続いても原発推進や防衛政策ですが、よくありがちなプロパガンダに「彼はそれに『命を懸けて』いるらしいよ」という冷やかしがあります。
なんという無礼と感じますが、現代日本に、そのような方々は多いです。
原発推進や防衛政策を口にする時に、なぜ『命懸け』でなければならないのでしょうか。
悪ふざけではありませんが、例えば新しい減税政策などについて、「僕はこの減税政策の成立を命懸けで応援してるんです!」という方がいたら「?、なんでこんなにオーバーなの?」と、感じないでしょうか。
「僕は憲法九条を守るために命懸けです!」という方はよく見かけますが、なぜそんなにオーバーにしないと議論が出来ないのでしょうか。
「新しい都の条例について、僕は命懸けで応援してます!」とは、よほどでなければ言いませんよね。
原発と防衛政策、改憲について、重要な議論です。
しかし『命懸け』を強いるのは、議論についての侮辱です。
命を懸ける、ということについて、聖書はどう述べているでしょうか。
聖書は「何も誓ってはならない」と訴えてます。
天を指しても、地を指しても、エルサレムを指しても、そして自分を指しても、誓ってはならない、とあるのです。
これは、誓うならば、約束するならば、何がなんでも守らなければならないが、神の名を出すな、という教えです。
人はそもそも己の髪の毛一本すら黒くも白くも出来ないのです。
否、否、然り、然り、であるべきなのです。
だからこそ私はたんに「憲法九条は何があっても変えてはならない」などについて、否、否、と口にしてるだけです。
議論を大切にする礼儀があるならば、無闇に『命懸けで主張しろ』と罵声を浴びせる無礼は控えるべきです。