「個人」は時間の中でつくられる
ここで、「私」という感覚について考えてみたい。ここでいう「個人」とは、過去から未来まで続く一人の「私」として、自分を捉える感覚のことである。
人間は、生まれた瞬間から、大人と同じように「過去から未来へ続いていく私」を意識しているわけではない。幼児は成長するにつれて、鏡に映った自分を自分だと認識し、自分自身を一つの存在として捉えるようになる。しかし、それだけで「個人」という感覚が完成するわけではない。やがて幼児は、「昨日の私」、「今日の私」、「明日の私」を、時間を越えて続いている一つの「私」として理解するようになる。
このような自己の理解には、記憶、言語、他者との会話、そして過去・現在・未来を結びつける能力など、さまざまな要素が関係していると考えられている。言語もその一つである。
「〜したあとで」、「〜する前に」、「もし〜したら」といった表現を使うことによって、私たちは出来事を目の前の現在だけではなく、過去や未来の中に配置することができる。ただし、ここで注意しなければならないことがある。「言語が時間意識を一方的につくり出す」とまでは言えないのだ。むしろ、時間について考える能力と言語による時間表現は、互いに影響しながら発達していくと考える方が妥当だろう。
未来の自分を想像するということ
時間の中に自分を置くことができるようになると、人間には不思議なことが起こる。
まだ存在していない「未来の自分」を想像できるようになるのである。「来年の自分」、「十年後の自分」、「老人になった自分」、そしてその延長線上には、「いつか存在しなくなる自分」も現れる。もちろん、人間が死をどのように理解し、いつから恐れるようになるのかは単純ではない。「死が元に戻らないこと」、「すべての生命に死が訪れること」、「死によって身体の機能が停止すること」などを、子どもは成長しながら徐々に理解していく。
したがって、「個人という概念を持った瞬間に死を恐れるようになる」と単純に言うことはできない。しかし少なくとも、「時間の中を持続する自分を想像できることによって、自分自身の死を『未来の出来事』として考えることが可能になる」とは言えるのではないだろうか。
ここでもう一度ピダハンを考える
ここで、ピダハンに戻ってみよう。
ピダハンについては言語学者ダニエル・エヴェレットが非常に興味深い報告をしている。彼によれば、ピダハンの文化には、遠い過去や未来について抽象的に語ることよりも、話し手自身、あるいは身近な人が直接経験したことを重視する傾向がある。
また、ピダハン語には英語や日本語で普通に見られるような文の埋め込みが存在しないと彼は主張しているが、この点については言語学上の大きな論争があり、ピダハン語にも埋め込み構造が存在すると考える研究者もいる。
したがって、「ピダハン語には複文がない」ということを確定した事実として議論を進めることはできないし、ましてや、「複文がないから時間を抽象化できない」、「時間を抽象化できないから個人概念がない」、「個人概念がないから死を恐れない」と結論づけることもできない。そこまでの因果関係は、現在の研究では証明されていないからである。
それでもピダハンから考えられること
では、ピダハンの話は意味がないのだろうか。私はそうは思わない。むしろ重要なのは、もっと弱く、しかしもっと本質的な問いである。それは、「人間はどの程度まで未来を想像して生きる必要があるのか」という問いである。
私たちの社会では、未来を考えることはほとんど無条件に良いこととされている。例えば、「将来のために勉強する」、「将来のために貯金する」、「老後に備える」、「企業は五年後、十年後の成長を計画する」、「国家は将来の経済成長率を予測する」などである。このような未来を想像する能力は間違いなく人間に大きな力を与えた。文明も科学も、この能力なしには現在の姿にはならなかっただろう。しかしその能力には別の面もある。
未来を想像できるからこそ、「現在よりもっと豊かな未来」、「もっと長い生命」、「もっと大きな経済」、「もっと便利な社会」を際限なく想像することもできる。
有限な世界に無限を投影する
ここで私は一つの仮説を立ててみたい。
人間は、時間を抽象的に捉え、遠い未来を想像し、その未来の中に自分自身を置くことができる。その能力によって自分の死も想像できる。
同時に、「終わってほしくない」、「もっと続いてほしい」という願いも生まれる。そこから直ちに「無限」という概念が生まれると断定することはできない。しかし、未来を際限なく延長できる人間の想像力が、「無限」を魅力的なものにしている可能性はないだろうか。
そして、その欲望を私たちは自分の生命だけでなく、「無限の豊かさ」、「無限の資源」、「無限の技術進歩」、「無限の経済成長」、「無限の消費」というふうに、社会全体へと拡張してきたのではないだろうか。
ただし、個人の願いがそのまま社会全体の成長につながるわけではない。そこには、成長を望ましいとする価値観や、利益の拡大を求める経済の仕組みも関係するだろう。そうした仕組みの中で、未来を広げようとする願いが、成長を際限なく求める方向へ向かっているのではないだろうか。
ここで問題になるのは人間が無限という概念を持つことそのものではない。数学における無限も、想像力としての無限も、人間の知性が生み出した大きな成果である。問題なのは、「有限な現実世界の中に、無限をそのまま実現できると思い込むこと」ではないだろうか。
「無限性の幻想」とは何か
そう考えると、石油文明を支えている「無限性の幻想」の正体も少し見えてくる。それは「無限」という概念そのものではない。「有限な地球の上でも、資源の消費を増やしながら成長をいつまでも続けることができるという思い込み」である。
「資源は有限である」、「地球も有限である」、「人間の身体も有限である」、「人生も有限である」。それにもかかわらず、「経済だけは成長し続ける」、「消費は増え続ける」、「技術がすべての限界を突破してくれる」。そう考えるところに幻想が生まれる。
経済的な価値が増えることと、資源の消費量が増えることは、同じではない。ここで私が問題にしているのは、資源の消費を際限なく増やし続ける成長である。
無限を捨てるのではなく、有限を取り戻す
だから、私たちが捨てるべきなのは「無限」という概念ではない。未来を考えることでもない。科学技術でもない。必要なのは、「自分たちが有限な世界の中に生きているという感覚を取り戻すこと」ではないだろうか。
「人間は有限である。生命は有限である。資源は有限である。地球は有限である。」
有限であることは不完全であることではない。それはこの世界のあり方そのものである。ピダハンから私たちが学べるものがあるとすれば、彼らと同じ生活をすることではない。未来を捨てることでもない。もしかするとそれは、「現在を犠牲にしてまで未来を無限に拡大し続けなければならないのか」と問い直すことなのではないだろうか。
無限を夢見る文明から有限であることを引き受ける文明へ
「無限性の幻想」から目覚めるとは、無限を考えなくなることではない。「有限な世界では、資源の消費を際限なく増やし続けることはできない」。その当たり前の事実をもう一度受け入れることではないだろうか。
