ピダハンの世界⑼
前回の事例の解説に基づき、ピダハン世界の理解とその意味を探ることにする。
ピダハンの死生観は、単なる未発達ゆえの諦念ではない。報告によれば、彼らは死を人間が制御し得ない自然の摂理として、驚くほど能動的に受け入れている。それは、老化の克服や未来予測に狂奔し、死を「克服すべき敗北」と定義してきた我々西洋近代文明の歩みとは、文字通り対極にある。
我々の文明は、医学や科学技術を駆使して生命の危機を回避し、時間を線形的な「進歩」の物語として組織してきた。そこでは、乳児死亡率の低減や平均寿命の延伸が絶対的な価値とされる。しかし、ピダハンの前では、こうした我々の「自明な正義」は効力を失う。彼らにとって重要なのは、直接体験し得る「今、ここ」の充足であり、未来の死への恐怖や、それを回避しようとする抽象的な試行錯誤は、生の実感から遠い空虚な営みに映るだろう。
一見すると、過酷な自然環境に身を置く彼らの生き方は、我々には受け入れがたい「価値の低いもの」に思えるかもしれない。しかし、その評価自体が、生存の長さや快適さを善とする我々の限定的な価値観に依存していることに自覚的であるべきだ。ピダハンの生活様式を我々の尺度で裁くことは、彼らの固有の精神性を踏みにじることに他ならない。
宣教師であったエヴェレットが信仰を捨て、ピダハン社会に幸福を見出したという事実は、彼らの文化が優れているという短絡的な証明ではない。むしろ、西洋的な「救済」や「未来への投企」という概念を全く必要とせず、完結した精神世界を持つ人間が存在し得るという厳然たる事実の提示である。
我々は、ピダハンを容易に理解することはできない。なぜなら、彼らを理解しようとする我々の思考のツール(論理・時間観・進歩の概念)そのものが、彼らの拒絶する対象だからだ。しかし、この「理解の不可能性」に直面し、あえて思考を停止させることで初めて、我々は自らの文明が抱える限界を浮き彫りにできる。
科学技術による問題解決を信奉する我々の文明が、今まさに崩壊の兆候を見せているとするならば、我々がなすべきはピダハンを「分析」することではない。彼らという「鏡」に映し出された、死を拒絶し、現在を蔑ろにしてきた我々自身の姿を、ただ厳粛に顧みることではないだろうか。
