■「内定への一言」バックナンバー編


「完全に屈服したら、人は恐怖を認識しなくなる」(アラン)


福大のEさん、ANAの客室乗務員の内定、本当におめでとうございます!冬からみんなと頑張ってきた成果が実り、素晴らしいです。これからはぜひ、サークルで後輩たちに貴重な経験を伝えて下さいね。楽しみにお待ちしていますよ。そう言えば、皆様。最近トマトジュースが減ってきたような気が


さて、今日は韓国語塾の終了後、赤坂で筑女のAさんとお話しました。雇用問題や福祉の分野に温かい関心を寄せるAさんは、「思い立ったら即連絡」で、どんどん質問をぶつけてくる姿勢にいつも感心しています。Aさんのような若者が社会で経験を積み、雇用の分野で活躍したら、きっと日本が明るくなるだろうなと思いながら、東京で考えたことや最近の選考についてお話を聞きました。


1時間ほどの話が終わった後は、西新でkumamotoさんとミニ会議だったため、あまり時間を取れずに今日はお別れしたのですが、帰り道は「夏の学生」について色々思いをめぐらせました。Aさんはそうではないのですが、FUNで例年、一番入部希望者が多いのは秋です。「夏休み、色々やるぞ!」と思っていたのに、いざ後期を迎えて何も変わっていない自分に愕然とし、見学に訪れる学生さんが多いようです。


あるいは、部員の皆さんに聞いてきた限りでも、春までは切迫感があったのに、夏になると「自分なり」という名のスローペースに切り替える学生さんも、たくさんいるようです。それにしても、僕が毎年、この時期になると思い出すのが、「春とは別人のようなだなぁ」と感じる学生さんがちらほらいる、ということ。


どう別人かと言うと、「当たり前のレベルが下がった」という変化です。周囲から就活や試験の話題が消えるからでしょうか。あるいは、単純に夏の暑さのため、そう思うようになるのでしょうか。


しかし、社会人の立場から見ると、さらに力を入れなければ結果も覚束ないであろう時期を迎えて、明らかに「今じゃなくてもできること」を日常に増やし、試練と向き合おうとしない態度を歓迎するのは、どうしたことかと思います。



もちろん、そうじゃない立派な学生さんがたくさんいるのも、知っていますよ。でも、学生が毎年、いつの時期も「5月病やん」、「もうすぐ前期試験やし」、「もう夏休みやけん」、「まだ後期始まって間もないし」、「後期試験があるし」とか言いながら作業を引き延ばし、その実、一人の時間にほとんど成長していないケースが多いのも事実でしょう。


多分、そう言うようになる前は、何らかの目標や計画を持っていて、それを達成する意気込みもあったはずだし、堕落した生活だけはしないぞ、などと戒めの気持ちを持っていたはずなんです。でも、会えば「忙しい、忙しい」とは言いながら、本当に忙しいなら、何かに熱中していてそれなりの自信もできていいはずなのに、いつまでたっても自信が見受けられないのは、ちょっと不思議です。


「学生って、付き合えば付き合うほど、不思議な人たちだなぁ」と、僕は交流の長い外国人や企業経営者と比べて、むしろ年下の学生さんたちの考え方に色々と推測を巡らせてしまいます。そんなことを考えながら、「そっか」と思い当たったのが、本メルマガでも何度か紹介したことがあるフランスの教育者・アランの「完全に屈服したら、人は恐怖を認識しなくなる」という言葉でした。


これは、人間や人生に対する深い洞察を集めた「定義集」(アラン/岩波文庫)の「あとがき」に収録されている言葉で、若者の人生にも当てはまる言葉だと感じます。


「完全に屈服したら、人は恐怖を認識しなくなる」

どういうことなんでしょうか。ちょっと考えてみましょう。

例えば学生さんは、入学した時や学年が上がった時など、明らかな節目が自覚できて緊張感や意欲がみなぎっている時は、「今年は資格の勉強を頑張るぞ!」とか、「ダイエット目標5キロ!」、「TOEIC200点アップ!」などと自分でも言っています。3、4年生の方であれば、前半の学生生活の反省や気付きを踏まえて、「今年は全部単位を取るぞ」、「前期はちゃんと復習をしよう」、「バイトで貯金しよう」とか言っていたりします。


そういう行動を「今年の予定」に入れて、将来を漠然とでも忙しく、しかし同時に充実の予感を持って展望している時は、とても愉快で気力が満ちてくるでしょう。なにせ、「今年の自分は、去年とは違うんだ」という宣言を、自分自身に対して行っているから。どう違うかは分からなくても、とにかく「良くなること」だけは間違いない。


だから、その決意が持続している間に、何かをしようと考えます。もちろん、そう思っているからには、「去年のまま」か「去年以下」であることは自分が許さず、そうなることには恐怖すら感じます。


「去年は飲み会で1年を棒に振ったから、今年は控えよう」、「取れていたはずの単位を2つも落として苦しかったから、今年は先取りで頑張ろう」、「お金を使いすぎて苦しかったから、今年は計画的に貯金しよう」。このような希望が心を支配している時、「飲み会」、「落第」、「貧乏」を予想することは、恐怖の対象になります。


何が何でも、あの虚しさや悔しさだけは味わいたくない。自分はきっと成長できるはずだ。だって、「今年は違う」んだから


ところが、思い立った行動の最初から手を抜いてしまい、「まあ、まだ4月だからいいか」とか、「1回サボったって大したことない」、「iPodくらい買ってもいいか」とか言っていたら。はや、5月が迫って来ました。


いかんいかん、今年の自分はこんなはずじゃないんだ。授業をしっかり聞いて、バイトで貯金しないと。「でも、連休明けでいいか。景気付けに、ケーキバイキングにでも行こう」。


そして、連休が明けました。周りは「5月病」とかいう都合の良い症状に自分を当てはめては、被害妄想を楽しんでいます。「みんな、先月とは表情が違うなあ。でも、自分は頑張るんだ!去年みたいにはなりたくないから」と思いながら、友達と話すと、なんだか悩んでいるようです。「じゃあ、カラオケにでも行こうか?」と友達を誘い、先月に続いてまたしても、お金と時間を浪費してしまいました。


そうこうするうちに、試験が近付いてきました。振り返ってみれば、ノートも十分に取れているとは言いがたい状況です。このままでは、去年以下の下流生活に突入しかねません。


「いかんいかん、どうしてこうなってしまったんだ。今年の私は違うはずなのに」。と、こんな自問自答を繰り返しながら、結局見えてきたのは「去年と同様の怠慢を達成した自分だけ」ということになり、この学生さんは「後期は頑張るぞ!」と思いながら、夏休みに突入していきましたおしまい。



現在、僕の上下の世代で、社会の底辺でボウフラのように浮遊し、「金なし・時間なし・信用なし」の三冠王を達成している人間は、大体上記のような行動パターンを、学生時代から熱心に培ってきた人たちです。


25歳を過ぎた頃から、「今年は頑張ります!」と言った途端に、「はいはい、うるさいって言ってるの。聞き飽きたから、やってから報告しに来い」と、社内からも社外からも、全く当てにされていない社会人です。2、3年前は、まだ健全な自己成長意欲も持ち合わせていて、堕落や停滞を恐れる青年らしい危機感を持っていた若者が、一体どうして、このような短期間で「お荷物」になってしまったのでしょうか。


「5歳で神童、15で秀才、20過ぎればタダの人」という言葉がありますが、若者は成長も早い反面、堕落も恐ろしく早いものです。「吸収力」や「行動力」は、確かに他の世代よりも豊かに備わった世代でしょうが、それは「悪い要素」にも適用される資質です。


つまり、堕落や停滞も他の世代以上に吸収して、我が物にしてしまいやすいのです。「少年老いやすく、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず」と言い古されてきたゆえんです。


このような若者特有の心理を考えるのに、冒頭に紹介したアランの言葉は貴重な手がかりを与えてくれます。


「頑張るぞ!」と思っていた頃は、自分を誘惑する全ての遊びや経験を「恐怖」として遠ざけていた若者も、「まだ春のウォーミングアップ中だからいいか」とか都合の良い理由をつけて、ちょっとでも決め事を延期したり、ハードルを下げたりすると


あらあら。自分が「二度と味わうものか」と恐れていた恐怖は、そんなに怖いものではありませんでした。「やっぱり、お菓子っておいしい」、「たまにはカラオケでストレス発散しなくちゃ」と息抜きの効用を再確認し、決意はまたもや、未来に引き伸ばされてしまいました。


一度崩れたら、若者が腐るのは「夏の魚」のように早いものです。二度目、三度目と、疲れてもいないのに歯止めなく「息抜き」や「延期」を許した結果、何もしていないことに疲れてさらに遊びが加速し、1~2ヶ月もたつと「自分が春に何を考え、何を恐れていたか」すらも思い出せなくなってしまいました。要するに、自分を目標に向かって良い方に規制する要素が、消えてなくなってしまったわけです。



つまり、自らが描いていた「恐怖」に対し、この学生は自らの意思で、完全に屈服してしまったというわけです。


恐怖の本当の恐ろしさは、恐怖が本当に自分を支配すると、実は怖くも何ともなく、かえって「心地良い」とも思える点ではないでしょうか。恐怖は、それを味わう前と、後で振り返って自覚した時にのみ「怖い」と認識できるもの。そう考えると、認識できるうちはまだ「恐怖」ではありません。恐怖に自分の魂を売り渡すと、まるでメフィストフェレスに人の心を売り渡したファウストのように、自分が何を言っているか、やっているかが分からなくなります。



「怖かったものが、消えてなくなった」というのは、克服したのでも挑戦したのでもなく、実は恐怖に心を食われ、人格と行動が完全に支配されてしまったということです。要するに、自分の作り出した恐怖に洗脳されたのです。


そして、「別にこれでもいいじゃないか」、「自分なりでもやっていけるじゃないか」と安心して暮らしている時にこそ、腐敗と後退が着実に進行していくというわけです。「完全に屈服したら、人は恐怖を認識しなくなる」とアランが見抜いた腐敗の原理は、こういう仕組みだったんですね。


営業マンでも、「契約が取れないこと」を最も恐れていたのに、取れないことが当たり前だと屈服すると、みるみる卑屈な人間に成り下がっていきます。経営者でも、「借金経営」を最も警戒していたはずなのに、一旦借入を行ってしまうと、借金がなければ経費が払えないような社長に成り下がってしまいます。


こうなれば、「契約ゼロ」や「借金漬け」は、もう怖くありません。なぜなら、その恐怖に心の底から支配され、恐怖と現実が一体同化してしまったからです。


毎年、一体何万人の前途有為な学生が、自分が描いた恐怖の前に膝を屈し、「秀才凡人お荷物」という「下りのエレベーター」に乗り換えていることでしょうか。しかも、本人だけは「上りのエレベーター」と呑気に構えている点が、最も恐ろしく皮肉な点です。上がっているように錯覚するのは、自分の停滞を認めたくないため、「さらに下の人」を探して満足しているからに過ぎません。


さらに言えば、挑戦している人や成長している人が、もはや視界の中に存在しないのです。こうなれば、退化のメカニズムは完成したと言ってもよいでしょう。あとは時間の経過に任せるだけです。

「みんな、就活が不安だって言ってます」。
「私の周りは、まだ誰も始めていません」。
「友達も志望業界が決まっていません」。


そりゃ、そうでしょう。1年の頃から何度、決意しては中断し、投げ出してきたことでしょうか。高校生の頃から成長していなければ、受験より何倍も悩む就職が「恐怖の対象」になって当然です。

25mしか泳げない能力のまま入学して、次は50mだと言われたら、それは不安になります。そして、周りと似た不安を持っていることにだけは「安心」するという奇妙な心理。何がどうなっているのでしょうか。


こういう環境が当たり前になれば、一緒に就職を恐れ、一緒に未来を遠ざけ、一緒に恐怖に屈服するのは、時間の問題でしょう。屈したら、またいつか味わったような安心感が訪れるだけ。その瞬間こそ、さらに後退が加速する時です。


これを「国家的損失」と呼ばずして、何と呼べばよいのでしょうか。「たかがサークル」と、友達に物好き扱いされながらも、学生さんを必死で応援したくなる理由は、この「青年腐敗の構造」を少しでも食い止めたいからです。


今、皆さんは何が不安ですか?恐怖はありますか?もしそれらを認識できているなら、今のうちが行動のチャンスですよ。屈したら一巻の終わりです。何でもいいので、「明日やること3つ」を書いて、達成しましょう。


「決めて、やる」を繰り返せば、必ず自信が溢れてきます。学生は、恐怖を征服する力も十分に持っています。毎年夏になると、FUNでいつも若者の可能性を感じているので、僕はそう断言できます。

最初の誘惑に屈した時は、「いかんいかん、こんなはずじゃない」と、まだ健全な自己抑制の気持ちが働きました。しかし、二度三度と繰り返すにつれ、自分が恐れていた停滞や後退がそれほど辛いものではなかったと思い込み、「これでもいいんじゃないか」と、自ら進んで「一番受け入れたくなかった未来」に飛び込んでいきました。