セミリタイア気味に活動する漫画家イラストレーターの日常の徒然、小論文。
ラジオ番組とかで、よく、始まって延々と続いた後に、「今日もこんな感じでお送りします」という一言が出ると、ふと首を傾げます。「ここまではこんな感じ」だったならば、そこまではイミテーションで、見せかけの内容だったのでしょうか。今まで聴いていたものは「感じ」であって、「それ」ではないのでしょうか。ふと、「ムード」という言葉を思い浮かべます。あくまでムードよ、と、それこそそんな感じなのかなぁと、ふと突然シラフに戻ってしまうのです。そのムードということで感じるのが音楽。音楽ってムードです。ムードなので、外すとシラケ具合が半端ではありません。私は、もしこのままムードだけになっていくならば、世界的に未曾有の音楽離れが発生するのでは?と、かなり本気で感じています。かつて、パブル日本はおかしいと感じていたらそのバブルが崩壊した時や、プロレスやプロ野球がテレビからどんどん立場を失ったこと、おかしいと思っていたサイトがいくつも消滅したことからも、音楽が同じになりかねないと思っています。世界的な少子化も影響するならば、若い世代の喜ぶ文化も、どんどんマイノリティになっていくと感じます。人間は、ある一点を越えて下がると、途端に其れは廃れていくように感じます。若い世代それぞれの個人的趣味の部分なので、他人が「お前あれを盛り上げなきゃダメだぞ」と強要するのもおかしな話です。私は、これからの日本は『大しらけ時代』が訪れると予感しています。
私は画家なので、絵のスキルを持っています。基礎デッサンを始めたのは13の時でした。長く絵のスキルが身近なので、私にとって私のスタイルの絵の技術は、当たり前です。毎日描く度に、40キロフルマラソンするような、ヘトヘトになって描いているわけではありません。もちろん疲労はしますが。その絵のスキルを長く、四半世紀以上も当たり前にしてきたので、絵のスキル関連での様々な洞察があります。私にとって当たり前の絵も、出来ない若い方は出来ないうちはいちいち「そんなふうに描けるなんて嘘だ」「イカサマに決まってる」「偽のなにかに違いない」と騒ぐものです。これはスキル系の技を持ってる人は、日常茶飯事で出くわすことでしょう。絵でなくても、会社の先輩がパソコン仕事で難なくやっている『ブラインドタッチ』とか、大学で数学を専攻してる学生さんがスラスラ出来る『線形代数の計算』とか。大谷翔平が打つ20本以上のホームラン、なにかにつけて出来ないビギナーに見受けられるのは「あいつが出来るのは絶対嘘だ」です。私だと大学で教養レベルの心理学を学んだので、初歩的な心理学とかも難なく分かります。プロはそれを極力悔しがらせないように教えはするのですが、何人かいたら数名は「そんなの出来るのが嘘だ」と、非難を始めるのですね。なので、そもそも聖書にも「豚に真珠をくれてやるな。彼らは投げ捨て踏みつけ、あなたに襲いかかってくるだろう」と書かれています。そういうところで、誰かが困難に陥らないようにはしますが、それも心理的な技術です。その事を近頃知ったわけではなく、55年生きてきて、長く見てきて目の当たりにしてきましたが、例えば『幻魔大戦』の江田四郎のようになっていく若者は何人かに1人はいるものなのですね。「民が民に敵対し、国が国に敵対する」とも聖書に書かれてますが、悔しがるというのも、人の罪のひとつでしょう。主イエス・キリストの加護があるように祈る時もあります。
私はネットの、広告漫画家イラストレーターなので、またフリーライターも手がけたので、そもそもとして守秘義務がつきまといます。クラウドソーシングで仕事をすると、何回も守秘義務についての但し書きに出会います。なので、私が漫画家なのは確かみたいだけど、それにしても情報少ないなと感じるでしょう。守秘義務契約だからです。ブログなどで、文法は適当に済ませつつ、ただし守秘義務契約の部分は頭を使います。公開していいか、確認する場合もあります。私の仕事よりハードなのが安保関係のセキュリティクリアランスでしょう。自分の功名心があると、国が危機になるのです。国に反発して、この技術なんて他国に教えてもいいじゃん、商売商売なんて言っていたら、その技術で日本本国にミサイルが撃ち込まれた、など、そうなったら国家存亡の危機です。なにが守秘義務に該当するか、センスの部分もあります。クラウドソーシングでは、そのような感性が磨かれる部分が多いものです。例えば私がブログの仕事をする場合など、いちいち『オノマトペ』は使っていいのか?なんてところまで大問題になるのです。怖いものですね。一方で外勤もしているので、外勤だと様々な景色が観られます。私は今現在受洗に備えたクリスチャンですが、聖書にも「右手のすることをひだりてに伝えるな」とか、難しい教えがあります。聖書も口伝なので、ブログで書くこともありきたりになります。それこそ、断食するならば偽善者のように見せつけてではなく、髪に油を塗って、人知れずでなければ、神様から得られる取り分が減らされるのです。私の仕事などで、守秘義務や秘密と向き合うことは多々あります。
5回の連載目当てに今日も買ってきました。残り2回。3面と少しを読んでますが、やはり私には日経新聞がいいですね。
クリスチャンと言うと清く正しく美しく、と敷居が高そうにみえますが、そもそも主イエス・キリストは「病人のために来た」と言ってます。クリスチャンになるぐらいですから、それぞれに苦しみがあるでしょう。そもそも、赦すというところで「私にその余裕が無い」と絶望しかかりますが、そこでも主イエス・キリストの救いはあるようです。すなわち、赦すのは神様なのです。私は赦せるだろうか。そんなアクロバティックなことは出来ないかもしれない。出来るなんて言ったらさらなる偽善者?『氷点』のような苦悩があるわけですが、私も赦す主を信じて、主の御名でお祈りします。
私が読む記事と、世間で騒がれるニュースの相違に、不安になることが多いです。私が一貫して読み続けている新聞記事のひとつは、台湾有事、それに伴う日本有事に備えての憲法改正。その関連で、今日は中国の公船はどのような動きだったのか、とか、また最近だとセキュリティ・クリアランスのニュースとか。端的に言えば私はまずこれでは?と思っています。しかし世間の関心は『規制法改革案』。大丈夫?と心配になります。不思議なのですが、誰でも自分が外に出たら、街にカッターナイフひとつ程度を持ってウロウロしてる人がいるだけでてんやわんやの大騒ぎだと思います。なのに中国の艦船が現れたとしても、なんの怯えも無いのでしょうか。艦船についてる艦砲の一発は、街をウロウロしてる人が手にするカッターナイフ以上に殺傷力があると思うのですが、例えば尖閣諸島をくれてやるように艦砲に撃たれるまま、それで平和平和と言うのでしょうか。そのようにいくと、例えばどんな武器を持ってるか分からない輩から街を護る警察官から拳銃を無くせとか、警棒を無くせという話になると思うのですが、警察官の命などどうでも良く、つまり武器を持ってウロウロする犯罪者に切りつけられても「これが平和、これが平和」とニコニコしてるのでしょうか。自衛隊というと毛嫌いする方々に、疑問を感じることは多々あります。大砲一発で失われる命が発生した時には、どのような表情をするのかな、と首を傾げます。これは宗教家とか、漫協会員とか、それは置いておいて、普通に当たり前に気づくべきことに思います。セキュリティ・クリアランスのニュースに接すると、あんな不測の事態が生じたらどうなるだろうか、など頭をよぎり、どうも『規制法改革案』のニュースなどに接して、首を傾げることが多いです。ロシアみたいにどこかに攻めに行くために憲法改正を考えてるわけじゃないんだけどなぁと不安になるものです。
今日も日経新聞買って帰りました。早く予算組出来て日経電子版を購読できるといいのですが、頑張ります。
心理学というと、どのネット記事も『タイプ論』です。例えば、私と同じく心理学を学んだ者同士では、これは苦労なく話が進みます。とにかく、大抵の人の話す心理学は『タイプ論』なのです。大抵「モテる男」とか「金持ちになる男」とか「つまり『こういうタイプ』の人」という話なので『タイプ論』なのです。しかし、現実がタイプ論で決まるでしょうか。仕事が出来て成功する人は『タイプ論』に当てはまる人、でしょうか。では、そもそも「努力しても無駄」ではないでしょうか。分かりやすく言えば「理想の社員はA型。A型でない社員はダメ。A型こそ社長、会長になる人」これを読んで、どう思いましたか。A型とかB型とか、それは『血液型類型論』という『タイプ論』です。上を読んで、ふざけるな、と憤慨した人が多いでしょう。つまり、成功する人はタイプで決まるわけではないのです。そもそも、タイプ論というのは、心理学では時代遅れみたいなものです。オールポートという学者が研究した『特性論』の方が現代的です。ただし、これを説明すると話が長くなるので、ここで切り上げます。とにかく、タイプとか条件で成功すると決まってるわけじゃない、と気づけば、「出来が良ければ誰もが喜ぶわけじゃない」というのも気づけるものです。私は昭和44年生まれですが、その私が苦手だなと感じた誰かの言葉に「『てなもんや三度笠』は傑作なんですよ。若い子も絶対てなもんや三度笠を観るべき」みたいな言葉があって、「やめてくれ」とげんなりしました。なんで俺の世代がてなもんや三度笠を観せられなければならないのか。誰でもここで「それじゃ『自由が無い』じゃない」と気づきますよね。そこが分かるか分からないのかは大問題なのです。例えば今の若い子は『ファーストガンダム』とか受けつけないと思います。池田鴻のあの主題歌で、渡辺岳夫のあのBGMで『ジャブローに散る』とか「傑作だろう」と観せられたら、若い子はみんな何も興味持たなくなるのではないでしょうか。他で言えば、『笑っていいとも』。今の子たちに「傑作だから」と『笑っていいとも』を観せるとしたら、それは拷問です。そもそも、何を観るかとか何を食べるとか、それは他人が押しつけるものではありません。こういうところに気づかずに話を進める人は多いのではないでしょうか。私の世代でも、例えば昭和の価値基準で「真面目で、仕事が出来て、道徳を守る女性」とか勧められても、なんかやだなぁとなる可能性が大きいです。分かりやすく言えば、同じ「二葉亭四迷」でも、明治に出版された本を押しつけられて「読め、これが楽しいということだ」と言われても、押しつけられた方は大迷惑ということです。せめて現代版で印刷したものとか、文体が現代的に書き換えられているとか、現代版のドラマ仕立てとか、なにかあればともかく、これでは『温故知新』にもなりません。例えば自分の妻だったらどうですか。条件に合ってるならば俺が勧めた女でいいだろう、では、本人の意向も無視です。明治辺りでは普通だったかもしれませんが。つまり、「質がいい条件が揃っていて」も、嫌なものは誰でも嫌なのです。こういうところで、節度を持って、「あくまで俺の好みの雑談だけど」とでもしなければ、例えばクリスチャンの私の話題が『聖書』になってもある程度読まれるものも、押しつけだったらみんな「なんで聖書?」とため息のはずです。それでは問題だから、私も絵にしろ、他にしろ、配慮して話したり、書いたりしてました。私が学んだ心理学の教授が昔、「理解は誤解です」と教えてました。「それは俺はもう理解しきって、完璧なんだ」と思っているならば、それは『誤解』してるだけ、なのです。例えば臨床心理士が、それをわきまえずに、学校のカウンセリングルームに来た生徒に「安心しなさい。私はあなたの悩みを全て分かってますよ。これであなたは必ず楽になれますよ」では、子どもにしたら「さらなる地獄に導かれるのか!?」とげんなりするかもしれません。なので、条件とか揃っていればいいわけではないのです。
今日は総合病院でした。待ち時間に『日経新聞』をめくる。やはり『日経新聞派』です。
今日は牧師先生との勉強会で『主の祈り』を細かく勉強してきました。主の祈りで難しいのは、私も「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します(マタイ6章12節)」だなぁと感じました。キリスト教は『愛の宗教』と言われるように、様々な愛が私たちに望まれています。有名な「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」がありますが、それを「僕は簡単に出来るよ」と言う方は少ないでしょう。人間関係のトラブルが起きた時に、人はたいてい自分だけを愛します。僕が正しいんだ、アイツらおかしいんだよ、と。しかし、主イエス・キリストは「迫害するもののために祈れ」と私たちに語られています。敵を愛し、迫害する者のために祈るということから「愛とは他人を尊ぶこと」と思い浮かびます。しかし、「他人だけを尊ぶこと」もおかしなものです。「勝ち負け」でなく、祈るぐらいの心境だと、「対等がいい」という感じがします。「愛とは他人が尊ばれることである。そして愛とは自分と他人が共に尊ばれることである」辺りでしょうか。ここから「他人だけが尊ばれたり、自分だけが尊ばれる愛はおかしな話だ」となります。バランスが崩れていると、そのようになっているかもしれないですね。トラブルが起きた時に、激昂した人はたいてい誰かより自分が高いはずだと思っているものです。赦せないアイツよりも俺は上なのだ、と雄弁になるわけです。感情的な怒りという場合は、かなり多くこの形になっているでしょう。被害に弱って感情が高ぶるというのもありますが。しかし、トラブルがあっても、「敵を愛し迫害するもののために祈る」時には、人は「自分と共に相手も尊ぶ状態」が望まれています。頭ではわかっていても、なかなかそう出来る場合ばかりではないものです。例えば「子どもを上手く叱るお父さんお母さん」は、おいたの子どもを前に、このような天の神様と同じようなことが出来ているものです。しかし、大人同士とか子ども同士の間では、アイツふざけてるよ、と憤慨し、なかなか私たちに負い目のある人たちを赦せないものです。私もほとんど出来ませんね。でも「頭」では、敵を愛し、迫害するもののために祈るぐらいならば、この地上にも天国と同じように天国の習わしが行われていることになるよなぁ、とは分かります。神様と同じに出来ない、的外れが人間なので、頭じゃ分かっているけど神様にすがらせてよ、と、祈るぐらいが人間の本当かもしれません。赦す、というひとつのことが、この人間様(?)にとって、すごく難しいものです。そのように神にすがるとはいえ、心に宿る天国を悟ると、いつの間にか「憎いあんちくしょう」のことも、感情のもつれがほどけて、忘れてるかもしれないですね。
今日は牧師先生と勉強会でした。今日は『主の祈り』について。詳しく話を聴いて、奥深さを学びました。受洗に向けて勉強していきます。
私が大学心理学とキリスト教に学んだひとつは、それぞれで「操り人形にしたがる人たちの手口」を教えているということです。これは本当に助かってます。今も、あちこちのSNSにも、操り人形にしたがる勢力は老若男女うようよしてますし、あらゆる広告が心理学を利用して操り人形にしようという勢力です。しかも質が悪いのは、操り人形にしようという意図は一切無く、普通にきちんとしてる人たちのことをさも「アイツらが操り人形にしたがる奴らだぜ」と吹聴してまわってるということです。ではその心理学や聖書に学べる「操り人形にしたがる人たち」はどういう手口を使うんだよ、ということについては、残念ですが教えません。しかし、サタンの目的は、例えば人と神様が信頼し合っていると邪魔なので、人が神様を疑うようにあの手この手を使う、ということです。メディアリテラシーという言葉がありましたが、操り人形にしたがる人たちへの防御のひとつは、反応せずに沈黙していること。私も、主の鞭と杖を頼りに、騙されないようにしようと思います。
時々この竹脇まりなさんの瞑想の動画を観ながら瞑想しますが、今夜も筋トレの後に瞑想しました。『瞑想』竹脇まりなさん【初めての瞑想】毎日10分間で自己肯定感と集中力を高める瞑想◆サブちゃんねる(まりなの日常ちゃんねる)はこちら!https://www.youtube.com/channel/UCaWxkxIcCxVpqH5xSaT33GA◆英語チャンネルはこちら!https://www.youtube.com/channel/UC1zigS-QNOvskIwpAuXNMVwダンス動画の...youtu.beこの竹脇さんの動画の瞑想への導きは出色で、瞑想が何も考えないことではない、感情がわき上がっても構わない、それらを流していくという瞑想の極意が分かります。私はクリスチャンですが、その心境は主イエス・キリストの方向に向いているように思います。クリスチャンはむやみに怒ってはいけないという戒律があります。そのむやみに怒らないとは、ではどんな感じなのか。わきまえている人は主イエス・キリストの言葉で悟りますが、分からない人は分からないままかもしれないですね。この動画を観て瞑想してみると、「むやみに怒らない人は無感情なのではない」ことも分かるかと思います。主イエス・キリストは偶像崇拝を禁じています。それは何故かと言うと、神様は木彫りの木像のような単純なものではない、ということです。主イエス・キリストは人間以上に豊かな心を持っています。自分自身が細やかな心を持っていて、様々に傷つくようにデリケートならば、神様はもっともっと心が細やかで、人以上であるはずです。木像にオーラがみなぎっているような、そのような神様ではないので、偶像崇拝は禁じられているのです。偶像自体が、的外れな姿勢だと感じます。未熟なクリスチャン、プロテスタントですが、修行と言うとまたキリスト教では「違う」となってしまいますが、主を心に想おうと思います。
私は受洗に向けて勉強してるクリスチャンですが、聖書を学んでいる上で、一つだけプロバイダに考慮して欲しいことがあります。先日の勉強会で、すごく気になっていたことを牧師先生にたずねましたが、それは『占い』です。聖書には「まじないをする者は天国に入れない」とはっきり書かれています。となると、占いもまじないなのですから、ブラックのはずです。ではなぜ占いはまずいのか、牧師先生に聴いたら「占いの背後にはサタンが暗躍してる場合があるからです」という答えでした。まぁ普段、妻との話題でも、わいわいと「今日のめざまし占いでしし座は何位」とか話してますが、本来なら信仰の上ではサタンの罠にはめられるかもしれないわけで、占いはまずいわけです。遊びの分にはまぁね、とはいえ、例えばサイトに登録した時に大抵生年月日も入力するわけですが、その使い道で勝手に占いで何座ですね、とか表示されると、それは信仰の道を歩む人にはいきなり蛇かサソリを投げつけるようなものである場合があります。なので、プライバシーの観点から、個人情報の扱いとしても、いつの間にか占いの勢力に巻き込まれかねないことは一考してもらう必要もあるのでは?と感じます。
私は昔はYahooはほとんど評価してませんでした。どことなく、私のニーズに対しては別世界の印象があって、例えばニコニコ関連とかと同じように私には無縁だなぁと特に興味も持たなかったのでした。一応Yメールだけはインストールして、YahooJAPANのアプリも入れるだけ入れてましたが、全く見向きもしてなかったです。ただ、印象が変わったのはYahooのスケジュール帳です。昔一応使ってみて、なんか使いづらくて、やはりGoogleかOutlookだなぁと思ってました。しかしYahooのスケジュール帳がいつの間にかリニューアルしていたのですね。現在のYahooのスケジュール帳はかなり良いです。あとはYahooの知恵袋ですね。良い印象無かったんです。例えば学生でしょうが「スカラーは1次元ベクトルですか」という質問があって、その回答が「そんなのベクトルの初歩でしょう」という感じで、あぁ、こういうハラスメントみたいなのが横行してるのだなぁ、関わらんとこ、という感じでした。せめて「スカラーと1次元ベクトルは似たものに感じますね。その印象をもつのはかなり良いです。スカラーは1次元ベクトルの要素の集合体のようなもので、ベクトルとは微妙に違いますが1次元ベクトルに似てる感じです」ぐらいに答えれば適切だと思いますが「質問してるお前はバカなんだよ」式にティーンに答える態度の人達は馴染めませんでした。なので良い印象が無かったのですが、あえて知恵袋を入れてみて、一部にろくでもない利用者がいるようだが、利用者の皆さん若くて、知りたいという意欲も満ちてると確かめられました。また、知恵袋の大喜利は昔の利用者を統制出来ずに瓦解したAmeba大喜利とか、ろくでもない利用者が多そうな『ボケて』などと違い、良い印象でした。ろくでもない利用者がいるサイトはやはり瓦解するもので、今はあの『質問箱』もアプリが無くなりましたよね。でも、きちんと利用したいユーザーもいると確認出来て、安心出来ました。程々にYahooも利用しようと思います。
久しぶりに新聞の試読版が届いたので、1面を読みました。河北新報は宮城県を中心に多分東北のブロック紙です。宮城県在住なので何回も購読したことがありますね。今の所新聞については都度でコンビニ行く感じですが、予算組出来る時はなにか購読したいですね。
昭和の、アニメブーム前のアニメの主題歌というのも結構自由だったものです。当時のマンガの主人公というのは、ボロボロの垢まみれの服を着て、顔に絆創膏なんか貼ってるような、今のジャニタレ的な時代には想像し難いキャラでした。その主人公の歌なので、『侍ジャイアンツ』とか『国松様のお通りだい』とか『アパッチ野球軍』とか、自由奔放な主題歌でしたね。私はそちらの世代なので、しかもブルーカラーの勤務も長かったので、若い世代とのギャップは大きいでしょうね。まぁどんな歌詞かは調べてみてください。
私は『日経サイエンス』の読者から始まって、『日経電子版』を購読したり『日経ビジネス』を購読したりしてましたが、つくづく感じるのは「経済は物語」ということです。私は日経は情報ではなく『物語』だと思ってみています。そして、その物語が楽しいのです。経済に特化した新聞ですが、経済というのが世の中の様々な方面の物語の集合体なんですね。まぁ会社の社長とかがメインの読者でしょうから、難しいところは難しいのですが、紙面のあちこちに世界の物語が載ってます。また、国際政治についても、結構ずばりと「台湾有事」テーマを取り上げたり、斬り込む時は「中国の工作員」とか、ずばり書きますね。日経のテレビニュースの『ニュースプラス9』や『ニュースの疑問』、『モーニングプラスFT』とか観てると、『既に当たり前のこと』として「国内に工作員がうようよしてる」というところまで話が進んでいます。「工作員なんて言ったら陰謀論なんじゃないの?」ではなく、既に日本には工作員が存在し、そして中国のハイブリッド戦はどのような感じになるかとか、台湾有事について日本が心得ることとか、日経ではもう話はそこまで進んでいるのです。その切り口なので、難しい問題もあるのでしょうね。時にはあえて報道してないな、というところもありますが、日本の保守勢力としても注目の記事が多いです。難点は社長レベルがターゲットなので高いです。それでも、見出しを見てるだけでも日経新聞から様々に世界の動きが分かります。私は今現在は予算不足で『電子版』の購読はしてませんが、オードリーや女優さんのコマーシャル通りに、日経から動くと強い部分があるので、新社会人の方は予算があったらどれかを購読してみてはいかがでしょうか。
先日、小学館の無料配信でダウンロードした三浦綾子の『氷点』を2章まで読みました。1章は会社の昼休みに読みました。三浦綾子の名前は若い頃から知ってます。三浦綾子の『旧約聖書入門』『新約聖書入門』は今も本棚にあります。『氷点』のタイトルをもじって始まった娯楽番組が『笑点』です。その当時の日本のムードなので、今の若い方は驚くでしょう。私は昭和生まれなので、幼い頃を思い出して、懐かしいなぁと読んでます。『白い巨塔』とか、あの頃の日本を眺める感じで、読了しようと思います。
神にすがる人間ですから、苦手はもちろんあります。苦手があって、的外れだから主イエス・キリストにすがるのです。私は無口なので、一言居士の相手はとても疲れます。例えば敗戦した将の敗戦の弁とかは、大抵引き際を踏まえてマシなのですが、勝った将軍の一言居士は耐え難いものです。私も10代の頃に会社を辞めたり、敗軍の将になったことはいくらでもあります。人は不完全で的外れですから、敗戦になれば悔しさや無念さがあるものです。それすら無いというのはどれだけの偽善者でしょうか。勝った勝ったと浮かれる一言居士の相手とか、うんざりするものですが、私は主イエス・キリストにすがり、静かに祈ろうと思います。