■「内定への一言」バックナンバー編
「この世に誰かがやらなければならないことがある時、
僕はその誰かになりたい」
その昔、PKO(Peace Keeping Operation:国連平和維持活動)というのがあったのをご存知ですか?
湾岸戦争で一兆二○○○億円の戦費を拠出したにもかかわらず、「兵隊は出さないのか。カネは出すから代わりに死ねというのか」と反発を浴び、クウェート政府の感謝決議から外された日本政府は、それ以降、多大な制約を取り払い、国連の活動に参加するようになりました。
今のイラク派兵などは、当時の価値観からすれば、画期的な前進です。
さて、カンボジアも九十年代は、ポルポトというテロリストが政権を掌握し、政治、経済ともに大変混乱した状態が続いていました。そのカンボジアで初の民主的選挙をやろうと、九四年にPKO活動が行われることになりました。
なんせ、国民の三人に一人を虐殺し、商売、教育、行政に従事する人を殺害するか田舎に帰すかし、「帰農」政策でカンボジアを極端に原始共産社会に戻そうとしたポルポト政権ですから、常識的な話は通じません。国民は政府を怖がり、密告制度やスパイが国中に広がっていた当時のカンボジアでは、政治や社会について論じることさえ、不可能でした。
そんな国で、果たして選挙などができるのか。カンボジアを複数の行政区に分け、それぞれの地域に国連の監視員が派遣され、民主的な選挙が執り行われるよう、細心の準備が進められました。
カンボジアでも特に治安が悪く、社会的な発展が遅れていたコンポントム州に、小さな村がありました。そこに派遣されることになったのが、大阪大学医学部を卒業し、アメリカの大学で政治学を学んできた二六歳の青年、中田厚仁さんでした。
大阪大学の医学部を卒業し、将来を嘱望されていた中田さんは、周囲から羨ましがられるような進路を捨て、「自分のためだけに生きていいのか」と自問した結果、アメリカに留学することを決意しました。そして、そこで学んだ政治家の姿に、大きな刺激を受けたのでした。
帰国後、中田さんは医者の道を捨て、途上国で発展に尽くす人生を選び、国連平和維持部隊に志願します。「馬鹿じゃないか」、「やめとけ」、「食っていけるのか」、「せっかく医学部を出たのに」という周りの制止を振り切って、父・武仁さんが「おまえが信じる道だ。やり抜け」と言ってくれたのを支えに、中田さんはカンボジア行きを決意しました。
「この世に誰かがやらなければならないことがある時、僕はその誰かになりたい」と言って。
さて、たどり着いたカンボジアの治安状況は、聞きしに勝る悪さでした。その中でも、最も治安が悪い州での活動を志願する人は、さすがに多くはいませんでした。選挙なんて、聞いたことも見たこともない、第一、政治に関わる行為をやって、後で殺されはしないか…。そんな不安を持つカンボジアの人々に希望を与えるため、中田さんはコンポントムでの活動に志願したのでした。
厳戒態勢の下、選挙の準備が着々と進められ、中田さんはたどたどしいクメール語で、この選挙が持つ意義を人々に説き続けました。そんな彼の姿に支えられ、村の人たちは一人、また一人と投票に行くことを誓い、そして、投票日を迎えました。
投票日は、テロリストがコンポントムで国連部隊の暗殺を計画した日でもありました。中田さんが投票所で村人達の姿を見守っていたその時…ゲリラの銃弾が中田さんの胸を貫通し、中田さんは思い半ばに倒れます。遺言は無線で仲間に状況を伝えた際の、「I'm dying…(やられたみたいだ…)」だったといいます。
一人の日本人青年が命を捨てて希望を広げた村の名は、中田さんの勇気と挑戦を称え、その事件の後、村の名前を「ナカタアツヒト村」と改称されました。しかも、村の投票率は、カンボジア全土で第一位だったとのこと。この後、日本のマスコミがどういう扱いをしたかは、ここでは触れませんが、僕の世代が高校生だった頃は、けっこう話題になった実話です。
さらに詳しく知りたければ、父親の武仁さんが本を出されているので、もし国際交流や途上国支援に興味がある方は、読んでみたらよいでしょう。
あなたの周りで、誰かがしないといけないことは、何ですか?それは、誰かがやるまで放置されてもいいことですか?あなたじゃ、ダメなんですか?「やりたいこと」ではフラフラするばかりですが、「せずにはいられないこと」だと、余計なことは気にならなくなります。
そういう決意で人生を生きられたら、どれだけ生きがいに溢れた人生になるでしょうか。今日は、forFUN第二号の巻頭提言で紹介したお話を、二年ぶりにご紹介しました。