ニュースというのは昔は番組の合間に多くて30分程度に放送していたものですが、80年代に大報道ブームが起きて、以来テレビはニュースかバラエティーになってしまいました。
その当時はフジテレビは木村太郎、TBSは筑紫哲也、美里美寿々、日テレは徳光和夫や福澤朗でしたかね、そしてテレ朝が鳥越俊太郎とか田原総一郎という陣立で、報道報道と騒がしかったものです。
当時は『マックスヘッドルーム』なんて番組までありましたね。
しかし、それがテレビがつまらなくなった原因で、以降はテレビに夢中な人はマイノリティになっていきました。
テレビの黄金時代は終わったのです。
私も全くニュースを観ないわけではなく、夕食どきは『イット』をつけたり、私の個人的趣味だとBsテレ東の日経ニュースをたまに観ますが、他にNHKの『時論公論』とかでしょうか。
しかし、私はニュースというのは『善悪』だと感じます。
人は善悪の木の実を食べて、善悪善悪となってしまいました。
私も善悪善悪となるので、なんとかならないかと反省するのですが、人間は所詮善悪善悪と騒がしい。
故に楽園を追放されたわけです。
善悪というと、とかく「誰かを生かすか殺すか」の世界で、誰もが自分の善悪で「あいつは良い奴だ、あいつは許せない奴だ」と、善悪の木の実の呪いで、人は舌が達者になったという罪人です。
本当に舌は不正の塊で、手に負えないものです。
でも、人も『生命』を前にすると、「あいつを生かすか殺すか」とは違う心の流れになります。
善悪は、とかく『階級社会』です。
あぁ、あいつはダメだからヒラだね
あぁ、あいつは金持ちだからイケメンだね
そんな感じの人の心の構造なのです。
しかし、『生命』になると、誰もが、相手の年齢とか性別とか、つまり老若男女に関わらず、人種に寄らず、身分階級に寄らず、「死んだらあかん。生命を大切にしよな」と、願い始めるのです。
「生きよう」というメッセージを送り始める。
それがもしかしたら『生命の木の実』かもしれません。
善悪でしょうか、生命でしょうか。
ネット時代にもなり、生活様式も変わります。
テレビニュースばかりに操られるならば、私はむしろ神に仕える主イエス・キリストの奴隷という自由を目指そうと感じます。