■今日の一言(通巻403号)
『惜む心を止め、善に化するの外あらんや』(石田梅岩)
土曜日は一部の部員の中で「フルコース」と呼ばれているほど、朝から夜までFUNの活動が詰まった一日です。
僕は…
6:00~ レジュメの最終校正&講義のイメージトレーニング
8:00~ FUN Business Cafe
9:30~ FUNゼミ
13:00~ 損益計算書勉強会①
15:00~ 損益計算書勉強会②
17:30~ 近現代史勉強会
19:00~ 就職相談①
21:00~ 就職相談②
というスケジュールで、終えると「今日もよく頑張ったな」という充実感でいっぱいになります。
色々と思うことはあったのですが、昨日は特に、朝から僕の大好きな「石門心学」の古典である『都鄙問答(とひもんどう)』(石田梅岩)を読んで、これに対する学生さんの感想が嬉しかったので、今日はこれについて書きます。
石田梅岩は京都の商業思想家で、彼の生み出した「心学」は江戸の経済発展や明治維新に絶大な影響を与えたのみならず、現在では東証一部上場企業となっている多くの会社の創業者が、等しく学んだ「聖典」でもあります。
これが体系的にまとめられた「都鄙問答」の初版は、昭和10年に岩波文庫(足立栗園校訂)から出され、現在では絶版となっていますが、なぜかこれも、我が家にあります。「日本の古本屋」では、この初版本の価格は8万円だそうで、なかなかの「固定資産」です。
昨日読んだのは、この「都鄙問答」の現代的解説書である『清廉の経営』(由井常彦/日本経済新聞社)の前半部分である「商人に学問は必要か」からの数章です。
僕はkumamotoさん、下関市立大4年のF本君、西南3年のA坂さんと同じグループでしたが、学生さんが「なぜこんなに優れた本を学校でやらないのか」と感動の声を聞かせてくれることに、二重に感動してしまいました。
「都鄙問答」には現代人に心を清め、問題の本質を教えてくれる珠玉の言葉が数多く散りばめられていますから、今日はその一部をご紹介してみます。
◆「教の道は人倫を明らかにするのみ」
…学問とは人の道を明らかにするものである。学んで人に驕り、優越感に走るようなものは、いくら学ぼうが「学問」などではない。
という意味です。これは、中江藤樹の「それ学は人に下るを学ぶなり」(学問とは人にへりくだることを学ぶものなのだ)と同じで、深い哲学を感じさせてくれますよね。
◆「商人皆農工とならば、万民の難儀とならん」
…商人が皆農民、工業者となれば、国民全員が困るだろう。
という意味です。当時も商人を軽蔑・嫉妬する雰囲気は強かったものの、梅岩は商社や商人の効用を積極的に認めて理論化し、「商人なんていなくなればいいんだ」という一種の「江戸社会主義」的な思想に合理的に反論しています。
◆「一升の水に油一滴入る時は、其の一升の水一面に油の如くに見ゆ。此を以て此の水用に立たず」
…一升の水に油を一滴垂らしただけで、その水全体は使い物にならなくなる。
という意味です。どれだけ良いもの、立派なことを持っていても、ちょっとした目先の利益に走ろうとするだけで、全体を損なってしまうことがある。これは、数億円の金のために会社全体、業界全体の信頼を損ねて破綻したライブドア事件などにも通じる指摘ですね。
◆「倹約と云ふことは世俗に説くとは異なり、我が為に物ごとをしはくするにはあらず。世界の為に三つ入る物を二つにてすむやうにするを倹約と云ふ」
…倹約とは、世の中で言う「吝嗇(りんしょく=けち)」とは違う。世の中で何かをやる時に三つ必要なものを、二つで済ませることが倹約だ。
という意味です。「けち」が必要量さえ削って自分だけが得をしようとする点で、本質的には「欲」の現象であるところ、「倹約」とは3つの資源を2つで済むように工夫する創造と節約の営みだ、と定義しているのはなんという卓見でしょうか。
「けち」と「倹約」の違いも知らず、節約や貯金が下手な現代人は、味わうべきものがあります。
◆「惜む心を止め、善に化するの外あらんや」
…適正利潤を載せて売り、「もっと高く売っても良かったのに」と惜しむのではなく、「買ってくださってありがとうございます」という感謝に転じなければならない。
という意味です。商売とは克己と忍耐の営みであり、それを経験したことがないサラリーマンや一般庶民が「営利追求だ」と批判するのは当たらない。惜しむ気持ちが高まるほど、それを感謝に転ぜしめ、末永く存続させることが大事だ、という見識溢れる意見ですね。
就活でも、第一志望の面接が進み、あとは「最終面接だけだ」というところで不採用になれば、一時的には悔しい気持ちにもなるでしょうが、そこで「全然見てくれていない」、「なんだ、あの会社」などと幼稚なストレスに走るのではなく、「私に不採用という形でさらなる成長のチャンスを与えてくださり、ありがとうございます」と考えてみてはいかがでしょうか。
◆「奢りを止め、道具好をせず、遊興を止め普請好をせず」
…身のまわりのものに好き嫌いを言わず、遊興をやめ、むやみに家の建築をしない。
という意味です。人は小金が入ると、すぐに消費したがって不要なものまで買いたがるもの。それを抑え、長期的視野に立って事業を経営していかねばならない、という素朴な忠告です。
「普請好をせず」とは、現代語で言う「固定資産を買うな(不動産を買うな)」であり、安易な設備投資を戒めているという点で、おそるべき先見性と言うほかありませんね。
◆「是は天のなす所商人の私にあらず。天下の御定の物の外はくるひあり。狂ひあるは常なり」
…価格の変動は天のなすところであって商人の自由意思によるものではありませ
ん。価格が統制された商品以外は変動します。価格は変動が常態なのです。
という意味です。アダム・スミスよりも50年早く「市場経済」と「価格調整機能」の効用を定義している点で、梅岩の思想の深さ、正確さが窺い知れます。梅岩を学ばずに「マクロ」、「ミクロ」とは、わが国の経済学部は一体、何を学んでいるのか。
◆「伝へ聞き学んで知るは真の知にあらず」
…聞いただけで「分かった」などという人間いるが、そんなものは本物の知性ではない。
という意味です。「頭では分かっているんだけど」というのは単なる逃げの言い訳であり、そんなことは本来ありえないことです。行動に移らない限り、人は「分かった」などという言葉を軽々しく吐くべきではない…。
梅岩の謙虚さと思いやりが感じられる言葉ですね。
◆「主従一体の勢いは十を以て百に勝ち、一体せざる時は大勢却って頼むに足らず」
…社長と従業員が一体となった時の勢いは十の力で百の力に勝つが、一体ではない時は、その集団の数は多ければ多いほど頼りにならない。
という意味です。今でも「みんなが言うから」、「みんながそうするから」という理由で行動する人がいますが、「みんな」とは誰なのか。自分の願望に合致するというだけの理由で、勝手に風景から選び抜いた人々の群れに過ぎないのではないか。
優れたリーダーや一体となるビジョンがない場合は、その人間集団は多ければ多いほど行動を誤る。わが国の近現代史を見るにつけ、なんとも胸が痛む指摘です。
このように、今から300年近くも前に書かれた本でありながら、「都鄙問答」はアダム・スミスやベンジャミン・フランクリンの思想を半世紀も先取りする経済合理性と人間道徳の一致を説いており、これが後世に与えた影響は計り知れません。
トヨタが世界に誇る「カイゼン(改善)」運動の中核となった「看板方式」は、「TQC(Total Quality Control:総合品質管理)」という概念に裏打ちされ、この「QC サークル」の活動形態と効果は、先日の「業界ゼミ」でもご説明した通りですが、この「現代版・石門心学」を理論化したのは、「能率道」を提唱した上野陽一博士です。
上野陽一博士は、ドラッカーが「20世紀の偉人」と著書のあちこちで推奨しているフレデリック・ウィンスロー・テイラーの「品質管理」を学び、日本企業の業務改革に多大な影響を与えた経営学者ですが、上野博士が重視したのもまた、「都鄙問答」でした。
テイラーの貢献は、大月さんが好きな坂本藤良さんも、著書でよく引用しているようですね。
上野博士はのち、「アメリカ人はあまりに仕事と遊び、事務と享楽の区別を立てすぎる。東洋思想は仕事の中に享楽を発見するものである」と述べていますが、これは歴史がない国なので仕方ないでしょう。
「仕事を取るか、プライベートを取るか」という浅薄で貧しい思想は日本人、とりわけ若者の頭を犯し、多くの学生もこの思考方式に取り付かれているようです。
上野博士はそのような貧弱な職業観を憂え、テイラー方式に付け加えるべき「人間精神の振興」を求めて、「都鄙問答」に行き着いたわけです。
「たくさん仕事をしたら、遊ぶ時間が減る。でも、遊びすぎたら仕事に支障を来たす」。
このような「やらされ労働観」を超越し、仕事の中に人間的成長の喜びを求め、仕事を問題解決として積極的に取り組み、ひいては人生自体に大きな喜びをもたらして、周囲の人々に貢献していく。
「都鄙問答」は欧米の思想を超越した、さらに合理的で深い哲学を持った古典として、現代では世界的な研究が行われていますが、肝心のわが国でだけは注目されないのは惜しいことです。しかし、だからこそ我々は、これを学べば得られる可能性を前にしているのです。
『惜む心を止め、善に化するの外あらんや』。
これは、「仕事でプライベートが削られるなどと惜しむのではなく、仕事で自分が成長するからこそ、プライベートも充実するのだと感謝しよう」と考えてもよい言葉ではないでしょうか。
就活に際して、仕事そのものよりも「勤務条件」ばかりを見て、入る前から「オフ」ばかりを考えて会社を選ぶ奴隷のような学生も多くいますが、そういう哀れな学生さんも、「いっちょ、成長してやるか!」と思えたら、ずいぶん人生観が変わるでしょうに。
「都鄙問答」は明治維新で軽視され、福沢諭吉や渋沢栄一といった、日本資本主義のリーダーたちも、一旦は西欧の思想にかぶれて東洋精神を軽視します。
しかし、徳を忘れた国家運営で問題が噴出してからは、福沢も渋沢も自分たちの浅い見識を反省し、「都鄙問答」の精神に帰っています。
のち、「都鄙問答」が現代に蘇ったのは、大蔵大臣であり、渋沢栄一の孫である渋沢敬三が、日銀総裁・新木栄吉、第一銀行頭取・酒井杏之助、住友銀行頭取・堀田庄三と協力して、将来の日本のために、「石門心学会」の設立を積極的に支援したからです。
「やりたいことをやるのがいい」
「譲れないものを探せ」
「自己実現のために生きるのだ」
などという浅薄で意味不明な、片手落ちの職業観が支配的となった現代の雇用市場の悲しさは見るに堪えませんが、現代の学生さんにも、「都鄙問答」を分かりやすく解説すると、「すごい!」、「私もこんなに立派な生き方がしたい!」、「昔の人って偉いですね」という声が溢れることには、大きな希望を感じます。
皆様も、「惜しむ」を「ありがとう」に変えてみてはどうでしょうか。案外、そこに大きな気付きがあるかもしれませんよ。
『惜む心を止め、善に化するの外あらんや』(石田梅岩)
土曜日は一部の部員の中で「フルコース」と呼ばれているほど、朝から夜までFUNの活動が詰まった一日です。
僕は…
6:00~ レジュメの最終校正&講義のイメージトレーニング
8:00~ FUN Business Cafe
9:30~ FUNゼミ
13:00~ 損益計算書勉強会①
15:00~ 損益計算書勉強会②
17:30~ 近現代史勉強会
19:00~ 就職相談①
21:00~ 就職相談②
というスケジュールで、終えると「今日もよく頑張ったな」という充実感でいっぱいになります。
色々と思うことはあったのですが、昨日は特に、朝から僕の大好きな「石門心学」の古典である『都鄙問答(とひもんどう)』(石田梅岩)を読んで、これに対する学生さんの感想が嬉しかったので、今日はこれについて書きます。
石田梅岩は京都の商業思想家で、彼の生み出した「心学」は江戸の経済発展や明治維新に絶大な影響を与えたのみならず、現在では東証一部上場企業となっている多くの会社の創業者が、等しく学んだ「聖典」でもあります。
これが体系的にまとめられた「都鄙問答」の初版は、昭和10年に岩波文庫(足立栗園校訂)から出され、現在では絶版となっていますが、なぜかこれも、我が家にあります。「日本の古本屋」では、この初版本の価格は8万円だそうで、なかなかの「固定資産」です。
昨日読んだのは、この「都鄙問答」の現代的解説書である『清廉の経営』(由井常彦/日本経済新聞社)の前半部分である「商人に学問は必要か」からの数章です。
僕はkumamotoさん、下関市立大4年のF本君、西南3年のA坂さんと同じグループでしたが、学生さんが「なぜこんなに優れた本を学校でやらないのか」と感動の声を聞かせてくれることに、二重に感動してしまいました。
「都鄙問答」には現代人に心を清め、問題の本質を教えてくれる珠玉の言葉が数多く散りばめられていますから、今日はその一部をご紹介してみます。
◆「教の道は人倫を明らかにするのみ」
…学問とは人の道を明らかにするものである。学んで人に驕り、優越感に走るようなものは、いくら学ぼうが「学問」などではない。
という意味です。これは、中江藤樹の「それ学は人に下るを学ぶなり」(学問とは人にへりくだることを学ぶものなのだ)と同じで、深い哲学を感じさせてくれますよね。
◆「商人皆農工とならば、万民の難儀とならん」
…商人が皆農民、工業者となれば、国民全員が困るだろう。
という意味です。当時も商人を軽蔑・嫉妬する雰囲気は強かったものの、梅岩は商社や商人の効用を積極的に認めて理論化し、「商人なんていなくなればいいんだ」という一種の「江戸社会主義」的な思想に合理的に反論しています。
◆「一升の水に油一滴入る時は、其の一升の水一面に油の如くに見ゆ。此を以て此の水用に立たず」
…一升の水に油を一滴垂らしただけで、その水全体は使い物にならなくなる。
という意味です。どれだけ良いもの、立派なことを持っていても、ちょっとした目先の利益に走ろうとするだけで、全体を損なってしまうことがある。これは、数億円の金のために会社全体、業界全体の信頼を損ねて破綻したライブドア事件などにも通じる指摘ですね。
◆「倹約と云ふことは世俗に説くとは異なり、我が為に物ごとをしはくするにはあらず。世界の為に三つ入る物を二つにてすむやうにするを倹約と云ふ」
…倹約とは、世の中で言う「吝嗇(りんしょく=けち)」とは違う。世の中で何かをやる時に三つ必要なものを、二つで済ませることが倹約だ。
という意味です。「けち」が必要量さえ削って自分だけが得をしようとする点で、本質的には「欲」の現象であるところ、「倹約」とは3つの資源を2つで済むように工夫する創造と節約の営みだ、と定義しているのはなんという卓見でしょうか。
「けち」と「倹約」の違いも知らず、節約や貯金が下手な現代人は、味わうべきものがあります。
◆「惜む心を止め、善に化するの外あらんや」
…適正利潤を載せて売り、「もっと高く売っても良かったのに」と惜しむのではなく、「買ってくださってありがとうございます」という感謝に転じなければならない。
という意味です。商売とは克己と忍耐の営みであり、それを経験したことがないサラリーマンや一般庶民が「営利追求だ」と批判するのは当たらない。惜しむ気持ちが高まるほど、それを感謝に転ぜしめ、末永く存続させることが大事だ、という見識溢れる意見ですね。
就活でも、第一志望の面接が進み、あとは「最終面接だけだ」というところで不採用になれば、一時的には悔しい気持ちにもなるでしょうが、そこで「全然見てくれていない」、「なんだ、あの会社」などと幼稚なストレスに走るのではなく、「私に不採用という形でさらなる成長のチャンスを与えてくださり、ありがとうございます」と考えてみてはいかがでしょうか。
◆「奢りを止め、道具好をせず、遊興を止め普請好をせず」
…身のまわりのものに好き嫌いを言わず、遊興をやめ、むやみに家の建築をしない。
という意味です。人は小金が入ると、すぐに消費したがって不要なものまで買いたがるもの。それを抑え、長期的視野に立って事業を経営していかねばならない、という素朴な忠告です。
「普請好をせず」とは、現代語で言う「固定資産を買うな(不動産を買うな)」であり、安易な設備投資を戒めているという点で、おそるべき先見性と言うほかありませんね。
◆「是は天のなす所商人の私にあらず。天下の御定の物の外はくるひあり。狂ひあるは常なり」
…価格の変動は天のなすところであって商人の自由意思によるものではありませ
ん。価格が統制された商品以外は変動します。価格は変動が常態なのです。
という意味です。アダム・スミスよりも50年早く「市場経済」と「価格調整機能」の効用を定義している点で、梅岩の思想の深さ、正確さが窺い知れます。梅岩を学ばずに「マクロ」、「ミクロ」とは、わが国の経済学部は一体、何を学んでいるのか。
◆「伝へ聞き学んで知るは真の知にあらず」
…聞いただけで「分かった」などという人間いるが、そんなものは本物の知性ではない。
という意味です。「頭では分かっているんだけど」というのは単なる逃げの言い訳であり、そんなことは本来ありえないことです。行動に移らない限り、人は「分かった」などという言葉を軽々しく吐くべきではない…。
梅岩の謙虚さと思いやりが感じられる言葉ですね。
◆「主従一体の勢いは十を以て百に勝ち、一体せざる時は大勢却って頼むに足らず」
…社長と従業員が一体となった時の勢いは十の力で百の力に勝つが、一体ではない時は、その集団の数は多ければ多いほど頼りにならない。
という意味です。今でも「みんなが言うから」、「みんながそうするから」という理由で行動する人がいますが、「みんな」とは誰なのか。自分の願望に合致するというだけの理由で、勝手に風景から選び抜いた人々の群れに過ぎないのではないか。
優れたリーダーや一体となるビジョンがない場合は、その人間集団は多ければ多いほど行動を誤る。わが国の近現代史を見るにつけ、なんとも胸が痛む指摘です。
このように、今から300年近くも前に書かれた本でありながら、「都鄙問答」はアダム・スミスやベンジャミン・フランクリンの思想を半世紀も先取りする経済合理性と人間道徳の一致を説いており、これが後世に与えた影響は計り知れません。
トヨタが世界に誇る「カイゼン(改善)」運動の中核となった「看板方式」は、「TQC(Total Quality Control:総合品質管理)」という概念に裏打ちされ、この「QC サークル」の活動形態と効果は、先日の「業界ゼミ」でもご説明した通りですが、この「現代版・石門心学」を理論化したのは、「能率道」を提唱した上野陽一博士です。
上野陽一博士は、ドラッカーが「20世紀の偉人」と著書のあちこちで推奨しているフレデリック・ウィンスロー・テイラーの「品質管理」を学び、日本企業の業務改革に多大な影響を与えた経営学者ですが、上野博士が重視したのもまた、「都鄙問答」でした。
テイラーの貢献は、大月さんが好きな坂本藤良さんも、著書でよく引用しているようですね。
上野博士はのち、「アメリカ人はあまりに仕事と遊び、事務と享楽の区別を立てすぎる。東洋思想は仕事の中に享楽を発見するものである」と述べていますが、これは歴史がない国なので仕方ないでしょう。
「仕事を取るか、プライベートを取るか」という浅薄で貧しい思想は日本人、とりわけ若者の頭を犯し、多くの学生もこの思考方式に取り付かれているようです。
上野博士はそのような貧弱な職業観を憂え、テイラー方式に付け加えるべき「人間精神の振興」を求めて、「都鄙問答」に行き着いたわけです。
「たくさん仕事をしたら、遊ぶ時間が減る。でも、遊びすぎたら仕事に支障を来たす」。
このような「やらされ労働観」を超越し、仕事の中に人間的成長の喜びを求め、仕事を問題解決として積極的に取り組み、ひいては人生自体に大きな喜びをもたらして、周囲の人々に貢献していく。
「都鄙問答」は欧米の思想を超越した、さらに合理的で深い哲学を持った古典として、現代では世界的な研究が行われていますが、肝心のわが国でだけは注目されないのは惜しいことです。しかし、だからこそ我々は、これを学べば得られる可能性を前にしているのです。
『惜む心を止め、善に化するの外あらんや』。
これは、「仕事でプライベートが削られるなどと惜しむのではなく、仕事で自分が成長するからこそ、プライベートも充実するのだと感謝しよう」と考えてもよい言葉ではないでしょうか。
就活に際して、仕事そのものよりも「勤務条件」ばかりを見て、入る前から「オフ」ばかりを考えて会社を選ぶ奴隷のような学生も多くいますが、そういう哀れな学生さんも、「いっちょ、成長してやるか!」と思えたら、ずいぶん人生観が変わるでしょうに。
「都鄙問答」は明治維新で軽視され、福沢諭吉や渋沢栄一といった、日本資本主義のリーダーたちも、一旦は西欧の思想にかぶれて東洋精神を軽視します。
しかし、徳を忘れた国家運営で問題が噴出してからは、福沢も渋沢も自分たちの浅い見識を反省し、「都鄙問答」の精神に帰っています。
のち、「都鄙問答」が現代に蘇ったのは、大蔵大臣であり、渋沢栄一の孫である渋沢敬三が、日銀総裁・新木栄吉、第一銀行頭取・酒井杏之助、住友銀行頭取・堀田庄三と協力して、将来の日本のために、「石門心学会」の設立を積極的に支援したからです。
「やりたいことをやるのがいい」
「譲れないものを探せ」
「自己実現のために生きるのだ」
などという浅薄で意味不明な、片手落ちの職業観が支配的となった現代の雇用市場の悲しさは見るに堪えませんが、現代の学生さんにも、「都鄙問答」を分かりやすく解説すると、「すごい!」、「私もこんなに立派な生き方がしたい!」、「昔の人って偉いですね」という声が溢れることには、大きな希望を感じます。
皆様も、「惜しむ」を「ありがとう」に変えてみてはどうでしょうか。案外、そこに大きな気付きがあるかもしれませんよ。