<評伝> 「こんな反社会行為は許されない」。十六日死去した樋口広太郎氏が手を振りかざしながら記者に語ったのは一九九七年秋。「海の家」を通じ た総会屋への利益供与事件が大手企業にも拡大し、危機対応を協議する経団連の会議前だった。当時の経団連会長はトヨタ自動車の豊田章一郎会長。樋口氏は副 会長として「豊田経団連」を支えていた。前を遮るようにマイクを突き出したテレビの記者には「君、失礼だぞ」と指をさしながら怒った。正義感が強くて激し い気性の持ち主だった。
その性格は住友銀行(現三井住友銀行)の副頭取時代にも表れた。企画・特命担当役員として破綻した安宅産業の処理問題などに取り組んだ。「住銀の 頭取」は確実とされていたが「向こう傷を問わない」と強気の営業を進めた住銀の実力者、磯田一郎会長との確執から、経営難に陥っていたアサヒビールの社長 に転じた。
アサヒビールでは元気で明るい性格が社員や取引先を引きつけた。京都の家業の布団屋で父親の手伝いをしながら商売を身に付けた経験から、酒店周り も苦にならなかったようだ。営業と商品開発を一体化させ「コクがあってキレがある新しい生ビール」を開発。それが今も主力の「スーパードライ」だ。
資金と人材を集中させる「選択と集中」手法はその後の企業経営の手本になった。社長在任の約六年間にアサヒビールの売上高は約三倍に。アサヒ復活の立役者となった。
企業経営で得た経験と実績を買われ、自民党の小渕恵三政権では「経済戦略会議」の議長に就いた。議長人事の取材で夜遅く自宅に確認の電話をすると 「議長を受けた」と気さくに答えてくれた。一九九九年二月には「日本経済再生への戦略」と題した改革案を発表。小泉純一郎政権下でも「産業再生委員会」創 設を提唱した。