新天地、初めの御言葉 287 | 新天地のブログ

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初めの御言葉

(本文:ヨハ1:1~34(核心聖句:ヨハ1:1~5))









本文を通して知らせようとする核心は、旧約の預言と成就に関する事である。



初めの御言葉は何だろうか?初めの御言葉は、神様であり、御言葉が神様と共におられた。万物は、初めの御言葉で造られた。その御言葉の中に命があり、この命は人々の光である。この光がやみの中に輝いたが、やみは悟れなかった(1-5節)。



やみは光である御言葉がない者であり、創世記の第一日と第一テサロニケ5章で話したやみであり、夜である教人たちである。初めの御言葉は、命と光と創造力がある神様の種である。イエス様も神様の種で生まれたので、神様の子であり、御言葉である。(Ⅰヨハ1:1)



初臨の時、旧約(マラ3:1)に約束したバプテスマのヨハネが来たが、彼はまことの光ではなく、しばらくの間燃えて輝くともしびに過ぎず(ヨハ5:35)、イエス様は完全な命の光(ヨハ12:46)、すなわち、まことの光であった(6-9節)。

当時、アブラハムの血統で立てられた肉的イスラエルは、神様の所属の選民であったが、天の太陽、月、星が暗くなって落ちるように落ちて夜になり(ヨエ2:31、3:15)、光であられる主である神様とその子イエス様が来られたが(マタ3:16-17、ヨハ10:38、14;10-11参考)、彼らは悟れず、受け入れないで(10-11節)、かえって、迫害と殺人をし続けた。この時、審判権を持ったイエス様(ヨハ5:22)と神様は、血統や肉に関係なく、その名を信じる者たちに神様の子どもとなる特権を与えたので、これはただ神様から生まれた者たちである(12-13節)。もう一度言えば、人間の意志ではなく、神様の種で生まれた者たちである。この事が新しい事であり(エレ31:22)、彼らが新しいイスラエル(霊的イスラエル)であり、霊的神様の家族であり、約束の民族である。



言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父の身元から来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた(14節)。律法はモーセによって与えたものであり、恵みとまことはキリストによって実現したのである(17節)。



この時、ユダヤ人たちがエルサレムで祭司長たちとレビ人たちをヨハネに送って 、「あなたがキリストか、エリヤか、預言者か?」と聞いたが、彼は違うと答え、自分はイザヤの御言葉のように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声だと言った(19~24節)。ユダヤ人、すなわち、パリサイ人が送った者たちが「では、どうしてあなたがバプテスマを授けているのか?」と言った。ヨハネが「私は水でバプテスマを授けているが、私は、私の後に来られる方のくつのひもを解く値うちもありません。」と言った(24~28節)。

ヨハネがイエス様にバプテスマを授けたのは、来られる方をイスラエルに現わそうとする事であった(31節)。そして、ヨハネに知らせてくださった方(神様)が「聖霊が誰の上でもとどまられる方が、すなわち、来られるキリスト(聖霊によってバプテスマを授ける方)である。」と言われ、ヨハネがバプテスマを授ける時、聖霊がイエス様に臨まれた(29~34節)。この時、初めて神様とイエス様は一つになったのである。



旧約(マラ3:1)の預言と成就に関する神様の働きは、このように成し遂げられた。これは、2千年前、初臨の時の道を備える者バプテスマヨハネと契約の使者イエス様の働きの始まりに関する事である。



ヨハネの福音書1章で見たように、初めの御言葉の威力と、また御言葉が肉体になって来たという点を記憶するべきであり、やみと光について知るべきであり、肉的イスラエルではなく、イエス様の名を信じる者が神様の子どもになるという点を知らなければならない。

自分に御言葉があるので、神様が共におられ、御言葉があるので、命と光があり、御言葉があるので、神様の子どもになり、御言葉で新しく生まれた被造物になるという事を肝に銘じなければならない。