ピダハンの世界への旅⑷
以上のようなピダハン研究については、「それは本当に確かなのか?」という疑問が当然生じる。とくに重要なのは、「その研究結果はいかにして確かめられるのか?」という点である。しかし現実には、私たち自身がアマゾンに赴き、ピダハンと長期間共に生活しながら言語や思考を直接観察することは、地理的・制度的・実践的な理由からほぼ不可能である。したがって、私たちの議論は、ダニエル・L・エヴェレットによる研究報告が一定程度正確である、という前提の上に立たざるをえない。
ただし注意すべきなのは、私たちが見ているのは「ピダハンそのもの」ではなく、「エヴェレットという研究者の視点を通して描かれたピダハン像」だという点である。どれほど誠実な記述であっても、そこには英語という言語の枠組みや、西洋的な学問の考え方、研究者個人の問題意識といったフィルターがかかっている。つまり、私たちはすでに“加工されたピダハン像”を手がかりに考えているのであり、そこに歪みが入り込む余地はどうしても残っている。
また、ピダハン研究には構造的な限界もある。私たちは決してピダハンそのものになることはできず、彼らの内側から世界を体験することは不可能である。したがって、どれほど丁寧に研究しても、観察は常に「外部からの理解」にとどまる。この点では、私たちが動物の心の中身を完全には理解できないのと同じように、他者の内面を完全に共有することは原理的にできない。そのため、「ピダハンは『存在/非存在』という考え方を持っていないのではないか」という主張も、厳密な意味で実証することはできない。ただし、彼らが私たちと同じ形で「存在/非存在」という抽象的な概念を定式化していないと仮定すると、彼らの言語の特徴や思考のあり方、生活の仕方、さらには死に対する態度までがかなり整合的に説明できるようになる。
ここで重要なのは、この仮定を「事実だ」と断定することではない。あくまで、ピダハンの文化や思考を理解しやすくするための「説明のための道具」として用いる、という立場である。
さらに、言語と思考は切り離して考えることができないという問題がある。言語が思考を決めるのか、思考が言語を形づくるのかという問いは昔からあるが、実際には両者は強く影響し合っている。もちろん、環境や身体感覚、音楽のような非言語的な思考も人間の認識には大きな役割を果たしていることは明らかだ。しかしそれでも、私たちが世界をどう切り分け、どう理解するかには、言語が深く関わっていることは否定できない。
以上を踏まえると、本考察の目的は、ピダハン社会の「本当の姿」をそのまま再現することではなく、むしろ、ピダハンという他者のあり方を手がかりにすることで、私たち自身が当たり前だと思い込んでいる思考の枠組みを相対化し、その限界を浮かび上がらせることにあると言える。ピダハン研究は、彼らを理解する試みであると同時に、私たち自身の文明的な思考のクセを照らし出す「鏡」でもあるのだ。
