■「内定への一言」バックナンバー編


「その時は孔孟を捕らえて斬る。それが孔孟の教えだ」(山崎闇斎)





若い頃、あまりに感化力が強い教師や指導者に会うと、その人の教えだけが唯一世の中で正しい真実のような気がしてきて、物事が正常に見えなくなることがあります。



特に、社長にはこの「感化力が強い」タイプが多く、就職活動中の学生が、志望してもいない業界や会社の説明会でカリスマ社長の熱意に触れ、その人の本や推薦図書ばかり買ってしまう、という現象は毎年見られる光景です。



かくいう僕も、皆さんの年の頃は渋沢栄一山本七平にはまりまくり、関連図書は初版年度と出版社を全て暗記しているほど、何冊も読みまくりました。傾倒の中から疑問も生まれ、成長もすることから、没頭するのは悪いことではないと思いますが、行動が伴っていないと、検証する機会も得られません。




さて、江戸中期~後期の日本と言えば、「朱子学」が全盛を極めた時期です。幕府の「お抱え学者」だった藤原惺窩林羅山は、自分が孔子孟子の母国である中国に生まれなかったこと、野蛮で遅れた日本国に生まれたことを一生悔やみ、その考えのまま幕府に「ご進講」を行い、日本人に中華コンプレックスを植え付けました



日本は辺境で、文化的に後進国で、経済も産業も歴史の発展状態も未熟で、とにかく日本には、中華世界に対して誇れるものなど何もなく、漢字に憧れ、儒学を信奉し、社会体制までも中華式にした方がよい。「中華コンプレックス」とは、このような心情を指します。第一志望に落ちた学生が、志望校だった学校を出た人に拭いがたい劣等感を持つような、あんな気持ちです。



時々、韓国の新聞の社説を韓国語の練習も兼ねて読んでいますが、現在の韓国の盧武鉉政権は、韓国史上初とも言えるほど中国・北朝鮮の属国ぶりが顕著で、中華コンプレックスとはああいう政策や報道だと思えば分かりやすいです。




では、わが日本はどうなのでしょうか。江戸中期の属国教育は、なぜ断ち切られたのでしょうか。日韓比較文化論としても、実に興味深いテーマです。僕は今まで十五回韓国に行き、今では各地の方言が聞き分けられるほど韓国語が分かるようになりましたが、一般的な日本人が行きたがるような観光地には全く興味がなく、日本人が行かない史跡ばかり訪れています。



日韓に見られる中国文化の影響や、両国の言語に残る漢字の用法を比較するのが面白いからです。そんなことをあれこれ考えながら、五年くらいかけて韓国を訪れ、この背景を考えるに当たって貴重な示唆を得ました。それは「物語日本史」(平泉澄・講談社学術文庫)の下巻にある「山崎闇斎」の章でした。




伊藤仁斎と並ぶ京都の偉大な国学者・山崎闇斎の塾には、多くの塾生が学んでいました。ここでの教育がいかに本格的で真剣だったかは、同書の中での平泉さんの描写を読んでいただければ分かりますが、闇斎が何よりすごいのは、日本人の中に巣食っていた中華コンプレックスを一刀両断のもとに断ち切ったことです。



孔子や孟子と言えば、儒学の神様のような存在。朱子学を起こした朱熹(しゅき)すら、いかに偉大でも孔子の流れから言えば末端の末端、体で言えば毛細血管の一本程度の存在なのに、江戸幕府はその朱子の学問に圧倒され、日本人としての誇りを忘れかけたような学者が政府の中枢にいたのです。



日本中の若者も、官学である朱子学の影響を強く受け、今でいう戦後民主主義のような風潮に染まっていました。つまり、「日本よりアメリカが素晴らしい。日本語より英語が優れている」といった風潮です。闇斎のいた京都の若者も、例外ではありませんでした。



学ぶ目的は、野蛮で遅れた日本人を、少しでも中華帝国の学問である儒学を通じて文明開化させ、啓蒙すること。多くの教師や若者が、そう信じていました。


想像ができたとしても、思いつく答えは、「それは、孔子様や孟子様が軍隊を率いて日本に来れば、降伏して教えを乞うほかありません」といった程度のものだったでしょう。そんな、答えに戸惑う弟子たちに闇斎が言い放ったのが、今日の一言である「その時は孔子と孟子を叩き斬れ。それが孔子と孟子の教えだ」です。



しかし、著者の平泉さんは闇斎のために長い章を割き、江戸時代の国学者が果たした先駆的な業績を顕彰しています。この頃、日本では国学の芽が生まれ、それが着々と育ちました。



今、日本人の私たちの名前が、韓国のように中国式ではなく、古来の大和言葉に根付いた発音になっているのも、国学者の影響が大きいでしょう。あるいは、聖徳太子菅原道真公にその功績を求めてもいいかもしれません。




韓国人も、統一新羅の時代までは苗字が二文字で、中国にはない姓名を持っていました。「乙支文徳(おっし・ぶんとくウルチムンドク)」や「鬼室福信(きしつ・ふくしんクィシルポクシン)という人名を韓国人なら誰でも知っていますが、高麗以降は中国人のような名前になっています。



反対に、日本人は「弥次郎兵衛」や「田吾作」のような名前だったかもしれませんが、いつまでも日本式を守りました。別に、このメルマガで政治や外交談義をしようというわけではありません。僕はただ、両国に同時期に見られた思想や文化の摂取の差異が、両国の気質を表していて面白いと思うだけです。



そして、その背景に、「大事なことは外国から学んでも、その根幹には自分という存在をしっかり持っておけよ」と叱咤した先覚者がいた日本の歴史ってすごい、と素直に思います。



影響を受けるのも立派な才能ですが、受けっぱなしになって自分で考えないようになっては、元も子もありません。



ちょっと、就活にしてはスケールの大きい話になってしまいましたが、受け入れるのも、斬るのも、戦うのも、同化するのも、全ては自分次第。大事なことは、全て本質が共通しているものですね。



皆さんも、受け売りではなく、学ぶほど自分を顕在化させるような学問をやっていきましょう。

朱子学や陽明学、国学に通じていた闇斎は、そんな「無言の呪縛」に縛られた弟子たちを前に問いかけます。「それでは、おまえたちは、孔孟の軍隊がわが日本に攻め入ってきたら、一体どうするつもりなのだ」。弟子たちには、そんな大それた想像はできません。
「正しいと信じる道は、たとえ相手が誰であっても譲ってはならぬ。それが日本人だ」と教えたのです。闇斎のこの優れた見識は、長い歳月をかけて日本全土に広まり、明治維新の原動力の一翼を担いました。藤田東湖の水戸学佐久間象山吉田松陰の学問も大きな貢献を成し遂げましたが、それより前に亡くなった闇斎のことは、あまりにも知られていません。