無限性の幻想について

 

 私たちは、どこかで当然のように信じている。欲しいものは手に入り、成長は続き、技術は問題を解決し、世界はより良くなっていくはずだと。それは明示された信念ではない。むしろ、疑われることのない前提として、静かに私たちの思考と生活の底に沈んでいる。だが、その前提をあえて言葉にすれば、こうなるだろう。——「この世界は、いくらでも拡張できる」、と。

 

 ここにあるのが、「無限性の幻想」である。もちろん、私たちは理屈では知っている。資源は有限であり、時間は限られており、身体には終わりがある。それにもかかわらず、私たちの振る舞いは、それとは別の前提に従っている。欲望は抑えられるべきものではなく、むしろ展開されるべきものとして扱われる。生産は拡大し続けることが望まれ、成長は止まることなく続くものとして語られる。このとき、有限性は否定されているのではない。ただ、見えにくくなっているのである。

 

 「無限性の幻想」とは、存在しないものを信じることではない。むしろ、存在している制約を前提から外すことで成立する。そこでは、「限界があるかどうか」は問題ではなくなり、「まだ限界に達していない」という事実だけが残る。そしてその「まだ」という感覚が、やがて「どこまでも」という感覚へと滑り込んでいく。だが、ここで立ち止まる必要がある。このような感覚は、人間にとって本当に普遍的なものなのだろうか。

 

 たとえば、ピダハンと呼ばれる人々の社会では、私たちが当然と考えているような未来への拡張的な視線はほとんど見られない。彼らは遠い未来を前提とせず、抽象的な体系を積み上げることもなく、「今ここ」に強く結びついた生活を営んでいると報告されている(ダニエル・エヴェレット)。そこでは、拡張はあくまで現在の延長にとどまり、「無限に続くもの」として構想されることはない。この対照は示唆的である。もし無限性への志向が人間の本性であるならば、それはどの社会にも同じように現れているはずだ。しかし現実にはそうではない。だとすれば、問題は人間そのものではなく、世界の捉え方の方にあるのではないか。

 

 近代以降、私たちは世界を対象として切り分け、操作し、改善していくことを当然の態度としてきた。自然は理解され、制御され、利用されるべきものとみなされる。そしてその延長線上で、「より多く」「より速く」「より効率的に」という価値が形成されていく。このとき、拡張は単なる選択肢ではなく、ほとんど必然の方向として現れる。やがてその方向性は制度の中に組み込まれ、個々人の選択を超えて作動するようになる。成長し続けることを前提とする仕組みの中では、拡張を疑うこと自体が困難になる。無限性は、信じられているというよりも、前提として要求される。そしてその前提は、日常の細部にまで浸透している。