■「内定への一言」バックナンバー編


「これから聖人のお話を聞くというのに、

殿様はまだ、座布団を敷いておられる」(伊藤蘭嵎)




資料・史料の収集に凝ったことのある人は、「佚存書(いつぞんしょ)」という言葉を聞いたことがある方も、いるかもしれません。これは、「故国では原書が焼失・喪失したが、隣国や他国に原典や複写が残っている書籍や史料」という意味です。



日本はその「佚存書」が多い国で、中国や韓国で焼失・喪失した史料でも、日本では精密かつ正確な複写が残っている、という事例がたくさんあります。日韓の国民性を対比して言われることが…。




日本人は何かあった時に、緻密に記録を残そうとする。後の証拠として役立つからだ。

韓国人は何かあった時に、必死で記録を消そうとする。後に証拠になると危険だからだ。




というもの。中国も焚書・坑儒」や「文化大革命の国で、貴重な歴史の記録を自ら葬り去って、文字や歴史を現体制の都合がいいように書き換えてしまう国柄。日本は、西欧の文学の翻訳もそうですが、世界一史料が完備した国といってよいでしょう。



なにせ、太古の昔から、皇族の方々から名もなき平民たちが同じ作品集で和歌を詠み、文学の勃興が「日記」によって起こった国です。現代では「ブログ」というハイテク日記がブームですが、これも、わが日本のお国柄なのかもしれません。あとは、日本語自体がもっと世界で普遍性を持つことが課題ですね。




そんな日本で、儒学の研究が本場・中国よりも進んだ時代がありました。江戸中期~後期です。この立役者が、中江藤樹伊藤仁斎です。この二人が「学者」という職業の権威を武士や商人以上に高め、「研究=道を極める営み」にしたと、渡部昇一さんは『新常識主義のすすめ』(文春文庫)で書いています(P一九一~二○三「ファカルティの憂鬱」所収)。




当時の御用学者となった人々は、地方で名が聞こえるようになると、江戸幕府(今なら文部科学省や東京大学)から声がかかり、「権威(ブランド)」のために平気で「独立自尊の気概」を捨てた人たちばかり。神童と恐れられた林羅山も、その例にもれませんでした。




つまり、「税金」によって食べる身分になり、「幕府の~」という肩書を手に入れると、途端に研究がつまらなくなった、と渡部さんは言うのです。このような学者の「転向」の国際比較を同書では試みていますが、実に面白い指摘に溢れています。



しかし、この例に入らなかったのが、中江藤樹と伊藤仁斎だ、と書いています。京都で儒学を講じ、仁斎の見識と人格の高さが江戸の都にも聞こえるようになった時、当然、幕府はその名声が将軍の権威を超えるのを恐れて、幕府に召し抱えようとしました。今なら「民間人を内閣に起用しようと、総理大臣が声をかける」といった感じです。




仁斎のような「当代随一」と言われていた学者への待遇は、それこそ「信じられないような破格の待遇」でした。石高を十石から千五百石に増額するというのです。「石」というのは、人間一人が一年間に食べる米の量ですから、「五十二万石の黒田藩」といえば、「五十二万人が一年間生活できるだけの米を持っている黒田藩」、という意味です。



仁斎は当初、「十石」。つまり、十人の部下を食べさせる程度の規模で、細々と教えていたのです。その十人の中には、息子の東涯(とうがい)や有望な弟子たちが含まれていました。幕府はそんな仁斎に、「給料を一五○倍にしてやるから、政府に来い」と誘いをかけたのです。「おまえも一五○○人の部下を持ち、大集団のボスとして、権力と権威を手に入れないか」というわけです。




しかし、仁斎は即座に「断る」と返事しました。弟子の数は十人とはいえ、仁斎がこれはと見込み、手塩にかけて鍛え抜いてきた若者たちです。それを裏切って、幕府が用意した一五○○人のあぶれ者(今ならヒマを持て余している公務員)を、なぜ養わなければならないのか、というわけです。幕府は驚きました。誘惑を断るような地方学者は、初めてだったからです。



その後も再三誘いをかけるも、仁斎の返事は変わりません。幕府は「頑固な奴だ」と言い、ついに誘いを諦めました。仁斎は、何より「自由に考える境地」を保ちたかったのです。給料や権威は問題ではなく、彼の望みはただ一つ。「自分が極めた学問の本質を、若い弟子達に確実に託し、死ぬこと」です。



彼はその意思を最後まで貫き、一五○○人の主人となるより、田舎で数十人の若者の教育と研究に打ち込む「学者」としての人生をまっとうしました。素晴らしい人生です。




その息子・東涯も「父を超える俊才」と世間から高い評価を受けますが、幕府や権力者の誘いには、一度も乗ることはありませんでした。田舎の個人経営の学習塾に「東大と提携しないか」と誘いがあった時のことを想像してみて下さい。あなたは誰も名前を知らないような、地方大学の出身。「東大」と聞いたら、自分もそこにあやかりたいようなミーハーだったとします。「千載一遇のチャンス到来!」と喜んで、自分の塾の看板や生徒を売り渡し、名誉欲丸出しで篭絡されるかもしれません。



しかし、東涯も父・仁斎の教えを守り、仁斎の極めた学説を受け継いで、さらにその解釈を発展させ、塾を発展させました。数多くの弟子たちの中でも、特に有望で有能だと一目置かれるようになったのが、東涯の五男(仁斎の孫)である蘭嵎(らんぐう)でした。




蘭嵎は、十歳になるかならないかのうちに四書五経をそらんじ、父や祖父が残した学問の本質を悟るようなセンスを見せ、その将来を嘱望される子供でした。そんな蘭嵎の評判を聞いた紀州藩主が、「仁斎の孫とやらの講義を、一度聞いてみたいものだ」と、十五歳の少年を招いた「御前授業」を持ちかけました。



召し抱えられるわけでもないこの提案は、伊藤家の家訓に触れるような性質のものでもないため、蘭嵎は紀州(和歌山)まで出向き、藩主(県知事・方面軍の将軍)の前で儒学の講義を行うことになりました。




蘭嵎は紀州城に入り、藩主の待つ部屋を訪れ、深々と一礼して、御前に進み出て座りました。藩主は「どれ」と言いながら座り、その少年を見つめます。



蘭嵎はまだ講義を始めません。

藩主は「さては、緊張して忘れおったか」と感じました。しかし、待ちます。

蘭嵎はまだ講義を始めません。何かに耐えているような表情です。

藩主は「無理もない。まだ十五の子供じゃ。このような場に来ることだけでも、緊張することじゃろうて」とのんびり構え、少年を見つめています。



しかし、しびれを切らした藩主は、「おい、講義はいつ始まるのじゃ」と聞きました。

蘭嵎は一言、藩主に申し上げました。



「これから聖人のお話を聞くというのに、殿様はまだ、座布団を敷いておられる」




藩主と側近たちは、十五歳の少年の目つきと表情にドキッとし、慌てて座布団を外して座り直し、気まずそうに蘭嵎に対面しました。そこで蘭嵎は、やっと講義を始めました。その内容たるや、場にいる全ての者が「なんと素晴らしき講義であることか」と感嘆せずにはいられないような、代々語り次がれる講義だったとのこと。



「この親にしてこの子あり、と言うべきか」と、渡部さんはコメントをつけています。そして、祖父、父、息子の代にわたって受け継がれた伊藤家の学問は、幕末の時期を迎えて藤田東湖佐久間象山、山崎闇斎などの学問とミックスされ、何百、何千、何万、何十万、何百万という人々を動かす「国学」として歴史を動かしました。



もし仁斎が、権威に屈して高々一五○○人の主人となっていたら、こういうことにはならなかったでしょう。伊藤家の誇り高く、競わず、誇らず、ただ自分に与えられた使命を貫く生き方は、日本全国の庶民が憧れ、尊敬し、見習うべき「学問への姿勢」となって定着し、教育を国家的大事業と位置付けた明治維新で、優れた教師が多数輩出される裏付けとなりました。




「かわいそうな生徒に勉強の面白さや生きがいを与えたい」と、現代の教育改革ではよく叫ばれます。しかし仁斎は、「教える者」を教えたのでした。



それが三代、約七十年にわたって続けられ、一つの体系付けられた学問が完成し、後世の教育者たちは、「伊藤仁斎先生、中江藤樹先生、吉田松陰先生のような、偉大な教育者になりたい!」と情熱に燃え、子供たちを教育していったのでした。



そうして育てられた子供たちが成人し、時代をリードした幕末・明治初期、どのような政治家・実業家・学者となったかは、今さら触れるまでもありません。




アインシュタイン「学校で学んだことを全て忘れた後に残っているものが、本当の教育だ」と言っています。学問はどこにいてもできるもの。大学を卒業したら勉強は終わり、というわけではありません。



事実、勉強しない人は、他のもっと勉強した人たちに支配されるのが世の常。仁斎・東涯・蘭嵎は、時の将軍や御用学者よりも深く、長く、広く、この日本という国の可能性や若者の素晴らしさを愛し、信じ、希望を託したのです。



学生の皆さんも、自分が語る内容には、ぜひ絶大な自信を持ってほしいです。そして、学んでいることを聞かれたら、ぜひ大きな声で動機と目標を語りましょう。あなたが自信なさそうに答えたら、相手も「なんだ、大したことない勉強してるなぁ」と見くびります。なめられるのは、あなたのせいです。相手が横柄なのではありません。



自分にプライドがない人間は、自分から軽蔑や嘲笑を招いているのです。 絶大な自信を持って、相手がどんな顔をしようとも、「やる」、「できる」と言い続けてみて下さい。根負けした相手は、「一体、この人をここまでさせるものとは、何なんだ?」と畏怖し、興味を持ち、尊敬します。そうなったら、全てのコミュニケーションは、話す前に「勝ち」です。



面接でも営業でも商談でも、そういう愛情や自信を備えていることは、パソコンや商品知識よりも、ずっとずっと強力なものですよ。




だから、まだ内定をもらっていない方がいたら、先に内定をもらった人が「どうしよう私、そんなに自信があって選んだわけじゃないよ」と不安になって焦るくらい、堂々と納得できる内定をもらいましょう。単なる内定など、ゴミです。ただ頑張って得ただけの内定など、数ヵ月後は後悔と迷いの種になるだけ。



苦しみ、迷い、何度も自分の不足や落ち度を見せ付けられて、そうして悟り、一切の迷いを断って「これが私の仕事だ」と心から同意できる内定こそ、価値があるのです。読者の皆さんは、そういう内定がほしくて、僕のメルマガを申し込まれたのだと思っているので、今日は「学ぶ者の誇り」についてお話しました。



感動の仕事は、感動の内定から始まります。就活は「最初の仕事」ですよ。「君は面接の時から違っていたよ」と言われるのは、楽しいものです。