■「内定への一言」バックナンバー編


 「かっこいい言葉で自分を飾る人よりも、

 当たり前の言葉がかっこよく聞こえる人になろう



 人生には、求めていればものすごい幸運があるものです。渡部昇一さんが「続・知的生活の方法」(講談社現代新書)の第4章、「知的独立について」の中で紹介していた「人生と財産」(本多静六日本経営合理化協会出版局)が、な、なんと!早良区のブックオフに売っていました。しかも、定価9,800円のところが、半額の4,950円!幸運に感謝し、迷わず購入しました。さらに、主要著作の「私の財産報告」に加え、今では「国会図書館でしか手に入らない」とまで言われる、「私の体験社会学」「人生設計の秘訣」の二つの続編を含んだ、「三部作・完全版」



 「本多静六」と言っても、知らない人が多いでしょうから、簡単にご紹介します。



 本多博士は1866年に埼玉に生まれ、11歳で父を失い、百姓仕事をしながら苦学。19歳の時、東京農林学校(現在の東京大学農学部)に入学します。しかし、「一家の誉れ」とされた努力家も、家計を支えながらの学業で落第を経験。「母に相済まない」22歳で投身自殺を図るも、神のご加護か、奇跡的に一命を取り留めます。


 それからは一念発起し、日本とドイツの大学を卒業します。のち、25歳で東大助教授になり、生涯の著書は370冊を超える学者になりました。その本多博士が成し遂げた、日本の歴史始まって以来の偉業は、初めて「学者で富豪」になったことです。40歳で総資産は100億円になり、日本のためを思って全額寄付。その資金は明治神宮日比谷公園国立公園の建設資金となりました。



 独創的ながら、経済原則を完全に掌握した本多博士の財政・金融手腕は、「日本資本主義の父」と呼ばれる大事業家・渋沢栄一に認められ、また、79の銀行を破綻から救い、近代産業史を鮮やかに彩った銀行王・安田善次郎からも評価されます。博士は若くして、日本経済の基盤を作った二人の大実業家の「財政顧問」となり、土地や不動産、株式、債券、事業育成などの分野で、数々の先見性あふれる、本質的な助言を行いました。



 のち、1950年になって、博士は苦学しながら身に付けた経済哲学を「私の財産報告」として、実業之日本社から出版。新聞連載から始まったこの企画は、読者から異常な反響を呼び、「日本史上最高の投資家」と呼ばれる江戸時代の本間宗久と並んで、「本多哲学」が日本中を席巻しました。



 現在、証券会社や先物取引会社が使っている「業界用語(隠語)」は、そのほとんどが本間宗久の造語で、野村證券の創業者・野村徳七「野村證券・創業の精神」広瀬仁紀三笠書房も、宗久の教えを若い頃に学んでいます。(棋士・米長邦雄さんが著作で宗久を紹介していますよ「米長流・株に勝つ極意」サンマーク出版。そして、近代になって、不動産や株式投資の仕組みを初めて国民に分かりやすく説明したのは、本多博士の業績です。



 「お金」を語ることを忌避し、江戸時代の「商売は卑しい」という価値観を引きずっていた日本人は、本多博士の著作によって、経済的成功を人生の目標の一つに加えることができるようになりました。名誉ある帝国大学の教授が「お金の作り方、貯め方」について語ることは、内容以前にそれ自体が、画期的な出来事だったのです。



 東京証券取引所や日本商工会議所、第一国立銀行、東京海上火災保険、一橋大学、王子製紙、聖路加国際病院を創設した渋沢栄一に「経済道徳」の現実的処方箋を書き安田銀行(後の富士銀行、現:みずほ銀行)を創業して多くの基幹産業を育成した安田善次郎に財務戦略を提供した「日本初の経済のお医者さん」が…1950年、日本国民のために「お金」について語った記録が、「私の財産報告」です。この本は、日本を代表する有名企業を創業した実業家たちが争って読み、青年期の志を形成するのに多大な影響を与えました。


 

 「お金を稼ぐノウハウ」と言えば、「増刷300回」という怪物ベストセラー「ユダヤの商法」(藤田田KKベストセラーズ/1972が有名です。同書は、ソフトバンクの孫さんが高校時代に読み、あまりの感激に羽田空港まで押しかけ、7回目のチャレンジでやっと、日本マクドナルド本社の藤田さんに会わせてもらった、というほどの本です(※絶版。小島は3冊所有)。孫さんが藤田さんのアドバイスを受けて、家電事業ではなく、コンピュータ事業をやると決意したのは、有名な話です。


 

 その「ユダヤの商法」より30年も前に、かつ詳しく、志ある国民全てが経済原則を学べるよう書かれた本多博士の伝説的名著は、続編として「私の体験社会学」、「人生設計の秘訣」も刊行され、購入した人は家宝のように扱い、大成功を収めた実業家たちが「門外不出の秘伝」として保持し続けたといいます。


 というところまでは、僕も知っていました。それで、いつも古本屋に行くたび、「どこにもないなぁ。あったらいくらでも買うのに」と悔しい思いをしてきたのでした。その本が昨日、こともあろうに、春から開講予定の「FUN・マネー塾(仮称)」の題材を探そうと思って何気なく寄ったブックオフに、5,000円で売っていたのです。大きな声では言えませんが、今日はお店に着くまで、全ての信号が青に見えました


 

 帰ってきて、ざっと一読してみると。5~6年前にヒットした「金持ち父さん貧乏父さん」(ロバート・キヨサキ/筑摩書房)が、まるでアリか団子虫のような本に思えるような内容です。渡部昇一さんも、書中で50歳を迎える今、本多博士の書かれたことに、一つも間違いがないのがよく分かる」と書いていますが、本当にそれくらいすごそうで、今日は眠れないのではないかと心配です。読み終わったら、やる気のある学生さんと一緒に、ぜひ、この絶版の歴史的名著を読みたいと考えているので、春を楽しみにしておいて下さいね。



 また今日、本書を見た学生さんたちが口を揃えて言っていたことが、「字が大きい。文が読みやすい」ということでした。どの道にしろ、頂点を極めた人ほど、「使う言葉が簡潔なのに内容は深い」のは共通しています。



 25歳で立てた人生の目標を達成するため、毎日毎日、自分に課した日課をこなし続け、貯めた財産は全て「お国の将来のために」と気前良く寄付した本多博士。どの道を行くにしろ、決めて続け、達成してもなお謙虚な生き方は、最高にかっこいいと思います。そういう人が発すると、普通の、ありきたりの言葉でも、カッコよく聞こえます。



 翻って、生き方や自分に自信がない人ほど、カバンや車などの所有物や、所属する学校などのステータスが高いと、自分までランクが上がったように錯覚し、言葉までも難解でかっこつけたものを使いたがります。



 今日の一言は、22歳にして外科医の夢を断たれ、長崎の原爆で亡くなった僕の叔父(と言っても、会ったことはないのですが)の遺言です。4人の弟、妹たちに、死の床で「偉い人間にならなくてもよい。立派な人間として生きてくれ。かっこいい言葉で自分を飾る人よりも、当たり前の言葉がかっこよく聞こえる人になってほしい」と言い残し、叔父はこの世を去りました。(「らかんさん」198710月号/東京目黒・五百羅漢寺)その遺訓を胸に生きた僕の父は、兄の言葉を心の支えにして生きながら、1989年、僕が13歳の時に、47歳で病没しました。



 そして今、僕の心の中にも、写真でしか知らない叔父の言葉が生きています。「生き方が立派な人間になれば、発する言葉も自ずと美しくなる。虚飾に目を奪われず、信念を貫いて、世の役に立つ人間になりなさい」と、叔母もよく、小さな僕たち兄弟に言ってくれました。その叔母が京大医学部を卒業し、放射線治療を学ぼうと留学したスコットランドのエジンバラが、僕に著作を通じて本多静六博士を紹介してくれた渡部昇一さん(上智大学名誉教授)の「運命を決めた場所」であったことが、なんだか運命的に思えてきます。



 そんな僕も、もう30歳。自分のことばかりを考えては生きられない年です。志半ばで世を去った父の遺志を継ぐべく、僕は23歳の時から、「日本のお父さんを世界一かっこよくする仕事」に一生を捧げると決意しています。



 僕は死ぬまでに、絶対に日本の職業教育を変え、全ての青少年が働くことを楽しみに学び、自らの社会貢献に生きがいを感じながら、仕事を最高の自己表現手段とするシステムを作ってみせます。そう考えればこそ、睡眠4時間で12年間頑張っても全く疲れず、アイデアも尽きず、決めた行動を投げ出すこともないわけです。



 そして、ひょんなきっかけからお手伝いすることになった、日々若い学生が集うこのFUNも、父や叔父、叔母から与えられた使命を全うする有り難い環境です。



 部員の皆さんは僕の努力など知らず、自由気ままに参加しているようですが、参加を強制する立場でもないので、何も言いません。卒業後、「ああ、そんな人がおったね」とでも思うのかもしれませんが、僕は一回一回に、決して手を抜きたくはありません。大したことも言えず、毎回「当たり前の内容」を扱ったメルマガしか書けない僕ですが、やるからには、その当たり前の言葉があたかも名言のように響くくらい、本気の生き方で学生さんと時間を共有したいと考えています。



 学生の皆さんも、かっこいい言葉などに頼って成長から逃避するのではなく、自らが「立派でかっこいい若者」になりましょう。そして、「君が言うと、説得力がある」と言われるような人間的迫力を鍛えましょう。言葉は、頼るものではなく、自らがそうなるべきものではないでしょうか。



 今日は夕方以降も含め、多くのインスピレーションに打たれながら、原チャリで55キロも走った一日でした。