日本にも馴染んだクリスマス、時にはそのキリスト教を考えることが一年に一度はあっていいでしょう。
最近の時代の流れで、イエス・キリストは貴公子でなければならない、なんて考えてないでしょうか。
しかし、もしイエス・キリストが貴公子なら、世界は涙なのではないかと思います。
イエス・キリストは聖なる存在です。
『清い』とはイエス・キリストと共に在ること、それがクリスチャンでしょう。
しかし、イエス・キリストの物語はとても壮絶です。
世界の醜さの中のイエス・キリストの生涯が描かれているのが『聖書』のようです。
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氏子として『 #ゴスペルの力 』 などを聞いてキリスト教の話を聴いてますが、端的に言えば『世界の人々はそもそも原罪を背負う「的外れ」なのだ』と。
その人々を神は責任を持って愛しています。
だから人を救いたいのです。
なので、世界の人々の罪をチャラにする為に、主はイエス・キリストを地上に生まれさせられた。
イエス・キリストはローマ人の罵声を浴びて十字架にかけられます。
そして、キリストは死にますが、それは人々の罪をチャラにするための尊い犠牲だったのです。
キリストが死んで、そして三日後に蘇られた。
それを信じる瞬間に、あなたの罪も神に赦されるのです。
これがキリスト教の教えのようです。
あるいはキリスト教の話自体は空想性があるかもしれませんが、イエス・キリストが実在の人物だったのは歴史的にも事実です。
そして、イエス・キリストは飼い葉桶の干し草の上に生まれ、罪人と共に食事したり、つまり決して潔癖症の貴公子ではないようです。
そもそも『聖書』には『心貧しき者は幸いです、その人たちは天国に入れます』とあります。
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現代日本の感覚では、天国に入れるのは綺麗な坊ちゃん、嬢ちゃんだけのはず、と言い出しかねません。
しかし、天国に入れるのが坊ちゃん、嬢ちゃんだけでは、キリストはなんの為に十字架で犠牲になられたのでしょうか。
キリスト教の教えが『光は光のみを照らすもの』ならば、救い主のキリスト教が成り立たないように感じられます。
世界的にXmasの季節です。
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Xmasプレゼントが楽しみ、Xmasデートが楽しみというみんなが、世界にいます。
キリストはその人々を照らしたいはずです。
『光のみを照らす光』ではないでしょう。
Xmasのチキンを頂く時に、Xmasケーキを頂く時に、我々日本人も、ふとイエス・キリストの物語を思い描いていいと思います。
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