前回、我々はAIの心について考察する中で人間の心そのものの実在についても問いを立てた。しかし、その問いは多くの読者にとって理解しがたいものだったかもしれない。「私は私である。私は自分を私として意識している。この私が単なる錯覚だなどとは到底思えない。『我思うゆえに我在り』ではないか。」そのように感じた人も少なくないだろう。

 

しかし、私が問いたいのは心が存在するか存在しないかということではない。「心が存在する」と言うとき我々は何を述べているのか。つまり、「存在する」という言葉の意味とそれを用いて判断する根拠とはいったい何なのか。ここで注意すべきことは、「存在する」と言えるかを問うことと「存在しない」と主張することは同じではないということである。私は肯定と否定を選ぶ以前に、その両方の判断で使われる概念に目を向けたい。

 

そこで改めて問いたい。いかにして「我思う」から「我在り」を導き出すことができるのか。自分を自分として意識しているという確信から、何をどのような意味において「存在する」と言えるのだろうか。デカルトは「我思うゆえに我在り」を通常の三段論法によって証明されるものだとは説明していない。「考えているその場で自分が存在せずに考えることはできないもので、直接かつ明白に分かるものだ。」と説明している。 しかし、その説明によって存在が確かめられるとしても、それによって、「存在」という概念の意味まで明らかになったのかどうかは別に検討しなければならない。

 

ここでは、直接捉えられたとされる「存在」とそれを「存在を捉えた」と判断する際に用いられる概念を区別する必要がある。私が問題としているのは後者である。何かを直接捉えたとして、それを「存在を捉えた」と言うためにはそもそも何をもって「存在」と言うのかが理解されていなければならない。したがって、「存在」とはどういう意味かと問われたときに、「私は存在を直接捉えた」と答えるだけでは説明は足りない。直接捉えたという経験によってその言葉の意味の何が明らかになったのかを示す必要があるからだ。捉えたものの確かさを強調することとその概念の意味を説明することを同じものとして扱ってはならない。

 

「私は存在しないのではないかと疑うことはできても、その疑っている自分まで存在しないとは言えない。」という応答についても同じ問いが残る。この応答は疑っている自分の「存在」を否定できないという説明である。しかし、私が尋ねているのはその説明で使われる「存在る」が何を意味するかである。否定できないことを示すだけでその意味も明らかになったことになるのだろうか。また、「現象が存在することと現象から独立した実体が存在することは区別すべきだ。」という説明もある。しかし、私はここで存在するものの種類を分類しようとしているのではない。その分類にも使われている「存在」という概念自体を検討したいのである。

 

ここで私が問題にする「実体」は、「実際に存在するもの」という捉え方である。それは、「実際には存在しないもの」との対比によって語られる。しかし、「存在する」という肯定にも「存在しない」という否定にも「存在」という概念が使われている。したがって、「独立した実体は存在しなくても現象は存在する。」と答えても、それだけでは「存在」を認める対象を変えたという説明にとどまらざるをえない。そこで「存在」の意味がどのように明らかになったのかはなお問わなければならない。

 

では、「痛みがある」「机がある」といった日常の言葉を調べればよいのだろうか。我々がそうした言葉を使っていることや人々がそれに応じて行動していることを指摘するだけではここでの問いへの答えとしては十分ではない。ただし、日常の使い方を詳しく調べることまで退ける必要はない。どのような場面で「ある」と言い、どのような場合にその発言を訂正するのか。何を根拠に「ある」と判断し、その判断によって何を認めているのか。こうした分析を通じて概念の意味を明らかにする道は検討できる。

 

問題は、説明の中で「存在する」という言葉を使ったこと自体ではない。その説明によってその言葉の意味について何が分かったのかである。「存在」の確実性を述べたり「存在する」と認める対象を分類したりすることから、概念の意味まで説明されたと受け取ってよいのか。私はその点を確かめたい。もちろん、「存在」の哲学的定義が完成するまでは一切の発言ができないと言いたいのではない。ただ、「私の心が存在する」と主張するとき、その言葉によって何が述べられているのかを明確にする必要があると言いたいのである。

 

AIに心があるかを問うときも人間に心が「ある」かを問うときも、我々はすでに「心が存在する」という表現を理解しているつもりで議論を始めている。しかし、その理解の中身は何なのか。「存在する」とはいったいどういう意味なのか。心の実在をめぐる議論をその言葉自体への問いにまで進めたいと思う。