文明は自分の成功によって壊れていく
──便利さと不老不死をどこまで求めるのか──
「私たちは地球温暖化を止めたい」と言う。その一方で、「もっと便利に、もっと快適に、もっと自由に暮らしたい」とも言う。欲しいものはすぐ届いてほしい。移動に時間をかけたくない。暑さも寒さも我慢したくない。一つひとつの願いには理由がある。誰かを傷つけたいわけでも、地球を壊したいわけでもない。しかし、地球への負担は私たちの善意を理由に消えてはくれない。
文明は人間の願いをかなえることで発展してきた。その成功がさらに大きな願いを生む。昨日まで十分だったものが今日は不便に感じられる。私が疑っているのはこの終わりのなさである。
私は便利さを少し手放している
私は、外食やコンビニ、自動販売機や自家用車の利用、そして肉類、特に牛肉の消費を減らしている。また、過剰包装や使い捨て商品を避け、食べ残しをしないようにしている。なぜなら、外食・コンビニ・自販機は包装材・輸送・店舗運営エネルギーが多く、家庭調理より環境負荷が高い傾向があるからだ。例えば、自家用車の利用を減らすと1kmあたり約200gのCO₂排出量の削減効果があるし、肉類、とくに牛肉は、鶏の約10倍、豆類の約20〜30倍と、食品の中で最も温室効果ガス排出量が高いし、過剰包装・使い捨て商品の回避はプラスチック廃棄量の削減に直結するし、日本の食品ロスは年間約500〜600万トンもあり、食べ残しをしないなら個人レベルでも確実に効果がある。
もちろん、これらの選択がすべて同じように温暖化防止に必ず役立つとは言わない。効果は何に置き換えるかによっても変わる。私自身確かめて見直す必要がある。それでも、買う前、使う前に、一度立ち止まりたい。「できるから使う」「買えるから買う」という生活を、当然のものにしたくないからだ。
私も文明の恩恵を受けている。この文章を書くためにも、電気と機械を使っている。だからこそ、自分が依存しているものを、自分で問わなければならない。
節約した資源でさらに消費するのか
技術が進めば、一個の商品をつくるための資源や、一回の利用に必要なエネルギーを減らせる。それは必要な進歩である。しかし、安く、速く、簡単になったことで、利用する量まで増えたらどうなるのか。一回の配送の負担を減らしながら以前より何度も注文する。一台の機械を省エネにしながら家の中の機械を増やす。移動を効率化しながら、もっと頻繁に、もっと遠くへ行く。効率がよくなったことと全体の負担が減ったことは同じではない。
技術が生み出した余裕を私たちは何に使うのか。地球への負担を減らすために使うのか。それとも、さらに多くを消費するために使うのか。「もっと効率よく」という問いには答えても、「どこまでで十分か」という問いを避け続けるなら問題は残る。
文明が自分の成功によって壊れていくとすれば、その危険はここにある。
死にたくないという願いにも限界はあるのか
この問題を極端な形で示すのが不老不死への願いである。
病気を治すこと、苦痛を減らすこと、健康に生きられる時間を延ばすことには大きな価値がある。私自身もその恩恵を受けたい。しかし、その願いをどこまでも延ばした先に何があるのか。ここで、誰も一切死ななくなり、その後も子どもが生まれ、人類が地球上で暮らし続ける世界を考えてみる。
出生が続けばその分だけ人口は増える。増え方は出生の条件によって異なるが、人口と資源への要求が増え続けるなら、有限の地球で何をどう分けるかという問題は避けられない。そこで、「出生を制限すればよい」と答えることもできる。だが、その答えは何を意味するのか。すでに生きている人が生き続けるためにこれから生まれる人の数を制限するのか。その決定を誰が行い、誰に適用するのか。長く生きる技術が一部の人にしか届かなければ、その人たちが資源や地位を長く占め続ける可能性をどう扱うのか。死を克服する技術ができたとしても、こうした問題まで自動的に解決されるわけではない。
一人の「死にたくない」は切実である。しかし、すべての人の願いを無条件に積み重ねても、世界が成り立つとは限らない。
悪意がなくても世界は壊せる
誰かが文明を破壊しようとしているという話ではない。
企業は便利な商品を売る。消費者は快適な生活を求める。医療は人を救おうとする。どれもそれぞれの立場から見れば理解できる行動である。それでも、その積み重ねが生活を支える条件を損なうことはありうる。しかも、便利さの利益を受け取る人と、その負担を引き受ける人は、必ずしも同じではない。今ここで得られる快適さの代償が、遠くの人や、これから生きる人に回されることもある。その代償が見えにくければ、私たちは「誰にも迷惑をかけていない」と思いながら消費を続けられる。
文明にとって恐ろしいのは破壊への悪意だけではない。自分たちの願いをかなえることに夢中になり、その代償を見なくなることである。
私たちは何を諦められるのか
必要な医療も、生活を支える便利さも、すべて捨てればよいという話ではない。負担を減らす技術や制度も必要である。しかし、それらを理由に、「もっと欲しい」という要求を無条件に正当化することはできない。技術が何とかしてくれる。そのうち誰かが解決する。そう期待している間にも、私たちは次の便利さを求めている。
地球の限界を認めるとは、自分の願いにも限界を設けることではないのか。何を残し何を手放すのか。誰が利益を受け誰が負担を引き受けるのか。その判断を避けたまま、文明を持続させることはできるのだろうか。
私たちは地球を守りたいと言う。そのために、自分が欲しいものをどこまで諦められるのか。
