ピダハンの世界への旅⑸
前回の「ピダハンの世界への旅⑷」において、我々はこの旅に内在する様々な制約を明示した。本稿では、その問題点のうち、とりわけ言語というフィルターがもたらす認識上の制約について、さらに検討を加える。
ピダハン語の研究報告に際し、ダニエル・エヴェレットは、ピダハン語の発話を英語へ翻訳する作業を行っている。未知の言語を研究する以上、翻訳という手続きを避けることはできない。しかし、文化的背景や思考様式の大きく異なる言語間で翻訳を行う場合、そこには避けがたい解釈上の歪みが生じる。
エヴェレットはプロローグにおいて、次のようなピダハンの会話を英語訳として提示している。
“Look! There he is, Xigagaí, the spirit.”
(「見ろ!やつがいる。イガガイーだ。精霊だ。」)
“Yes, I can see him. He is threatening us.”
(「そうだ。やつが見える。俺たちを脅そうとしている。」)
“Everybody, come see Xigagaí. Quickly! He is on the beach!”
(「みんな。イガガイーを見に来い!早く!川辺にいるぞ!」)
これらの英訳には be 動詞(コピュラ)が用いられているが、ピダハン語にはこれに直接対応する動詞は存在しない。もっとも、ここで問題にしているのは、ピダハンが「存在」という概念を持たないということではない。問題はむしろ、英語の文法体系がもつ「存在」や「〜である」という存在論的枠組みが、翻訳の過程で不可避的に持ち込まれ、その結果、ピダハンの発話が存在論的主張であるかのように再構成されてしまう点にある。
たとえば、英語の “There he is” という表現は、「そこに彼が存在する」という存在論的含意を帯びやすい。しかし、ピダハン語の原表現が、我々の理解する意味での「存在の主張」であったのか、それとも単に知覚された出来事の報告であったのかは、翻訳から一義的に確定することができない。この不確定性は、日本語訳においても同様に生じる。
また、ピダハン語には英語の be 動詞に対応するコピュラが存在せず、「存在」や「状態」は、文脈や語順、具体的な行為・知覚の記述によって表現されると言われている。例えば、「川に魚がいる」(There is a fish in the river)はxigí xaho xoí(魚 川 中)、「これは男だ」(This is a man)はti'i hiabii(これ 男)、「彼は幸せだ」(He is happy)はhi xiagá(彼 幸せ)のように、ピダハン語では be 動詞を介さず、「名詞+場所」「指示語+名詞」「主語+形容詞」といった構造によって表現されるのだ。重要なのは、こうした文法形式の差異が、翻訳者の側にある存在論的枠組みを原発話に過剰に投影させる危険性を常に孕んでいるという点である。
この点において、エヴェレットの解釈が直面する問題は、特定の研究者個人の誤りというよりも、異なる言語的枠組みのあいだで理解を試みる際に生じる、より一般的な認識論上の困難として捉えるべきである。「存在」という概念を文法的に明示化する言語を用いる我々は、その枠組みを無意識のうちに翻訳対象へ持ち込んでしまう。この意味で、言語の構造が思考の枠組みに影響を及ぼすことは否定できない。
もっとも、ここから直ちに「他文化の世界認識は原理的に理解不可能である」と結論づけることはできない。むしろ、翻訳を通じた理解は常に暫定的であり、解釈の歪みを自覚しつつ慎重に更新され続けるべき営みである。ピダハンの世界認識を理解しようとする試みは、このような制約を自覚した上でのみ、意味を持ちうるのである。
