ピダハンの世界⑹
ここまでの議論を踏まえて、「我々の世界」との差異に留意しつつ、言語/存在概念/死生観の三つの観点からピダハンの世界を以下に整理する。
まず、ピダハン語は、比較級がない、色名がない、複数形・数量詞が乏しい、接続語がない、完了過去の明示的表現がない、といった特徴を持つとされるが、これは単なる「語彙や文法の欠如」ではなく、連続する経験を切断して保存可能な概念へと抽象化する装置が、意図的に弱められている言語構造だと解釈できる。平易に説明すると、我々の言語は、出来事を比較し、分類し、一般化し、過去へ固定化することで、経験を「知識」へと変換するのに対し、一方ピダハン語は、今・ここで知覚される出来事の手触りをできるだけ失わずに伝える方向へ言語が調整されている。
そして、前掲の「イビピーオ」についての議論が示すように、ピダハンの世界では、対象の同一性や事物の持続的実在といった存在論的前提が前景化しない。つまり、我々は無意識のうちに、「世界はある」「対象は同一のものとして存続する」という存在論を前提にして思考しているが、ピダハンの世界では、『ある』のは「出来事が知覚に現れる/消える」という経験のリズムであって、その背後にある「恒常的実在」を立てる必然性が弱い。その結果、「世界は実在するのか?」「対象は同一のまま存在し続けるのか?」といった形而上学的問い自体がほとんど意味を持たない問いになる。存在は「ある/ない」ではなく、「知覚に入っているか、いないか」として経験される。
そしてまた、我々の社会では、死者は「存在していたもの」として記憶され、死は物語化され、宗教・思想によって「意味づけ」されるのが一般的であり、これは「過去を保存し、概念化する言語構造」と強く関連している。しかし、一方ピダハンの言語構造では、死は過去の出来事として保存されにくいため、死者は「存在していたもの」として強く固定化されず、死は出来事の流れの中で「過ぎ去る」という形をとる。つまり、死は「意味づけられる出来事」というより、「知覚の場から消えていく出来事」として経験される傾向が強い。その結果、祖霊信仰や死後世界の体系的物語といったものが発達しにくくなる。
以上から、我々の世界は、抽象化された概念の世界であり、ここでは存在は「ある/ない」で把握され、死は意味づけられ、物語化され、保存されるのに対して、ピダハンの世界は出来事の流れとしての世界であり、『存在』は「知覚に入る/出る」として経験され、死は保存されず出来事の消失として流れていくのだと思われる。したがって、ピダハンの世界観を単純に「未発達」だと断定すべきではなく、我々とは異なる仕方で世界を切り取る、きわめて首尾一貫した経験様式だと考えるのが妥当である。そしてこの差異は、「文化の違い」というより、言語構造の差異が生み出す「世界の構造の違い」として理解するのが、最も精度の高い捉え方だと思われる。
しかし、以上のピダハン解釈は我々の世界を基準とした解釈であり、我々が理解しているものに引き寄せることでピダハンの世界を理解しようとする試みではないだろうか。実はここに根本的な問題がある。つまり、「我々はピダハンの世界を理解することが可能である。」ということを暗黙の前提としているのだ。果たしてこの前提は正当なのだろうか。
