでしょう。



僕のところにも、お金を貸してくれとか、面白いアイデアを思い付いたと言ってくる若者が、年に数人くらいいます。そういう人には、FUNでも一緒ですが、「じゃあ、○○を試しに100日続けて、結果を報告してくれ」と言うことにしています。しかし、一向に達成しません。巧みなのは言い訳だけで、笑ってしまいそうになります。

そういう人には「1×2は何だ?」と聞きます。
彼はバカにしてるのか、という顔で「2」と答えます。
次に「じゃあ、感動×継続は何だ?」と聞きます。
「え?」という彼に、僕は「達成だ」と答えます。


では、「1×0」は何でしょうか。答えは「ゼロ」です。感動しても行動しない、あるいは継続しない人間は、永遠にゼロです。大学を出ようが、就職しようが、いくら本を読もうが、ゼロ人間はゼロ人間です。ゼロ人間に、「1×2」のような高等な数式が解けるわけもないでしょう。ブログや書評すら、すぐに「忙しい」とか言って投げ出してしまうのですから、それで「アイデア」なんて、笑わせてくれる話です。



しかし、そんな中でも「小さな仕事ができなければ、大きな仕事はできない」と発奮し、猛烈な熱意で些細な作業を仕上げる人物もいます。人は、些細な触れ合いであれ、選び、選ばれているのですから、小さな仕事だからと先延ばしにせず、大きな情熱を持って当たれば、見ている人は見ているものです。


そういう人にお金や事業を託せば、しっかりと引き受けてくれるでしょう。まさに「人が第一」であり、教育は国家百年の大計ですね。



渋沢、安田、後藤の時代は、まだ「業界」といった概念が確立しておらず、銀行や証券市場の制度も、欧米ほど整ってはいませんでした。


しかし、未来を壮大に構想し、社会の改革と国民の幸福のため、正義と情熱に裏付けられた事業を描く若者を応援する仕事はありました。その、渋沢、安田、後藤が個人の資産や見識を発揮して担当した「相談・育成業」を現在の仕組みに当てはめれば、それは「ベンチャーキャピタル(VC)」の仕事でしょう。



まだ顕在化していない可能性を見抜き、社長の人柄や事業手腕を見極め、その構想に心から賛同して、人材、資金、情報、提携先といった必要な「経営資源」の確保・強化を応援するのが、VCの仕事です。


まさに「社長の応援団」の仕事で、M地君は来年の春から、この仕事で奮闘するわけです。また、M川君も、昨日の営業塾でM地君からこういう感じの話を聞いて、燃えてきたのでしょう。



ともに「男気」に溢れるM地君とM川君は、これから一緒にVCや関連業界の取材を進めていくようで、今年は併せてFUNゼミで財務諸表を学ぶこともあり、楽しい夏になりそうです。「男」という字は「田+力」ですから、本来は「何かを耕し、育てる」という役割があるのです。


では、どこに何を植え、どう耕し、どう収穫するか。それは「大学に夢を植え、感動を育て、結果として収穫する」しかありません。先人の姿に学び、未来の大人物たるべく、学生生活に全力を傾けましょう。