幽霊を信じるor信じない


クリスチャンになった人間について、幽霊を信じているかは興味深いと思います。


私は基本的に幽霊を信じていません。


私個人は原則として現代心理学を学んだ経験から、大脳生理学に基づく心身一元論者です。


私の心身一元論はアラン・ホブソンという亡き精神科医に基づいてます。


アラン・ホブソンはフロイトを否定的に語り、大脳を調べた上での生理学に基づいた考えで、フロイトの夢判断を否定しています。


私もそれに則っています。










第一には、フロイトに基づいて過労になるぐらい心身が疲弊していた私が、寛解出来た大きな一因はアラン・ホブソンに基づく夢生理学を学んだことが大きく、アラン・ホブソンと現代心理学を学んだことにより、私の心身の疲弊は癒されていきました。


若い頃から悪夢と自覚する夢に囚われ、過労にまでなったほど、結果として24歳の時に破綻した事、それが復活した原因は、フロイトとは全く違うアラン・ホブソンの夢科学を学び、大脳の心身一元論に傾いたことでした。


心身一元論者なのにキリスト教なのですか?という疑問は、また後で。










フロイトの夢判断は1900年前後の、古典です。


当時は脳を調べる手段もありませんでした。


フロイト自身は神経学者という立場に基づいて、発達心理学のような心理学を唱えたようです。


その一端にフロイトの夢判断があるのですが、そのフロイトの夢判断自体を現代のフロイトを教える教授すら、全く言及しないようなものです。


フロイトの別の部分、男根理論とか、エディプスコンプレックスのような、そちらに力点が置かれていて、フロイトを教える教授自体が「フロイトのような夢判断は廃れていった」というような短いセンテンスで終わらせています。


また、フロイトについても、関わった患者の資産などに基づいて、当てはまらない例外が多い、と認めています。


そして、当てはまらない例外が多いのですから、フロイトの言ってることと自分が違っていても、自分自身は間違っているわけではなく、フロイトの理論自体があらゆる場合に当てはまらない、ということです。


つまり、フロイトに違和感を感じて、自分が悪いと決めつける必要はないのです。


この事は、市井に出回る書籍で触れる機会は極めて稀でしょう。


私は、この事はとても重要だから、もっと宣伝されていいと思っています。










また、ユダヤ人差別とは違うのですが、フロイトを学んでいる学者自体が、フロイトのようなパーソナリティが実際に身近にいたら、かなり違和感を感じるでしょうね、と笑っています。










フロイトの夢判断は、つまり「過去に是認しがたい体験があり」「それは『抑圧』として『無意識』に押しやられ、忘れられる」が、「その無意識の『抑圧』は『検閲』という作用を受けながら『意識』に悪さを働く」から「ヒステリー症状が起きる」のような複雑な理論です。


『夢』を「無意識からのメッセージ」と捉えるような感じなので、下手をすると自分の心に『魔物』が住んでいる、というように、ノイローゼ的になりやすいことも想像出来ます。


それに対し、現代大脳生理学に基づくアラン・ホブソンの夢科学はとてもシンプルです。


「脳には『脳幹』という脳の種みたいなところがあります」「その脳幹は人が眠っている時もパルサーのように、周期的に電気信号を発します」「その電気信号は大脳皮質に到達しますが、大脳はその信号を『なにこれ』と分析のように解釈しようとします」「その時の映像やストーリーのような脳の反応が『夢』なのです」なので「フロイトのような複雑な『象徴』など考えなくていいし、なにか『象徴』に似たものがあったとしても、それはフロイトのような複雑なものではなく、もっと簡単なものであるはずなのです」「なので予知夢もありませんし、『夢』を『夢判断』のような特別な手段で考えなくても良いのです」「『夢の内容』ではなく『夢の形』が大事で、焦ってる時には夢の中でも焦っていたり、『夢』というのはそういう簡単なものなのです」。


おそらくアラン・ホブソンの夢科学は、このように簡単なものでしょう。


夢について、私は若い頃に現役精神科医の助教授に「あなたが夢に従うのではなく、あなたが変わって(つまり無意識を支配して)、見る夢の方を変えなさい」と助言を受けました。


これが大ヒットだったのです。


さらに別の、仙台でも一番人気の実力だと思われる精神科医に『夢判断』って今は信じなくていいんですよね、と話した時に「あぁ、知ってたんだ」とニコニコ笑って応答されました。


ちなみに、キリスト教についてなのですが、キリスト教のプロテスタントの番組では「主イエス・キリストは、あなたのうつ病を現代医学に則って治癒されることを望んでいます」のように語って伝えています。










さて、やっと幽霊ですが、私は心身一元論者として今現在、例えば主イエス・キリストは『言葉』だと説明する牧師先生もいますので(厳密には『ロゴス』でしょう)、キリストというのは『言葉』のようなイメージを抱いています。


『言葉』というと「え!?ただの言葉!?」とシラケるよ、と言われるかもしれないですね。


しかし、言葉故に現実以上のパワーがあるとは考えられないでしょうか。


例えば、言葉はそもそも何次元なのか?


私は『言葉は一次元』と考えています。


なぜならば、間接的証明ですが


文字に書いた文章は記号の集まりによる『紐』のようである


『レコード』も『CD』も、1本の『溝』の『紐』をぐるぐる巻きにしたようなもので、巻いてある溝を解けば、長い1本の紐のようである


文字にしても、音声にしても、『言葉を保存したもの』は『1本の紐』のようなのです。


「一次元!?人間は三次元の実体を持ち、時間の上を歩む四次元の実体だよ!?」と思われるでしょう。


しかし、私が想像するのは「『次元が下のもの』は、『上の次元を分断する力がある』」ということです。


例えば、豆腐という三次元を下敷きという平面という二次元で切ることで、豆腐は切れます。


その下敷きも、一次元の紐で分断されます。


紐という一次元も、点という0次元で分断されます。


『下の次元』というのは、このような力を持っています。


そして、翻って考えると、もし『言葉が一次元』ならば、『言葉で心が癒される』ならば『対立も言葉であっても、解決も言葉によって、ならば、対立も解決も一次元によって、人間という三次元の実体で一次元の時間を歩む存在は、一次元にとても依存している』『なんならば、人の命の営みの根幹もほとんど一次元ではないのか?』と想像するのです。


『絵』となると『偶像の一種』に思います。


しかし、『言葉』となると、『あからさまに心』のようにも思います。


偶像崇拝にならずに、例えば三次元の仏像とか、絵に描かれたイエス・キリスト像とかではなく、家の中から外に飛び出して太陽の光をそのまま浴びられるようなものが、『簡素な言葉』だと、私はそのような考えです。


イエス・キリストは「私の言葉は滅びない」と語っています。


そのイエス・キリストが、なにかエクトプラズムのようなもの、と考えると、気体か液体か分からない三次元のものが存在し、それが幽霊であり、幽霊が…となっていくと、私はそれでは偶像崇拝の一種のように感じられるのです。


『ロゴス』としても、主イエス・キリストの完璧さはほとんど損なわれないように思うので、私はとりあえず今現在「主イエス・キリストは言葉に近いものと考えているが、幽霊みたいなものは信じない」という感じに近いです。


そして、「『言葉』としても、新たに生まれ変わる新世界で、私が主イエス・キリストに選ばれたならば、幽霊を想定しなくても、私は甦えられる」という感じに考えています。


もちろん「言葉であっても奇跡も起こせるはずではないだろうか?別に『言葉』のように考えても、キリストの奇跡も肯定出来るのではないのか?」という、そのように考えています。


なので、私は幽霊とか、ゾンビとかは信用しなくても良いと考えるクリスチャンとして勉強しています。


そして、『山上の垂訓』などの言葉は本当に私が心の拠り所に出来るものと信じています。










長くなりましたが、私はこのように幽霊は信じていない心身一元論者なのだが、主イエス・キリストを信じるクリスチャンとして、「聖書を語り直さなくても」矛盾なく成立させられる、と、そのように考えて聖書を勉強しているクリスチャンです。


なお、時間ですが、もし人間にとっての時間が二次元以上ならば、人間は時間を歩いてタイムウォークのように移動出来る、という変な話になります。


タイムマシーンは空想科学で、人間は(自分自身が都合であの時この時に歩いて移動出来ないならば)、人間にとっての時間は一次元と考えます。


例えば、ナメクジのように前進しか考えられない生物を突然移動させられるのは鳥や人間だから、実体が違うからです。


四次元の実体を持ち、時間を進む五次元の生物がいたら、それは例えば人を突然過去や未来にも移動させられるでしょう。


しかし、人間は自分では時間をあの時この時とは移動出来ないのです。


人間にとっての時間はあくまで一次元だと考えます。


一次元ですから、人間にとっての時間は一本橋で、しかも進むしかない一本橋です。


人間は過去は空想して振り返るしか出来ないからです。


かつて私は一次元以下は人間には不可視であると何かに書いたことがあります。


なぜならば、もし一次元(線)に『幅』があったら、それは例えば『やたら細長い長方形』と、何が違うことになるでしょうか。


つまり紙に書いた線や空想する線には『必ず幅がある』から視覚的に見たような気になります。


しかし、一次元に幅があるとそれは実に細長い長方形(線分)なのです。


インクで書かれた線に至っては、インクの分とはいえ『高さ』まであるので立体です。


0次元も、点に面積があるので「やたら小さい円であり、0次元の点とは違う」のです。


書かれた点に至ってはインクの分とはいえ高さもあるので『やたら小さい円柱』です。


空想の二次元は問題はないでしょうが、しかし紙に書いた三角形なども、インクの分の高さがあるならば三角柱です。


ここまでを西田幾多郎が簡潔に書いた文章が『善の研究』の以下の部分でしょう。


物理学者の言う如き幅なき線、厚さなき面などというのは実在するものではない。この点では、芸術家の方がよほど、実在の真相に達しているのである。


またプラトンの「イデア」も、例えば地上には本当の三角形はなく、模造の三角形で、本当の三角形はイデア界にあって、人間には知り得ない、というふうに書かれています。


つまり、主イエス・キリストがもし言葉で、言葉が一次元ならば、その主イエス・キリストは人間には見えないはずなのです。


視覚化出来ないという証明が成り立ちます。


イエス・キリストに限らず、言葉というものが一次元ならば、それは本当の姿を人の目や空想で『見ることは出来ない』となります。


私はこの関連から、いずれ西田幾多郎の『善の研究』やヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、プラトンのイデア界の哲学と絡めて、主イエス・キリストの「言葉(ロゴス)」についても、想いを巡らせたいと考えています。






















 

 

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