今日のキリスト教徒の信仰
神様の御言葉である聖書から見た今日の牧者と彼らの聖書の知識はどうなのだろうか?
旧約聖書の啓示に関して、イザヤ29章9~14節に、全ての啓示は封じられた書物であり、神様は深い眠りの霊を注いで目を閉じさせ、頭を覆ったので、預言者も先見者も盲目であり、啓示を知ることができないと言われた。そのため、彼らは人の戒めで教えて、人の戒めだけで学んだ者たちの信仰は、口先で主に近づき、「主よ、主よ」と崇めるが、その心は神様から遠く離れていた。しかし、啓示にはそれを成し遂げる定めの時があった(ハバ2:2~3)。その時、開いて人の子に食べさせた後、反逆した選民たちに遣わして伝えさせた(エゼ2、3章)。彼が、すなわち、イエス様であった。初臨の時、イエス様が開かれた書物を受け取り、全てのことを成し遂げられた(ヨハ19:30)。
新約聖書の啓示であるヨハネの啓示録に関して、啓示録5章1~4節に、今日の牧者も盲目となり、七つの印で封じられた本である啓示(啓示録)について知る者がいないと言われた。彼らが知っていることと教えていることは歴史的(遺伝的)な戒めでしかない。啓示が啓示され、実像で成し遂げられなければ、人類に救いはなく、神様の御国にもなく、神様も天国もこの地に来ることはない。これは、神様の御心と聖書を知る者の言葉である。
啓示録はイエス・キリストの啓示(啓示)であり(啓1:1)、この中に記録されていることを守らなかったり、加減すれば天国に行くことはできず、呪いを受けるようになると言われた(啓 22:18~19)。それなのにもかかわらず、なぜ牧者たちが啓示録、すなわち、イエス様の啓示録を教えることができなかったり、また教えるとしても、人の考えで研究して教えるのか?それは、啓示を受けず、そのまことの意味を知らないためである。知らなくても、救われるのだろうか?そんなことはない。救いを受けることはできない。ヨハネが天の天国の御座の前に上り(啓4章)、七つの封印で封じられた本に対して、開いたり見たりできる者がなくて神様の御座の前で激しく泣いた(啓5:1~4)原因は、その封じられた本が開かれず、本に記録された神様の秘密が成し遂げられなければ、神様の望みも、私たちの望みも、すなわち、救いもないからであった。
今日、イエス様がその七つの封印を全て解いて、開いて(啓6章、啓8:1)、御使いを通して霊的ヨハネに渡して、世の万民へ伝えさせた(啓10:1~2、8~10)。初臨のイエス様が神様から啓示を開いた本を受けて(エゼ2:8~3:3 参考)話されたことは、子と子の望む通りに啓示(知らせようと)を受けた者だけが神様を知ると言われ(マタ11:27)、神様と神様が遣わされた方であるイエス様を知ることが永遠のいのちであると言われた(ヨハ17:3)。
今日、イエス様の啓示を受けた者である霊的ヨハネ(勝利者)と霊的ヨハネを通して啓示を受けた者(12支派14万4千人と白い群れ)だけが、神様とイエス様を知ることができ、イエス様と、またイエス様が遣わされた方(使者)である霊的ヨハネを知ることによって永遠のいのちを得ることができる。
新約聖書で永遠のいのち、天国を求めているが、新約、すなわち、新しい契約は、勝利者である霊的ヨハネをあかしして教えている。啓示録は、見て聞いて指示を受けた者である勝利者が相続を受け継ぐ神様の子となり(啓 21:7)、神様もイエス様も天国も勝利者に臨まれ、永遠のいのちの食物、支配権と審判権も勝利者が受けるようになる(啓 2章、3章)。
新約、すなわち、啓示録成就の時代の信仰人たちは、約束の牧者、すなわち、勝利者に会う事が祝福である。勝利者を通さなければ救いはない。これが新しい契約、すなわち、新約の預言であり、今日の成就された実像である。今日、新約聖書の御言葉を信仰の師とし、道とする者は、約束の牧者、勝利者を知って会うことができるだろう。