「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」を読了し、今日は「ルカによる福音書」を7章まで読みました。

クリスチャンになると決意してから、福音書もですが、心の中に貯められた聖書の数々の言葉が、まるでその言葉自体が聖霊であるかのように、私の心に根付いてます。

クリスチャンになる決意をして、例えば釈迦みたいに解脱したわけではないのですから、日々それぞれにペースに波があります。

そのペースが乱れる中で、しっかり根付いている主の御言葉を感じてますが、私が不調な時も、主イエス・キリストの愛は揺るぐことはないでしょう。

「努力怠るとバチがあたるよ」は異教徒か、カルトの言葉です。

主イエス・キリストを一度信じた。

それはそもそも神様が私に予定されていたことです。

そして、私がその時々で不調の時もあることなど、主イエス・キリストはそもそも先から存じているのです。

なんなら、私が癇癪起こして、「神様ひどいよ」とぶー垂れることすら、とっくの昔に神様はご存知で、その上で「赦す」と仰られているのです。

例えば私がその主から離れようと遠ざかったとしても、主イエス・キリストの手は私に伸びていて、支えて下さっているのです。

そもそも、今更ながらに「これを言ったら神様に罰せられるかな」とか「これをこう言わなければクリスチャンとして失格かな」とか、そんな小手指の技を使おうとしても、主イエス・キリストはそこまですら、もともと昔から知っているのです。

聖霊を汚さずに、主イエス・キリストに仕える。

それは見た目の綺麗さなどとは違う話なのだと、クリスチャンになってみて深く学んだことです。

私の癇癪があったとしても、主イエス・キリストはそもそも人に諭されるようなお方ではないのですから、人である私が心配するのが、悪あがきなのです。

これからも、ますます聖書を読み進め、再読も繰り返したいと思っています。