人間関係のトラブル


今日は牧師先生との勉強会で『主の祈り』を細かく勉強してきました。


主の祈りで難しいのは、私も「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します(マタイ6章12節)」だなぁと感じました。


キリスト教は『愛の宗教』と言われるように、様々な愛が私たちに望まれています。


有名な「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」がありますが、それを「僕は簡単に出来るよ」と言う方は少ないでしょう。


人間関係のトラブルが起きた時に、人はたいてい自分だけを愛します。


僕が正しいんだ、アイツらおかしいんだよ、と。


しかし、主イエス・キリストは「迫害するもののために祈れ」と私たちに語られています。


敵を愛し、迫害する者のために祈るということから「愛とは他人を尊ぶこと」と思い浮かびます。


しかし、「他人だけを尊ぶこと」もおかしなものです。


「勝ち負け」でなく、祈るぐらいの心境だと、「対等がいい」という感じがします。


「愛とは他人が尊ばれることである。そして愛とは自分と他人が共に尊ばれることである」辺りでしょうか。


ここから「他人だけが尊ばれたり、自分だけが尊ばれる愛はおかしな話だ」となります。


バランスが崩れていると、そのようになっているかもしれないですね。


トラブルが起きた時に、激昂した人はたいてい誰かより自分が高いはずだと思っているものです。


赦せないアイツよりも俺は上なのだ、と雄弁になるわけです。


感情的な怒りという場合は、かなり多くこの形になっているでしょう。


被害に弱って感情が高ぶるというのもありますが。


しかし、トラブルがあっても、「敵を愛し迫害するもののために祈る」時には、人は「自分と共に相手も尊ぶ状態」が望まれています。


頭ではわかっていても、なかなかそう出来る場合ばかりではないものです。


例えば「子どもを上手く叱るお父さんお母さん」は、おいたの子どもを前に、このような天の神様と同じようなことが出来ているものです。


しかし、大人同士とか子ども同士の間では、アイツふざけてるよ、と憤慨し、なかなか私たちに負い目のある人たちを赦せないものです。


私もほとんど出来ませんね。


でも「頭」では、敵を愛し、迫害するもののために祈るぐらいならば、この地上にも天国と同じように天国の習わしが行われていることになるよなぁ、とは分かります。


神様と同じに出来ない、的外れが人間なので、頭じゃ分かっているけど神様にすがらせてよ、と、祈るぐらいが人間の本当かもしれません。


赦す、というひとつのことが、この人間様(?)にとって、すごく難しいものです。


そのように神にすがるとはいえ、心に宿る天国を悟ると、いつの間にか「憎いあんちくしょう」のことも、感情のもつれがほどけて、忘れてるかもしれないですね。












 

 

 

 

 

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