いま気になってること


心理学というと、どのネット記事も『タイプ論』です。


例えば、私と同じく心理学を学んだ者同士では、これは苦労なく話が進みます。


とにかく、大抵の人の話す心理学は『タイプ論』なのです。


大抵「モテる男」とか「金持ちになる男」とか「つまり『こういうタイプ』の人」という話なので『タイプ論』なのです。


しかし、現実がタイプ論で決まるでしょうか。


仕事が出来て成功する人は『タイプ論』に当てはまる人、でしょうか。


では、そもそも「努力しても無駄」ではないでしょうか。


分かりやすく言えば


「理想の社員はA型。A型でない社員はダメ。A型こそ社長、会長になる人」


これを読んで、どう思いましたか。


A型とかB型とか、それは『血液型類型論』という『タイプ論』です。


上を読んで、ふざけるな、と憤慨した人が多いでしょう。


つまり、成功する人はタイプで決まるわけではないのです。


そもそも、タイプ論というのは、心理学では時代遅れみたいなものです。


オールポートという学者が研究した『特性論』の方が現代的です。


ただし、これを説明すると話が長くなるので、ここで切り上げます。


とにかく、タイプとか条件で成功すると決まってるわけじゃない、と気づけば、「出来が良ければ誰もが喜ぶわけじゃない」というのも気づけるものです。


私は昭和44年生まれですが、その私が苦手だなと感じた誰かの言葉に


「『てなもんや三度笠』は傑作なんですよ。若い子も絶対てなもんや三度笠を観るべき」


みたいな言葉があって、「やめてくれ」とげんなりしました。


なんで俺の世代がてなもんや三度笠を観せられなければならないのか。


誰でもここで「それじゃ『自由が無い』じゃない」と気づきますよね。


そこが分かるか分からないのかは大問題なのです。


例えば今の若い子は『ファーストガンダム』とか受けつけないと思います。


池田鴻のあの主題歌で、渡辺岳夫のあのBGMで『ジャブローに散る』とか「傑作だろう」と観せられたら、若い子はみんな何も興味持たなくなるのではないでしょうか。


他で言えば、『笑っていいとも』。


今の子たちに「傑作だから」と『笑っていいとも』を観せるとしたら、それは拷問です。


そもそも、何を観るかとか何を食べるとか、それは他人が押しつけるものではありません。


こういうところに気づかずに話を進める人は多いのではないでしょうか。


私の世代でも、例えば昭和の価値基準で「真面目で、仕事が出来て、道徳を守る女性」とか勧められても、なんかやだなぁとなる可能性が大きいです。


分かりやすく言えば、同じ「二葉亭四迷」でも、明治に出版された本を押しつけられて「読め、これが楽しいということだ」と言われても、押しつけられた方は大迷惑ということです。


せめて現代版で印刷したものとか、文体が現代的に書き換えられているとか、現代版のドラマ仕立てとか、なにかあればともかく、これでは『温故知新』にもなりません。


例えば自分の妻だったらどうですか。


条件に合ってるならば俺が勧めた女でいいだろう、では、本人の意向も無視です。


明治辺りでは普通だったかもしれませんが。


つまり、「質がいい条件が揃っていて」も、嫌なものは誰でも嫌なのです。


こういうところで、節度を持って、「あくまで俺の好みの雑談だけど」とでもしなければ、例えばクリスチャンの私の話題が『聖書』になってもある程度読まれるものも、押しつけだったらみんな「なんで聖書?」とため息のはずです。


それでは問題だから、私も絵にしろ、他にしろ、配慮して話したり、書いたりしてました。


私が学んだ心理学の教授が昔、


「理解は誤解です」


と教えてました。


「それは俺はもう理解しきって、完璧なんだ」


と思っているならば、それは『誤解』してるだけ、なのです。


例えば臨床心理士が、それをわきまえずに、学校のカウンセリングルームに来た生徒に


「安心しなさい。私はあなたの悩みを全て分かってますよ。これであなたは必ず楽になれますよ」


では、子どもにしたら「さらなる地獄に導かれるのか!?」とげんなりするかもしれません。


なので、条件とか揃っていればいいわけではないのです。










 

 

 

 

 

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