■「内定への一言」バックナンバー編


「士たる者、三日会わざれば、相刮目して見(まみ)ゆべし」(三国志)

その①




僕は福岡第6学区のD高校出身です。入学した頃は6期生で、伝統も歴史も知名度もなく、学区最下位の学校で、「行く学校がない奴」、「どうしても公立に行きたい奴」が入る高校だと、入学後に聞きました。



そんな高校では、「バカ」とか「アホ」という言葉があいさつ代わりに飛び交います。ケンカ、タバコは当たり前で、クラスの男子の3割近くが停学経験があり、センター試験の話などは、卒業するまでまず出てきません。まず、センター試験が何なのか、僕は知りませんでした。



授業など、もちろん聞いているはずもなく、先生を「ちゃん」付けで呼び、新任教師をからかい、卒業式の日に公衆電話ボックスに担任の先生を閉じ込めて集団暴行を加えた生徒もいました。禁止されているバイクを持っている生徒も多く、集まれば酒が入り、不純異性交遊も当たり前。



毎年学年から10人近くが退学し、出席日数が足りなくて留年する生徒も。学校はおとなしい人間と不良に二分化され、たびたび学年集会が開かれては、そのたびに罰を受けて坊主にした生徒が増えていました。大学に行く人はおらず、一般入試と言えば停学、評定不足、出席不足、変人が受けるもので、予備校か専門学校に行くか、あるいはフリーターになる人がいっぱいいました。




そんな学校でも友達はいっぱいいて、皆短気でしたが、付き合えばいい人間ばかりでした。社会からは「バカ」、「アホ」と呼ばれていましたが、社会に出れば打たれ強く、営業や販売の分野で猛烈に頑張る人間や、20代で独立した友達もいっぱいいます。



僕も1年までは下から30番目くらいのアホでしたが、2年の時の担任の先生との出会いで、一念発起して勉強するようになりました。その時に心の支えにしたのが、今日御紹介するある逸話です。




皆さんは三国志を読んだことはありますか?男子学生なら、読んだことがあるでしょう。日本人では知らない人がいないくらい、あまりにも有名すぎる歴史物語です。話の筋は誰もが知っていると思うので、説明は省きます。



僕は、小学生の頃に行っていた床屋に横山光輝さんのマンガ三国志があったので、それを数年かけて(全60巻)読み終え、あまりの感動に中学に入ってからは吉川英二さんの小説を買いました。



あの、家庭的にも人格的にも荒廃して人が信じられなかった時期に、この小説を読んだ、ただそれだけのことで、どれだけ救われたことかと今でも感謝しています。




さて、三国志の「三」とは、言うまでもなく魏・呉・蜀の三国を指しますが、その中で東南部に位置する呉の国に、呂蒙(りょもう)」という軍人がいたのを覚えていますか?



三国志の登場人物の中では、おそらく孔明曹操と人気No.1を争うほど優れた人材である関羽を計略によって捕らえ、処刑した人物です。悔しいほど頭が切れ、「上には上がいる」と、歴史の非情さと奥深さを感じさせてくれるあの場面に、どれだけ多くの日本人が、関羽の死を惜しく思ったでしょうか。




その呂蒙、実は「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」と呼ばれ、愚者の代名詞として中国語に残るほど、勉強嫌いで、勉強ができない人間だったのです。



呉下の阿蒙とは「呉の国のバカな呂蒙」という意味です。すぐに頭が熱くなり、興奮すると目先の区別がつかなくなり、すぐに手を出してしまうという気性を責められ、主君・孫権からも、「あいつは強いが、なにせ頭がと言われていました。




呂蒙は、小さい頃から勇猛で正義感が強く、若い頃からその武勇を見込まれて、呉王孫権の武将として取り立てられ、魏や蜀との戦いで活躍しました。




そんな呂蒙、学問の方はからっきしダメ。劉備、曹操、孫権の三人の覇者の中で一番若い孫権は、呂蒙のためにその学の不足を惜しみ、呂蒙を含めた将軍たちに、「諸君らは若い。強い。しかし学がない。もっと学問に励み、心の眼を開いて、国民からも慕われる人間になれ」と訓示しました。


主君からの命とあっては、誰も逆らえませんと思ったら、呂蒙一人が口答えをします。


「私は戦いで常に忙しく、読書などしている暇はありません」。


孫権は間髪入れずに答えます。


「何も学者になれと言っているのではない。少しでも書物を読み、昔のことを知っておかねば、ここぞという時に適切な判断が下せず、自らを損なうのだ。お前は忙しいと言うが、私だって若いころ、詩経、書経はだいたい読んだぞ。



史記、漢書などの歴史書や、兵法に関する書物も読み、今ではずいぶんと役に立っておる。おまえは物覚えが早いから、学問をすれば必ずものになる。孔子様も、われ終日食らわず、終日寝ねず。思えり、益無し。学ぶに如かずと言っておられる。



後漢の光武帝は、戦の中でも書物を手放さなかった。あの魏の曹操も、老いて学を好んだと言っておるではないか。おまえは忙しいから学問ができないのではなく、学問がないから忙しいのだ!言い訳をせず、ただちに勉強せい!



豪胆な呂蒙も、国王から厳しく忠告されては、さすがにかないません。心機一転、優れた書物を読みあさり、短期間集中して、徹底的に学問に励みました。




それから数ヶ月の時がたちました。ある日、呂蒙の友人であり、呉の国の政治のブレーンでもある学者・魯粛(ろしゅく)が、呂蒙と議論を行いました。魯粛といえば、呉では軍事の周瑜(しゅうゆ)と並ぶ頭脳派で、ともに若い孫権を助け、建国の大業を担った人材です。