ピダハンの世界⑺
前回はエヴェレットによるピダハンの世界をまとめたが、今回は、鍵概念である「イビピーオ」によってピダハンの世界の説明を試みることにする。
ピダハンの世界は、「何があるか」という問いではなく、「何が知覚に入ったか/出たか」という出来事の境界によって組み立てられている。その鍵概念が、ダニエル・エヴェレットが報告したイビピーオである。イビピーオとは、出来事そのものや対象の同一性を指す概念ではなく、出来事が知覚の中に「現れる/消える」という経験の切れ目を捉える枠組みである。
このイビピーオという枠組みが支配する世界では、我々が前提としている「対象が世界のどこかに持続的に存在する」という存在論は弱まる。重要なのは、世界に「ある」かどうかではなく、今まさに経験の中に「入ってきている」かどうかである。そのため、世界は固定的な実在として把握されるというよりも、つねに更新され続ける知覚の流れとして現れる。
そして、この世界では、死の意味も我々のそれとは異なる。死はある存在が世界から消失する出来事というより、知覚の流れからその人の経験が抜け落ちる転換点として理解される。そして、死後の持続的な存在や抽象化された霊魂の存続といった観念が重視されにくいのは、イビピーオが示すように、世界理解の単位が「存在」ではなく「経験の出入り」に置かれているからだ。
ただし、ここで注意すべきなのは、この説明自体が、我々の存在論的枠組みを用いてイビピーオを翻訳しているにすぎないのではないかということである。つまり、我々の世界認識が「存在」という概念を中心に編成されているのだと考えるならば、この概念は、「世界そのもの」の構造というより、我々の言語と認識の様式が選び取った一つの解釈にすぎないわけで、我々の世界認識の基礎である「存在」という概念が我々の色眼鏡であるのなら、ピダハンの世界は「存在」という概念を用いずに説明しなければならないことになるからだ。しかし、これは可能だろうか。
しかし、イビピーオによってピダハンの世界を説明するという試みは、「存在」という概念を用いずに説明するということを意味しているが、この試みは単に彼らの世界の説明可能性の追求だけを意味しているのではない。「世界は『存在』によって成り立っている」という我々自身の前提を相対化する作業をも意味している。すなわち、ピダハンの世界を異質な世界だと考えるのではなく、むしろ、我々が当然視してきた存在概念による世界理解自体が数ある世界解釈の一つにすぎないと考える可能性もあるのだ。なぜなら、彼らの世界を異質な世界だとみなす立場は、同時に我々の世界を正当な世界だとみなす立場に立つこと意味しているが、この正当性の根拠は全く証明できないからである。
このように考えるなら、「世界が存在するか」という問い自体が、ピダハンの世界では成立しない。成立するのは、「いま何が知覚に入っているのか」「それはどのように去っていったのか」という問いである。存在は説明の前提ではなく、我々の側が持ち込んだ解釈装置にすぎない。したがって、ピダハンの世界を存在概念なしに説明するということは、彼らの世界を「欠如した世界観」として描くことではなく、むしろ、我々の存在論的世界観の方を相対化し、「世界の捉え方には複数の編成原理がありうることを認める」というパラダイムシフトを意味しているのだ。
この説明は、一見すると、我々が今直面している課題――すなわち「存在」という色眼鏡を外してピダハンの世界を理解しようとする試み――を理解しているように見える。しかし実際には、我々はこの課題をほとんど理解していない。というのも、「存在という概念を用いずに説明する」と言った瞬間、すでに我々は「存在という概念がある世界」に軸足を置いたまま、一歩引いて眺めているにすぎないからである。そこでは、なおも「『存在』しない仕方で世界を説明する」という枠組みが温存されており、存在概念は否定されつつも、思考の地平からは消えていない。これは、存在の枠組みを脱したのではなく、存在の枠組みを反転させただけに過ぎない。さらに言えば、イビピーオを「存在に代わる概念」として理解した瞬間、我々はそれを我々の概念装置の中に回収してしまっており、ダニエル・エヴェレットの報告に依拠しつつピダハンの世界を語る我々は、結局のところ、「異なる世界認識を持つ他者」を理解しているのではなく、「理解できるかたちに変換された他者像」を理解しているにすぎないのだ。
この意味で我々が直面している本当の問題は、「ピダハンの世界をどう説明するか」ではない。むしろ、「説明しようとする我々の側の思考の枠組みそのものが、どこまで問いに耐えうるのか」という問題なのである。ピダハンの世界は、我々の理解の対象であると同時に、我々の理解能力そのものを試す試金石になっているのだ。
ここで我々は、このジレンマを回避するために、「ピダハンにとっては、『世界は存在するのでもなければ、存在しないのでもない』のではないだろうか。」という問いを立てることにする。それは、世界が「あるか、ないか」という問いの形式自体が、すでに我々の存在論的枠組みに依存しており、ピダハンの世界認識にはそもそも適用されない可能性があり、この問いを立てることによって、「存在/非存在」という二項対立そのものを相対化することが可能になると考えるからである。
しかし、この転換によって、我々は「存在という色眼鏡」を外したと考えることはできない。なぜなら、そもそも「色眼鏡をかけている/外している」という発想自体が、我々固有の問いの立て方であることだからだ。したがって、このジレンマの回避とは、ピダハンの世界を正しく説明するためではなく、「正しく説明する」という発想そのものの位置を問い直すことにすぎないのだ。しかし、問題は解決するどころか、いっそう不可解なものになった。なぜなら、「存在するのでも、存在しないのでもない」という言葉の意味を、我々は原理的に理解できないからだ。
我々の思考は「ある/ない」という対立を前提に組み立てられている。この二項対立は単なる言語表現の癖ではなく、世界を把握するための基本的な枠組みそのものである。したがって、「存在するのでも、存在しないのでもない」という表現は、我々の理解可能な意味空間の外側に落ち込んでしまう。それは神秘的だから理解できないのではなく、我々の理解装置がその問いの形式自体を処理できないから理解できないと考えるべきだろう。
この点で、イビピーオをめぐる議論は、単なる異文化理解の問題を超えている。ダニエル・エヴェレットの報告を手がかりにピダハンの世界を語るとき、我々はしばしば「存在に代わる概念がある」と考えてしまう。しかし実際には、そこにあるのは「存在に代わる概念」ではなく、「存在/非存在」という問いの立て方そのものが成立しない世界認識である可能性が高い。にもかかわらず、我々はそれを理解可能な問いの形に翻訳しようとする。その翻訳の過程で生じるのが、この「存在するのでも、存在しないのでもない」という、我々にとって意味を結ばない言い回しなのだ。
したがって、ここで露わになっているのは、ピダハンの世界が不可解だという事実ではない。むしろ、不可解なのは、我々の理解の形式がきわめて限定的であるという事実である。ピダハンの世界は、理解できない対象として我々の前に立ちはだかっているのではなく、我々の思考の枠組みそのものの限界を、静かに露呈させているのである。
しかし、少なくともここで言えることは、この言葉の意味の理解にこそ、ピダハンの世界の理解への扉を開く可能性があるのではないかということだ。ただし、その「理解」は、もちろん我々の概念装置の内側で意味づけることではない。もし「存在するのでも、存在しないのでもない」という言葉を我々の二項対立の枠組みの中で解釈し直そうとするなら、それは結局、「第三の存在様態」や「曖昧な存在」といった形で回収されてしまうだろう。しかしそれは、ピダハンの世界認識を理解したことにはならない。むしろ、理解できないものを、理解可能なものへと歪曲化したにすぎないのだ。
ここで求められていることは、意味を「翻訳する」ことではなく、意味が成立する前提そのものを問い直すことである。ダニエル・エヴェレットの報告を手がかりにすれば、ピダハンの世界は、存在論的問いによって編成された世界ではなく、出来事が知覚に入っては去っていくという経験の運動によって編成された世界として立ち現れる。したがって、この言葉の意味を理解するとは、「存在/非存在」という問いがそもそも立たない世界のあり方を、我々の思考の限界として引き受けることにほかならない。言い換えれば、ピダハンの世界が理解可能になるのは、彼らの世界を理解したと感じた瞬間ではない。むしろ、我々の理解がどこで行き詰まるのかをはっきりと引き受けた瞬間なのである。
ではどうすればその瞬間に遭遇できるのだろうか。結論から言えば、それに到達するための確実な方法は存在しないだろう。なぜなら、その「瞬間」とは、ある理解に到達することではなく、理解しようとする我々の枠組みが破綻する地点そのものだからである。したがって、それは技法によって獲得される知ではなく、思考が自らの前提につまずく経験として偶発的に訪れると思われる。それでも、そこに近づくための試みは考えられるだろう。
第一に、ピダハンの言語や実践を、我々の概念に翻訳する衝動を意識的に抑制すること。理解できる形に回収したくなった瞬間に、「それは本当に彼らの世界なのか、それとも我々の安心のための解釈なのか」と問い返す態度が必要になる。ダニエル・エヴェレットの記述を読むときも、それを「分かった」と感じた瞬間こそが、最も疑うべき瞬間である。
第二に、「分からなさ」を欠如や失敗として処理しないこと。分からないという感覚は、単なる理解不足ではなく、異なる世界編成原理に触れた痕跡かもしれない。そこでは、理解の不成立そのものが理解に最も近い地点になっていると考えるべきである。
第三に、自分たちの思考の前提を可視化し続けること。「存在」「世界」「意味」「理解」といった語が、どのような前提の上で使われているのかを点検し、それらを一時的に宙づりにする。これはピダハンを理解するためというより、むしろ我々自身の世界認識の癖を暴く作業である。
